ホーム
バックナンバー
ウェブ連載「巻頭言」
ウェブアーカイブ New
政経東北速報解説版 毎月2回(1・15日)発行
月刊政経東北
政経東北速報解説版
ご挨拶/会社概要
株式会社東邦出版
福島県福島市南矢野目鼓原1-2
TEL:024-554-6101(代表)
FAX:024-554-6103
Email:info@seikeitohoku.com

 「地元で話題になった記事をもう一度読みたいが、図書館に行ってバックナンバーを探すのが億劫」、「書店で売り切れていて買えなかった」という声に応え、昨年反響のあった記事をWEB上で公開することにしました。カテゴリー別に分かれており、下記のカテゴリーから選択して、興味のある記事をクリックすると全文が表示されます。

連載

なぜ、福島は分断するのか(脳神経科学者 伊藤浩志)
 第1回 ―脳科学者が見た原発事故―
 誰もが「正しいのは自分だ」と思い込んでいる

 原発事故から8年。福島でいま、何が起きているのか――立場の違いを超えて、多くの人が指摘するのが「分断」だ。思いは同じはずの被災者同士がなぜ、分断してしまうのか。誰も望んでないのになぜ……。実は、これらのなぜに答えようとするのが筆者の専門分野、脳科学である。最新の研究によると、人間の意志は、脳の無意識的な活動によって方向付けられている。理性の働きは後付けに過ぎず、真の動機は自覚できない。では、なぜ、福島は分断してしまうのか。どうすれば、事態を改善できるのか。半年間の連載で、これらの問いに答えていきたい。長丁場になりますが、どうかよろしくお付き合いください。

 本題に入る前に、次の点を強調しておきたい。分断は、その地域にとって命に関わる重大な健康課題なのだ。住民同士が不信感を抱いている地域では、そうでない地域と比べ、心臓病やがん、幼児死亡率、そして総死亡率も高くなることが、海外の調査で分かっている(kawachi I et al., 1997)。原因はストレスと考えられる。薬物中毒やアルコール依存症の患者も増え、犯罪率も高くなる。地域や家庭に落ち着きがなくなることから、子どもの教育水準も低下する。このことも、間接的に健康状態を悪化させることが知られている。

 原発事故後に高まった健康リスクの原因は、なにも放射性物質だけではない。分断社会は、不健康社会なのだ(Marmot M, 2015)。筆者が分断にこだわる理由は、ここにある。

 それでは、前置きはこれくらいにして、本題に入ろう。

 問題解決のヒントは、8年経ったいま現在まで、専門家の見解がバラバラで、何が本当で、誰の言葉を信じていいのか分からない状態が続いている点に隠されている。バラバラなのは、もちろん放射線被ばくの健康影響に対する見方だ。

根強い情報不信

 あの日、断水のため子どもを連れて、何時間も給水車の前に並んだ。ガソリンの列にも親子で並んだ。そんな混乱が続いていた震災直後の3月15日、放射性プルーム(放射線物質を含む雲)が中通りを通過していたことを、後から知らされた。

 放射性物質は、雨や雪とともに地上に降り注いだ。福島市のモニタリングポストでは、同日午後3時ごろから放射線量を示す空気吸収線量が上昇し始めた。そして、午後7時ごろには、平時の約600倍の毎時24マイクログレイを記録した。

 この数字の意味を理解できた人が当時、何人いただろうか。いまでも、空気吸収線量と1㌢㍍周辺線量当量、そして実効線量の違いを認識している人は、ほとんどいないだろう※1。原発裁判でもなんでも、放射線の異なる3つの性質が、ゴチャ混ぜに同一視されたまま、議論されている。

※1 モニタリングポストで測定しているのは空気吸収線量(0.7倍したのが実効線量)。事故後に学校などに設置され、撤去が検討されているのはリアルタイム線量測定システムで、測定しているものは1センチメートル周辺線量当量(0.6倍したのが実効線量)。放射線の異なる3つの性質が、同じ単位シーベルトで表示されるので、注意が必要だ。

 ともあれ、ものすごい放射線量だったことは確かだ。しかし、翌日の県立高校の合格発表は予定通り行われた。受験生が高校の屋外掲示板に受験番号を確認しに行ったのも例年通りなら、会場で在校生が部活動の勧誘を行ったのも、いつも通りの光景だった。

 新学期の屋外活動は制限されたが、全国中学校体育大会が目前に迫っていた。「やりたい」という子どもの気持ちを優先させて、部活動を許した親もいた。

 被ばくの健康影響が気になったが、テレビやラジオからは、「安全です。ただちに害はありません」という情報が繰り返し流された。しかし、インターネットでは、「危険だから逃げろ」という真逆の情報が流れていた。

 その後、いろいろな噂が耳に入ってきた。テニス部の女子中学生が白血病で亡くなったそうだ。ソフトボール部の女子高校生が乳がんになったらしい。陸上部の男子高校生が白血病で入院したという。屋外で部活動をしていた生徒に病気が多いようだが、気のせいだろうか。運動中に、放射性物質を激しく吸い込んだからじゃないだろうか。

 「私の無知で、いらない被ばくを子どもにさせてしまった。一生、子どもががんにならないか不安を持ち続けることになる」──何年経っても自分を責め続ける母親は多い。複数の意識調査で確認されている。

一貫している国の見解

 県民の多くが不安を抱え続けるこのような状況に対して、国の見解は当初から一貫している。すなわち、住民は、知識不足から放射線被ばくに対して過剰な不安を抱いており、正しい科学知識を身につければ解消できる(以下、「過剰な不安」説)、というものだ。

しばしば論争の種になる、国の正しい科学知識を以下に要約する。

 100㍉シーベルト以下の被ばく量では、仮にがんなどへの影響があったとしても、他の要因による発がんの影響などに紛れてしまうほど小さいため、被ばくによる健康リスクの増加を科学的に証明することは難しい。

 そして、国際機関の調査などで、住民の被ばく量は100㍉シーベルトよりはるかに少ないことが確認されている。


 国はこの見解を前提に、正しい科学知識を身につけるためのリスクコミュニケーション活動(事実上の安全安心キャンペーン)を大々的に展開した。食品と放射性物質に関するものだけでも、福島県を中心に毎年100回前後実施している。

「過剰な不安」説の理論的根拠

 国の「過剰な不安」説は、少なからぬ人たちにとって、非常に評判が悪い。それは、そうだろう。事故に対する加害者責任が問われるはずの国が、「被害者の知識不足が不安の原因だ」と突き放すことは、被災者にとって屈辱的であり、責任逃れ、事故隠しに映る。

 しかし、「過剰な不安」説には学術的な根拠がある。あまり知られていないようなので、ここで紹介しておこう。

 科学的に推定される客観的なリスクに対して、主観的なリスク(人の感じ方)は大きめに見積もられがちなことが知られている。1980年代までの社会心理学の研究成果だ。

 スロビックによると、①コントロールできそうにないもの、②被害の程度がよく分かってないもの、③子孫に影響が及びそうなもの、④負担が不公平なものなどに対して、人はリスクを過大に見積もってしまう(Slovic p, 1987)

 また、スターによれば、感電死など受け身の状態で無理やり浴びせられたリスクは、喫煙など自発的に引き受けたリスクより、1000倍もリスクを大きめに見積もってしまう(Starr C, 1969)

どれも原発事故に当てはまる。旧原子力安全委員会は2002年の時点で、これらの研究成果を踏まえ、一般の人は原発事故の健康リスクを、実際のリスクより大げさに見積もる傾向にある、との見解を示している。

 ただし、原子力村が、責任逃れのために事故前から言い訳として「過剰な不安」説を準備していたわけではなさそうだ。

 環境倫理学のシュレーダー=フレチェットは一般論として1991年に、科学者の社会に対する態度を次のように批判している。

 (科学者は)認知されたリスクと本当のリスクを区別し(自分は区別できると考え)素人の側の認知されたリスクが科学技術をめぐるほとんどの論争をひき起こすことを想定する。その結果、リスクそのものの影響をどう和らげるかよりも、リスクの(素人の間違った)認知による影響をどう和らげればよいかを問題にする。一般市民へのPR、つまり「リスクコミュニケーション」だけが問題であると考える。


 このように、「過剰な不安」説は、原発事故の何十年も前から、専門家の間で広く受け入れられていた見方なのだ。御用学者でなくとも、多くの学識経験者が国の姿勢を疑問に思わなかったとしても不思議はない※2。

※2 リスク認知研究は、1990年代に急激に進歩した脳科学の成果を受け、劇的に変化した。「過剰な不安」説の根拠となった学説は、現在では修正されている。この点については、次号以降で議論する。

効果は限定的だった国の啓発活動

 ところが、国が大規模にリスクコミュニケーション活動を展開し、統一した正しい科学知識の普及を図ってきたにもかかわらず、住民の意識は、あまり変わっていない。中通りの、いわゆる自主避難区域に居住し、事故当時、小さな子どもがいた母親(約1000人)を対象にした意識調査※3で確認されている図1

※3 『福島子ども健康プロジェクト』(代表・成元哲中京大学教授)

 調査では、「放射線の健康影響に不安を感じている」と回答した母親の割合は、事故直後の95%から7年後の2018年には46%と、さすがに減少した。ただし、いまだに半数近くの母親が不安を感じ続けている現状は、重く受け止める必要があるだろう。

 情報に対する不信感は根強く、7年経っても61%の母親が不信感を抱き続けている。

 深刻なのは分断だ。「夫婦や近親者間で、放射線に対する認識にズレがある」と感じている母親は、7年後でも18%に上る。事故当時の36%から減ってはいるものの、4年目あたりから下げ止まっているので、5人に1人が認識のズレを感じ続ける傾向、つまり、事故前の人間関係を回復できない状態は、このまま続く可能性がある。

安全は科学的に決められない

 何年経っても、情報不信、健康不安、分断が解消しないのはなぜだろうか。

 それは、先ほど紹介した、国が正しいと主張する科学知識が間違っているからではない。ましてや、国の見解とは別に、本当に正しい科学知識があるのに、国がそれを認めないからでもない(この点、微妙なので、あとで詳しく検討します)

 原因は、多くの人たちが、「安全は科学的に決めることができる」と誤解していることにある。

 科学は、健康リスクがどの程度あるかを推定することはできる。しかし、どんなに精確にリスクを推定できたとしても、そのリスクが受け入れ可能かどうかを科学的に決めることはできない。それは価値観の問題だ。

 喫煙や飲酒、肥満、野菜不足、医療被ばくなどと、原発事故による被ばくの発がんリスクを比較する有識者が、あとを絶たない。しかし、性質の異なるリスク間の比較はあくまで参考に過ぎない。

 5月号で詳述する予定だが、受け身の状態に置かれた人は、ストレスで心臓病のリスクが高まることが分かっている。つまり、喫煙などの自分で受け入れたリスクと、無理矢理あびせられた原発事故の被ばくでは、リスクの社会的要因が異なる。比較は不適切だ。

 リスクがどれくらいあるかは科学の問題、それが気になるかどうかは価値観の問題だ。2つを分けて考える必要がある。

 だから、「放射線被ばくの発がんリスクは、喫煙よりずっと少ない。必要以上に気にすることの方が、体に悪い」などと、当事者の価値判断にまで第三者が首をつっこむのは、余計なお世話なのだ。事故から8年経ってもこんな発言が続くようだと、「政治的な意図があるに違いない」と勘ぐられても仕方がない。情報不信の原因を自らバラまいているようなものなので、自粛をお願いしたい。

 科学は、がんの死亡確率が1万人に1人なのか、それとも10万人に1人なのかを推定できる。しかし、安全と見なす水準を1万人に1人とするか、それとも10万人に1人とするかを科学的に決めることはできない。誰も死なない水準なのではなく、どのくらいの人数だったら仮に犠牲者が出たとしても許されるのか、という問題だから、価値観(倫理観)が問われるのだ。

 もちろん、誰も死なないに越したことはない。しかし、そのために莫大な費用、人手、歳月をかけることで失うものもある。たとえば、景気の悪化で、社会全体の健康水準が低下することはよく知られている。対策のために経済活動が停滞してしまい、かえって病人が増えてしまったのでは本末転倒だ。

 もちろん、原発事故には加害者と被害者がいる。汚染者負担原則(PPP)の観点からは、リスクベネフィット論や費用便益分析はなじまない。平常時を超える被ばくを被害者が受け入れなければならない理由は、何一つない。だから、年間20㍉シーベルトの放射線量を強制避難指示解除の目安にすることは不当だ、とする主張には正当性がある。

 しかし一方で、「70年歩んだ人生、このまま仮設住宅で息絶えるのは悔しい」と、被ばくを覚悟のうえで故郷に戻ろうとする高齢者の訴えにも正当性がある。故郷を失うことによる心理社会的ストレスは、心臓病などの原因になり得る※4。被ばくより、はるかに重大な健康リスクとなる人もいることだろう。

※4 科学的な根拠がある。詳しくは、拙著『復興ストレス』第4章を参照のこと。

分断の原因は科学と価値の混同

 リスクとは、何らかの価値を失う可能性のことだ(Fischhoff B & Kadvany J, 2011)。失いたくないものは、子どもの命であったり、仕事に対する誇りであったり、経済的豊かさであったり、先祖伝来の田畑であったり、豊かな里山の恵みであったりする。最も失いたくないものは、人によって異なる。だから、どのくらいのリスクなら受け入れられるかは、その人の価値観によって異なってくる。

 価値観が異なれば、リスクの物差しそのものが違ってくるから、その人のリスク評価も異なってくる。専門家といえども人の子だから、価値観と無縁ではない。特に、低線量被ばくの健康影響のように不確実性が高い課題に対してリスクを評価しようとすると、価値観によって大きく見解が分かれることになる。このことに気づかないと、なぜ意見がバラバラになるのか分からず、相手に対する不信感につながっていく。

 さらに、価値観が紛れ込んでいることに気づかず、もしくは気づこうとせず、正しい科学知識を振りかざすと、自分と異なる価値観を全面否定して、相手を傷つけることになる。

 国際安全規格は、安全を「許容不可能なリスクがないこと」と定義している(ISO/IEC GUIDE 51, 2014)。許容可能なリスクとは、「現在の社会の価値観に基づいて、与えられた状況下で、受け入れられるリスクのレベル」のことだ。つまり、安全とは、その時々の社会の価値観に基づいて、多くの人たちが「受け入れ可能」と納得できる暫定的な約束事なのだ。

1㍉シーベルトの意味

 福島ではよく耳にする数字、年間実効線量1㍉シーベルト。平時の公衆の追加被ばくの上限だが、国際放射線防護委員会(ICRP)が定めたこの値も、価値観に基づく社会の約束事だ。2つの理由から、1㍉シーベルトになった※5図2

※5  ICRP1990年勧告による。

 1つ目の理由は、次の通り。人が自然放射線源から受ける被ばく量は、ラドンを除くと年間1㍉から2㍉シーベルトだ。もともとこの程度の放射線を浴びているのだから、このバラツキの範囲内なら、無害とはいえなくても「社会が経験する健康損害」の範囲内に収まるので、多くの人は納得するはずだ、という考え方が1つ目の理由。

 2つ目の理由は、ちょっと分かりにくいかもしれない。「これを超えれば個人に対する影響は容認不可と広く見なされるレベル」は、恐らく年間1万人に1人レベルのがん死亡確率だろうとの仮定に基づいて、1㍉シーベルトになった。毎年1㍉シーベルト被ばくし続けると、75歳時点でのがん死亡確率は、1万人当たり0・95人となる。2㍉シーベルトだと1・9人だ。

 なぜ1万人に1人なのかというと、「人間的な尺度において無視できる確率」という考え方に基づく。

 これは、フランスの数学者ボレルが提唱したリスクの判断基準だ。ボレルは、無視していい判断基準として、他に「地上的尺度において無視できる確率」「宇宙的尺度において無視できる確率」「超宇宙的尺度において無視できる確率」を提案した。

 彼が考えた人間的な尺度から無視できる確率とは、たとえば大都市で発生する死亡交通事故の確率だ。

 人口数100万人の大都市で発生する死亡交通事故は平均1日に1件、つまり、100万人に1人だ。だからといって、外出のとき、交通事故が気になって、不安になる人はいないだろう。だから、100万分の1以下のリスクなら、多くの人は気にしないはずだ。これが、ボレルのいう「人間的な尺度」だ。

 ICRPも、この考え方を踏襲している。つまり、年間100万人に1人の確率を「容認可能」なレベル、年間1万人に1人の確率を「容認できない」レベルだと見なして、社会に受け入れられる100万人に1人のレベルまで、費用便益分析に基づいて、できるだけ下げる、というのがICRPの方針だ。

 つまり、年間1㍉シーベルトは、これ以下なら安全という値ではない。除染しなくていい基準でもない。超えることが許されない値というのが、ICRPの見方だ。この点、解釈に注意が必要だ。

 1㍉シーベルトが科学的に決めた値でないことは、分かっていただけただろうか。繰り返すが、リスクがどれくらいあるかは科学の問題だが、そのリスクを受け入れ可能かどうかは価値観の問題なのだ。暫定的な約束事なのだから、どのレベルなら安全と見なせるかを、みんなで話し合って、納得ずくで決めていく必要がある。

 念のために付け加えておくと、「価値観」「暫定的な約束事」というのは、仮に故郷を失う心理社会的ストレスによる健康リスクを重視して、自治体の存続を1㍉シーベルトの健康リスクより優先することを、多くの住民が本当に望むなら、公衆被ばくの上限が年間5㍉シーベルトまで引き上げられる可能性もあり得る、という意味を含んでいる。安全とは、社会の合意事項なのだ。

 しかし、残念なことに原発事故後の福島では、低線量被ばくの健康リスクをめぐる科学の言葉は、さながら水戸黄門の印籠のように、自分の価値観を相手に押し付けるための、権威づけの道具として利用され続けてきた。

 押し付けられた側は、その度に、自分の価値観が踏みにじられ、深い傷を負った。そして、今度は、自分にとって都合のいい科学の言葉で、相手の価値観を否定しにかかる。傷つけられた自分の価値観を守るためだ。

 しかし、相手は、自分が科学の言葉で人の価値観を否定した自覚がないから、自分が一方的に傷つけられ、「抑え付けられ、不安を口にすることさえできなくなってしまった」と思い込んでしまう。

 この繰り返しにより分断は深まり、被災の言葉は失われていく。

 それでは、どのように科学と価値の問題が混同されているのか、いくつか具体例を上げて見ていこう。

白っぽい灰色

 どうやら被ばくの健康影響はなさそうだ──放射線の健康リスクをめぐる科学論争に決着がついた、という空気が世の中に急速に広まったのは、2014年ごろだったと記憶している。原発事故後の被害状況を調査していたUNSCEAR(アンスケア)※6が、同年4月に福島報告書を公表したことが、大きな転機となったようだ。

※6 正式名称は、「原子放射線の影響に関する国連科学委員会」

 報道機関各社は、「国際連合の専門家集団が、被ばくによる住民の健康影響は『ない』と報告書を出した」と報じた。環境省も、「国際機関が健康影響は『ない』と声明を出している。この事実を住民に分かりやすく丁寧に伝え、住民の放射線不安を解消する必要がある」として、リスクコミュニケーション事業を大規模に展開した。

 確かに、国連広報センターが出したプレスリリースには、「UNSCEARは『がんなどの発生率に識別できるような変化はない』とする報告書をまとめた」とある。

 「識別できない」と聞くと、「なんだ、影響ないんだ」と早合点しそうだ。UNSCEARもこのように誤解されることを恐れたのか、報告書本文で言葉の定義付けをわざわざ行っている。それによると、「識別できない」とは次のような意味だ。

 (識別できないとは)リスクがないことと同等ではないし、被ばくによる疾患の過剰発生の可能性を排除するものではないし、将来的に、被ばくにより特定の集団に特定のがんが発生することを同定するバイオマーカー(目印)が発見されることを否定するものでもない。


 科学の言葉の分かりにくさが、この文章にも出ている。「同等ではない」とか、「排除するものではない」などの持って回った言い回しが科学にはつきものだが、これは統計学の発想から来ている。

科学の分かりにくさ

 科学の分かりにくさとは、端的に言って、統計学の分かりにくさと言っていいだろう。

 筆者も大学院に入学した当初、統計には大いに悩まされた。実験で得られたデータを統計処理しなければならないのに、統計学の入門書を読んでも何が書いてあるのかサッパリ分からない。猛勉強をして、難関大学にせっかく入学できたのに、これでは博士論文が書けない。目の前が真っ暗になり、本当に胃がキリキリ痛んだことを、いまでもよく覚えている。

 自分だけでなく、周囲の大学院生もみな同じ悩みを抱えていたようだ。教授の依頼で、統計学の得意な非常勤講師の方が、特別に勉強会を開いてくださった。その後、自分の実験データを何度も解析するうちに、ようやく目の前の霧が晴れ、統計学の世界が見えてきた。

 本を読んだり、人の話を聞いたりしただけではなかなか理解できない。暗黙知というが、自分で実際に統計を使って論文を書き、専門雑誌に投稿し、レフェリーの厳しい審査を受けてみないと、実感できないことがある。「科学者とは専門雑誌に論文を発表する人のことだ」と言われるが、その意味が、論文を投稿してみて初めて分かったような気がする。

 意識調査の統計処理を同僚に任せる社会学者を知っているが、話を聞いただけで、自分で統計処理をしていないこと(できないこと)が一発で分かる。

 研究機関としても日本でトップクラスの大学の教授が、わざわざ外部の教員に大学院生の指導を依頼せざるを得ないことが、統計学のとっつきにくさを物語っている。科学に接する機会のない一般の人たちが、誤解したとしても無理はない。

 ただし、マスコミ関係者は、科学論争のポイントはここにあるんだということを肝に命じてほしい。行政関係者にもお願いしたい。放射線の健康リスクに限らす、過去に社会問題化した科学論争のほとんどは、統計の理解が消化不良なために生じる行き違いが原因だと言っても過言ではない。統計の限界がどこにあるか自覚できないから、科学で分かることと、分からないことの境界線が見えないと言い換えてもいい。

 ちなみに、先ほど引用したUNSCEAR福島報告書の一節は、筆者が訳したものだ。環境省が日本語に翻訳しているが、残念ながら、訳が間違っている。

「識別できない」の意味

 話を元に戻そう。

 「識別できない」を、もう少し噛み砕いて説明すると、現在の科学技術の水準、調査方法では健康影響を発見できないだけで、本当は影響がある可能性もある、という意味を含んでいる。具体的には、調査対象者の人数を増やしたり、調査期間を長くしたり、放射線の影響を受けやすい人たちを集中的に調べたりして、これを検出力というが、統計的検出力を高めれば、被ばくの影響があることを確認できるかもしれない、ということだ。

 影響がないとも言えるし、あるとも言える。灰色だが、数字的(統計学的)には識別できない(有意差はない)のだから、UNSCEAR福島報告書は、白っぽい灰色だ。ここに、価値観の混入する余地が出てくる。

 国の原子力政策に批判的な危ない派の言動に対して、「政治的主張のために放射線の影響をことさら誇張して復興の足を引っ張るのはやめてほしい」と、苦々しく感じていた人たちには、「識別できない」は、危ない派への反発もあって、「やっぱり影響はないんだ」と聞こえることだろう。科学と価値の問題を混同している。

 環境省はなぜ、健康影響は「ない」と断定したのだろう。しかも、環境省によると、「影響ない」ことが科学的に証明されたことになっている※7。これまで説明してきたように、科学的に証明されてなどいない。環境省が何と言おうが、「影響ない」としたのは、あくまで環境省の政治的判断だ。住民の不安を鎮め、社会秩序の回復を図ろうとする意図があったのかもしれない。環境省も、科学と価値の問題を混同している(図3)

※7 環境省(2016年)平成29年度予算概算要求事項別表等 放射線被ばくによる健康不安対策事業

 灰色はあくまで灰色で、白でも黒でもない。当のUNSCEAR福島報告書を読み込めば、どちらとも言えないことがよく分かるはずだ。

気になる小児甲状腺がん

 果たして、福島原発事故による放射線被ばくで、甲状腺がんになった子どもはいるのか、いないのか。本当のことは誰も分からない。

 トロンコらの論文によると、ウクライナでの小児甲状腺がん患者の甲状腺吸収線量は、全体として福島より大量に被ばくしたような印象を受けるが、それは1000㍉グレイ以上と極端に被ばくした子どもが11・3%いるため、平均値が上がってしまうことも一因だ(Tronko MD et al., 1999)。実際には、患者の半数以上は100㍉グレイ以下だ。50㍉グレイ以下でも約36%、10㍉グレイ以下の患者も約16%いた。

 別の論文では、35㍉グレイ以上の地域で、それ以下の地域と比べ、小児甲状腺がんが増加していることが報告されている(Fuzik M et al., 2011)。ごく最近、発表された論文でも、100㍉グレイ以下の甲状腺吸収線量で、小児甲状腺がんが増加していることが確認されている(Lubin JH et al., 2017)

 では、福島はどうなのか。

 UNSCEAR福島報告書は、避難指示が出ていなかった地域のうち、甲状腺の平均吸収線量が45〜55㍉グレイとなる地域に3万5000人もの乳幼児が居住しており、1000人弱の子どもの被ばく量が、100〜150㍉グレイに達する可能性があると推定している。

 前述した論文(Lubin JH et al., 2017)の「テーブル1」の表をもとに推計すると、1000人弱の子どものうち、3人ほどは事故由来の放射線被ばくで甲状腺がんになってもおかしくない。

 チェルノブイリに比べ、福島の子どもの被ばく量がはるかに少ないとは言えない。集団としての被ばく量が少ないからと言って、甲状腺がんの原因が放射線以外にあるとも言えない。

 ただし、県民健康調査でこれまで発見された200人超の小児甲状腺がんは、原発事故の被ばくによる多発ではなく、スクリーニング効果で説明することも可能だ。スクリーニング効果とは、これまでにない詳細な検査を行ったために、将来の疾患を先取りして発見してしまうため、見かけ上、疾患が多発しているように見えることを言う。

 灰色は、あくまで灰色だ。最大多数の最大幸福を追求することが社会正義だと思う人は、「識別できない」をと解釈するだろう。

 たとえば、「韓国では、健康診断で甲状腺を調べるようになって10倍も甲状腺がんが発見されるようになった。でも、死亡率は変らない。だから、ほとんどの小児甲状腺がんは、命に別状ないはずだ」と思う人は、と解釈するだろう。

 ごくわずかかもしれないけど、ひょっとしたら一部の甲状腺がんは、原発事故による被ばくが原因かもしれない。でも、そのために、大多数を占めるそれ以外の子どもとその親に、見つける必要のないがんを見つけて、つらい思いをさせることはない、と考える人もいるだろう。

 一方、乳幼児という社会の中で最も弱い立場の利益が最大になることが公正としての正義だと信じる人は、「識別できない」をと解釈するだろう。「もうこれ以上、たった1人でも原発事故の犠牲者を出さないよう、できることは何でもやらなければならない」と考え、より詳細な解析を行うために、追加情報の収集と、レコードベースのコホート内症例対照研究の導入を訴える人もいるはずだ。

 どちらも間違っていない※8。どんな暮らしなら居心地がいいと思えるかは、人によって異なる。安全とは価値の問題なのだ。

※8 ここでは典型的な価値理念として「功利主義」(前者)と「義務論主義」(後者)に色分けしたが、どちらも個人の自立を前提とした西欧の価値観だ。非西欧社会の価値観にまで目配りして、「社会秩序の維持」派と「個人の尊厳重視」派に置き換えてもいい。

 第三の選択肢もある。

 日本医科大学などの調査で、原発事故後の3ヶ月以内に妊娠した女性から生まれた赤ちゃんに、低出生体重児(体重2500㌘未満)が多いことが分かっている(Hayashi M et al., 2016)。赤ちゃん全体でも、事故後の6ヶ月以内に妊娠した女性から生まれた3381人の赤ちゃんの平均体重が、事故前より少なかった。

 福島県立医大が行っている1年単位の大雑把な県民健康調査では、出生体重の変化は検出できなかった。胎児の発達に配慮した、妊娠周期ごとの丁寧な解析で、初めて赤ちゃんの異変が明らかになった。

 原因は、恐らく事故後の社会的混乱で、妊婦が強烈なストレスを受けたためだろう。戦争や地震などの大災害後に、赤ちゃんの体重が低下することはよく知られている。

 そして、生まれたときの体重が少ない赤ちゃんほど、大人になってから糖尿病、心臓病、脳梗塞、がんになりやすいことが明らかになっている(Harris A & Seckl JR., 2011)。うつ病、統合失調症などの精神疾患にもなりやすい、との指摘もある。

 事故からすでに8年が経ち、事故後に低体重で生まれた子どもは、小学校に入学する年齢に達してしまった。この年齢まで成長してしまったら、もはや病気になりやすくなった体質をリセットすることはできない。

 わたしたちは、小児甲状腺がんに注目するあまり、もっと重大な将来の健康被害を見落としているのではないだろうか。

 筆者は、人数の多さ、病気の深刻さから考えて、事故後に多発した低出生体重児対策として、学童保育の充実など、いま以上に豊かな子育て環境を実現させることが、最も重要な子どものための放射線災害対策だと考える。

黒っぽい灰色

 それでは次に、黒っぽい灰色の例を見ていこう。

 国の姿勢に批判的な危ない派の、ほとんどの論者が引用する論文がある。通称、INWORKS( インワークス)研究と呼ばれる論文だ。

 この論文では、イギリスなど3カ国の放射線作業従事者30万人以上の被ばく量を、平均26年間追跡している。そして、死亡登録とリンクさせることで、低レベル放射線の発がんリスクを解析した(Leuraud K et al., 2015)

 その結果、作業員の被ばく量は非常に少なく、直腸の線量で平均、年1・1㍉グレイ、通算で平均16㍉グレイ(中央値だと2・1㍉グレイ)に過ぎないことが分かった。そして、被ばく量が1㍉グレイ増えるにしたがって、白血病(慢性リンパ性白血病を除く)のリスクが増加していた。

 同グループは、白血病以外の固形がんでも、100㍉グレイ以下で死亡リスクが増加していることを、別の論文で報告している(Richardson DB, et al. 2015)

 解析結果は、危ない派にとって大変都合のいいものだ。「原発事故以降、100㍉シーベルト以下ではがんは発生しない、という新たな安全神話が作られた」と政府公報や彼らが言うところの御用学者、御用マスコミを批判してきた危ない派は、INWORKS研究によって、「安全神話が誤りであることが確実になった」と色めき立った。

 しかし、INWORKS研究には、数多くの欠陥がある。

 交絡要因と呼ぶが、喫煙やアスベストなど、他の発がんリスク要因の影響を取り除いていないので、本当に低線量の放射線被ばくで発がんリスクが高まったのか、いま一つはっきりしない。

 もっと重大な欠陥がある。

 この3カ国調査で調査対象者が最も多いのはイギリスで、全体の半数近くを占めている。英国を除いた米仏2カ国の対象者のみで解析すると、被ばくによる固形がんの増加は確認できなくなる。

 これは、2カ国だけではサンプルサイズが小さく、規模の大きなイギリスのデータが、調査結果に大きな影響を与えていることを物語っている。そして、イギリスの調査対象者の半数は、英国核燃料会社(BNFL)の作業員だ。

 BNFL作業員の調査結果を細かくチェックすると、被ばくによるリスク増加に影響を与えているのは、外部被ばくと内部被ばくのうち、外部被ばくだけしていた作業員だ。しかも、実効線量で200㍉シーベルト以上あびた作業員のがん死亡率のみ増加している。なぜ200㍉シーベルトを境に違いが出るのか不明で、しかも、このグループはがん以外の疾患の死亡率も上昇している。

 これらのことから、ある特定のグループに所属していた作業員が、がんになっている可能性が高いと推測される。喫煙、飲酒、偏った食生活など、特定の階層の人たちには共通した特徴があり、病気になりやすさと関係していることが知られている。がん死亡率上昇の原因は、放射線被ばく以外にある可能性が高い。

 INWORKS研究の欠陥は、ほかにもある。

 「100㍉グレイ以下の被ばくでも死亡リスクが増加することが証明された」というが、50㍉グレイ以下の3群、つまり、①10㍉グレイ以下、②10〜20㍉グレイ、③20〜50㍉グレイの線量域のデータは、統計的にがん死亡率が上昇しているとは言えない(Richardson DB et al., 2015)。この点は、広島・長崎の原爆被爆寿命調査(LSS)での、がん死亡率の増加が統計的に確認できる放射線量(50㍉シーベルト、または125㍉シーベルト)と変わりない。危ない派が主張するように、100㍉グレイ以下で、がん死亡率が上昇する強力な証拠が得られたとは、とても言えない。従前のデータと、何ら変わりないのだ。

 このように、低線量被ばくの健康影響は不確実性が高く、統計学的にはっきりとは証明されていない。危ない派は、自然放射線や医療被ばくの調査でも、低線量被ばくによる発がんリスク増加を報告する論文がたくさんある、と主張するが、どれもINWORKS研究と同様、多くの欠陥があり、いまだ決定打はない。

 危ない派は、国や東京電力に対する怒り・責任追及、そして、国の「過剰な不安」説に対する反発から、被災者の不安は過剰でないことを証明しようと、自分たちに都合のいい論文を並べ立てて黒と主張するが、どんなに力説しても、灰色は灰色でしかない。科学と価値の問題を混同している点では、危ない派も環境省と変わりはない図4

 繰り返すが、安全とは価値の問題なのだ図5。この8年間、科学と価値の問題を取り違え、科学の言葉でお互いの価値観を踏みにじり続けることで、科学論争は冷静さを失い、誤解を解くことは、ほとんど不可能になってしまった。

分断する福島

 灰色が黒っぽく見える人たちは、「風評被害でなく実害だ」「小児甲状腺がんは原発事故で増えている」「国が事故責任、100㍉シーベルト以下の被ばくでがんが増加することをきちんと認めさえすれば、福島の分断は解消する」と主張する。

 それに対し、灰色が白っぽく見える人たちは、故郷が汚されたと感じ、「放射線の話はするな」と彼らの発言を押さえ込もうとする。都合のいい大義名分は、「風評被害の原因になる」「復興の妨げになる」「差別を助長する」の3つだ。

 これらの言葉とともに、「あなたは神経質。気にし過ぎ」のひと言に、灰色が黒っぽく見える人たちは傷つき、「不安さえ言葉にすることができない」と憤る。自分たちの言葉が、相手の価値観を踏みにじっていることへの自覚は感じられない。

 両者のやりとりを見ている人たちは、「寝た子を起こさないでほしい」「不安はなくならないけど、気にすることに疲れた」「福島で暮らすと決めたんだから、せめて毎日を楽しく過ごしたい」と思う。

 新たな日常も始まった。できるだけ被ばくしないよう行動に気をつける一方、「放射能汚染は生活の一部。福島で生きていくと決めた以上、前を向いて生きていく」と、割り切る人もいる。気になる子どもの健康については、「被ばくによる影響より、内面への心配の方が大きい。福島の状況をきちんと説明できる子どもに育てていきたい」と語る親もいる。

 分断する福島。人前で放射線の話はしたくないし、聞きたくもない。低線量被ばくの健康影響をめぐる科学論争は平行線をたどる。論争解決の目途が立たなければ、救済・支援は後手後手に回る。水掛け論になることで、得をするのは加害者責任が問われる国だ。国は、資金も人材も豊富にある。対する被災者は、資金も人材も限られているし、高齢者が多い。論争が長引けば長引くほど、そして、原発事故が風化して世の中の関心が薄らげば薄らぐほど、国に有利になる。

 人々の結束力の強い地域ほど、被災後の復興が早いことが分かってきた(Aldrich DP, 2014)。住民が一致団結すれば、声が行政に届きやすい。要求がはっきりしていれば、行政も対応しやすい。阪神淡路大震災の教訓だ。冒頭で、分断社会は不健康社会だと述べたが、復興推進、被災者救済のためにも分断の解消は、とても重要なことだ。

 果たして分断の解消は可能なのか。分断の原因と見られる科学と価値の混同は、なぜ起こるのか。なぜ、自分の価値観を絶対視し、相手の価値観を全否定しまうのか。お互い傷つけ合っているのに、なぜ、そのことに気づかないのか。被災者同士の加害者化。この問題が解決しない限り、分断は続く(写真1、2)

写真1 分断の象徴か。JR福島駅前こむこむ館に設置された「サン・チャイルド」は、わずか1カ月半で撤去された。手を振ってお別れをする子どもの姿が見える。(2018年9月19日撮影)

写真2 撤去開始を告げる張り紙。復興の象徴になり得るものと期待するも、設置をめぐり賛否が分かれ、展示を取りやめることとした、の文字が虚しい(同月17日撮影)

 次号以降で、脳科学の立場から、これらの「なぜ」に答え、解決策を検討していきたい。

筆者のスタンス

 科学とは、それがなくてはある種の人たちが、生きていけないような誤謬のことである※9。

※9 伊藤浩志(2017)『復興ストレス─失われゆく被災の言葉』(彩流社)

 智恵子はほんとの空が見たいという。彼女にとっては、福島の青い空が本当の空だった。高村光太郎は、そう詠った。

 しかし、こと科学に限っては、本当の科学など、どこにもありはしない。自分を正当化しようとする人間の弱さが、科学にありもしない正しさを求めるのだ。

 本当の科学など、どこにもありはしないのに、それでもなお、科学を求めてしまうのだとしたら、せめて、自分の人生が少しでも豊かになるような、そんな科学との付き合い方を見つけましょう。

 保守的な立場の人も、革新的な政治信条を持つ人も、福島を何とかしたいと思う、郷土への愛着は同じ。喉元まで出かかっていながら言葉にすることができない、そんな、ある時には心ならずも人を傷つけてしまい、また、別のある時には傷つけられ、時とともに失われゆく被災の言葉に居場所を提供したい。それが筆者の願いです。



◆筆者紹介◆
 伊藤浩志(いとうひろし)1961年、静岡県磐田市生まれ。東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程修了。ストレス研究で博士号取得(学術博士)。専門は脳神経科学、リスク論、科学技術社会論。元新聞記者。阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などを担当した。福島市在住。著書に『復興ストレス─失われゆく被災の言葉』(彩流社)、『「不安」は悪いことじゃない─脳科学と人文学が教える「こころの処方箋」』(共著、イースト・プレス)がある。