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政経東北速報解説版 毎月2回(1・15日)発行
月刊政経東北
政経東北速報解説版
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福島県福島市南矢野目鼓原1-2
TEL:024-554-6101(代表)
FAX:024-554-6103
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 「地元で話題になった記事をもう一度読みたいが、図書館に行ってバックナンバーを探すのが億劫」、「書店で売り切れていて買えなかった」という声に応え、昨年反響のあった記事をWEB上で公開することにしました。カテゴリー別に分かれており、下記のカテゴリーから選択して、興味のある記事をクリックすると全文が表示されます。

連載

なぜ、福島は分断するのか(脳神経科学者 伊藤浩志)
 第2回 ―脳科学が解明した「理性は後付け」のメカニズム―
 科学は「公正中立」という幻想

 放射線の健康影響をめぐり、終わりなき科学論争が続く福島。その結果、分断してしまった福島。分断解消のためには、理性的であるはずの科学の言葉がなぜか感情的になってしまう、そのメカニズムを知る必要がある。現代の脳科学によると、人間の価値判断の主役は直感で、理性は後付けに過ぎない。問題解決のヒントは、理性に対する人々の過信にある。絡まった糸を、なんとかほぐしたい。今月号は、常識をくつがえす、最先端の脳科学の世界からの謎解きにお付き合いください。

 放射線の健康影響は、果たしてどれくらいあるのか。原発事故直後に始まった、かまびすしい科学論争は、現在まで延々と続けられている。

 「そんなことはない。一部の不安をあおる人たちが騒いでいるだけだ」と、反論する読者もいらっしゃるかもしれない。

 しかし、8年経っても放射線の健康影響に「不安」を感じている人は、少なくない。朝日新聞などが2月下旬に行った世論調査によると、放射性物質の影響について、60%の福島県民が「不安を感じている」と回答している。前年同時期の調査と比べ、不安を感じている人の割合は6㌽減少しているものの、「大いに」感じている人の割合は2㌽減(21%から19%)にとどまり、ほとんど変わっていない。

 平穏な日常が戻ったかのように見える中通りでも、きっかけさえあれば論争は再燃する。5年前の美味しんぼ騒動しかり。昨年夏、JR福島駅前のこむこむ館に設置された子どもの立像「サン・チャイルド」が1ヶ月半で撤去されたことは、記憶に新しい※1。

※1 復興の象徴と期待されたが、子どもの立像が防護服姿だったことなどから、「風評の原因となる」などの批判が相次いだため撤去された。

終わりなき科学論争の果てに

 筆者は、このコミュニケーションギャップの原因は、科学と価値観の混同にある、と3月号で問題提起した。

 具体的な事例分析については前月号をご覧いただきたいが、放射線の健康影響をめぐる科学の言葉は、さながら水戸黄門の印籠のごとく、自分の価値観を相手に押し付けるための、権威づけの道具として利用され続けてきた。

 自分の価値観が踏みにじられ、深い傷を負った側は、対抗手段として、今度は自分にとって都合のいい科学の言葉で相手の価値観を否定しにかかる。

 しかし、当の相手は、自分が科学の言葉で人の価値観を否定した自覚がないから、自分が一方的に傷つけられたと思い込み、「不安を口にすることさえできなくなってしまった」と、嘆き悲しむ。

 この繰り返しにより科学論争は泥沼化し、分断は決定的になる。

 孤立感は、不安感を高めることが知られている。チェルノブイリ原発事故では、子どもへの放射線被ばくの影響に対する不安がなかなか消えず、事故後20年経っても、母親のうつ病や心的外傷後ストレス障害(PTSD)の割合が高い状態が続いていた(Adams RE et al., 2011)

 福島でもここ数年、夫婦や近親者との間で、放射線に対する認識にズレを感じている人の割合は下げ止まっており、分断した状態がこのままずっと続く可能性がある。チェルノブイリの事例は、対岸の火事ではない。

 それではなぜ、誰もが科学と価値の問題を取り違えてしまうのだろうか。いよいよ、ここから脳科学の出番です。

科学は客観的で公正中立か

 放射線被ばくに限らず、何らかの原因で、健康被害がどれくらい発生するかの見積もりは、科学的に行われることになっている。

 国際標準としてリスクの見積もりが科学的に行われるのは、人によって異なる価値観や利害損得に左右されないよう、公正中立に物事を決めるためには、ある程度の客観性が必要だと考えられているからだ※2。

※2 村上陽一郎(2005)『安全と安心の科学』集英社新書

 科学は公正中立で客観的だ──専門家も含め、多くの人は、そう思っていることだろう。

 ところが、高度な専門的なトレーニングを積んできたはずの科学者でさえ、科学に対する認識に特定の偏りがあることが、社会心理学の調査で分かっている(小杉素子、2012)

 調査によると、科学技術の安全性を評価するとき、科学者は、関心が技術面に偏りがちで、その技術を使う人間や組織がミスを犯すことに注意が向きにくいことが分かった。一般人が、国や企業の信頼性を重視するのと対照的だ。

 そして、たとえ誰かがミスを犯したり、悪用したりしたとしても、科学者は、科学技術をコントロールできると思っている。それは、科学技術は経済発展や個人の生活水準の向上に貢献できるのだから、その過程で、ある程度のリスクが発生しても仕方がないと考えているからだという。これまた、一般人が科学技術のマイナス面を気にして、人間ではコントロールできないと感じがちなのと対照的だ写真1

写真1 増え続ける汚染水貯蔵タンク。トリチウム水の海洋放出は是か非か。事故由来のトリチウムは、毎日、自然発生している海洋中のトリチウムと同じなのか違うのか。科学者と一般人の見解が噛み合う気配はない。

 一定の方向性のある偏りのことをバイアスというが、このように、専門家でさえ、バイアスから逃れることはできない。そして、いま紹介した調査結果は、専門家が、県民の放射線の健康影響や廃炉作業の事故に対する不安を理解しにくいことを示している図1

確証バイアス

 様々な種類のバイアスの中でも、最も厄介なバイアスは、確証バイアスのようだ。確証バイアスとは、自分に都合のいい情報は受け入れやすく、そうでない情報は受け入れにくい傾向を指す。

 自分の意見をまとめるとき、人はどんなことに頭を使おうとするのだろうか。それが知りたくて、認知科学者のメルシエとスペルベルは、過去に発表された心理学の研究論文を読み漁った。

 心理学の研究は、人は、決して正しい答えを見つけるために、頭を使おうとしないことを示していた。誰もが自分の主張に反する意見や証拠を無視し、自分の主張に確証を与えてくれそうな証拠を探そうとする。

 人は自分を正当化し、他人の反論に備えるために頭を使う──これが、2人の認知科学者が、膨大な数の心理学論文を分析してたどり着いた結論だ(Mercier H & Sperber D, 2011)

 また、社会心理学者のギロビッチによると、人は自分に都合のいい情報が見つかるまで情報探しを止めない。ところが、初めに手にした情報が自分に都合がよければそれで満足し、それ以上の情報を求めようとはしたがらない(Gilovich T, 1991)

 中立であるはずの科学者も、確証バイアスから逃れることはできそうもない。なぜなら、高度な知的トレーニングを積んでも、確証バイアスを取り除くことができないことが実験で確かめられているからだ。

 実験では、ハイスクール1年生から大学生、大学院生を対象に、次のような実験を行なった。

 「米国とソ連との間で締結された核兵器凍結合意は、世界戦争の可能性を低減させることができると思うか」などの社会問題に対して、瞬間的にどう思うかを聞いたうえで、その判断理由を書かせた。

 さらに、自分の意見は一旦棚上げにして、「そう思う」と思える理由、「そうは思わない」と思える理由を可能な限り書き出させた。そして、それらの理由を「自分側」と「相手側」に分類した。

 その結果、「自分側」の理由をより多くあげる傾向は、ハイスクール1年生から大学院生まで変わらなかった。さらに、知能が高い学生ほど「自分側」の理由をより多くあげた。「相手側」の理由の項目は、知能が高くても増えなかった。

 つまり、歳を取ることで人生経験を積み上げたり、高等教育を受けたりしたとしても、論争に勝つために自分の主張に確証を与える証拠を探そうとし、自分の主張に反する意見や証拠を無視する傾向に変わりはなかったのだ。そして、知能が高ければ高いほど、相手を説得するための反論を集めようとすることが分かった。

 調査を行なったパーキンスは、「人は議論を公平に検討するためではなく、自分の立場を正当化するために知能を使う」と、結論づけた。

 どうやら、確証バイアスは、教育によって取り除くことはできそうもなさそうだ。厄介なことに、頭のいい人が高度な教育を受ければ受けるほど、反論に備えて自分の主張に都合のいい材料をそろえ、相手の意見に耳を傾けなくなる可能性が高いことを、この実験結果は示している。

 つまり、科学者といえども確証バイアスから逃れられないし、科学的だからといって必ずしも客観的とはいえないのだ。

生命の警報装置、扁桃体

 これまで見てきたように、どんなに高度なトレーニングを積んでも、人はバイアスから逃れることができない。なぜだろうか。最新の脳科学の研究で、原因は脳の構造にあることが明らかになってきた。

 外界からの情報は、脳の高次機能、つまり、理性に関係している大脳新皮質に届くより前に、バイアスに深く関係している脳部位、扁桃体に伝わる図2。扁桃体には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚など、すべての感覚情報がダイレクトに入力することが確認されている。

 たとえば、大脳新皮質の視覚野に情報が届いて、本人が「見えた」と意識するより前に、情報は扁桃体に届く。目の網膜から大脳新皮質の視覚野に情報が届くルートとは別の、進化的に古くからあるルートを通って、粗っぽいが素早く扁桃体に視覚情報が届くことが、次のような目からウロコの実験で明らかになった。

 盲視といって、視覚野に障害がある患者は、視力を失って見えないはずなのに、不思議なことに目の前にいる人が怖がっているのか、幸せそうな顔をしているのか、表情を区別することができる。実験により、怖がっている人の顔が目の前にあるときだけ、扁桃体が反応することが確認された(Morris JS et al., 2001)

 外界の情報が扁桃体に到達するこのルートは、目が見えなくても察知できるのだから、大雑把な気配しか感じられないし、思い違いも多いことだろう。その代わり、素早い。

 健常者だと、見てから150㍉秒以内に、無意識のうちに扁桃体が反応することが、別の実験で確かめられている。一方、意識的な情報処理を行う大脳新皮質経由で情報を処理するルートでは、視覚野が活動を始めるまでに、約200〜300㍉秒かかる図3

 つまり、脳の構造上、どんな人間でも、扁桃体の影響を受けずに物事を考えることはできないのだ。

 読者にとって気になるのは、この扁桃体が、身体の中でどんな役割を果たしているかだろう。

 扁桃体は、身に迫った危険を察知し、回避するための警報装置として機能している。扁桃体を持つすべての動物、つまり、トカゲなどの爬虫類、鳥類、哺乳類、どの種でも扁桃体は同じ働きをしている。扁桃体を破壊すると、人間も、トリも、ネズミも、サルも、ウサギも、危険を察知できなくなってしまう。

 トカゲから人類に至る長い進化の歴史の中で、扁桃体の機能が保存されているということは、危険を察知する能力が、生命の営みの中で最優先されてきたことを意味する。

 だから、他のことに意識が集中していても、危険が身に迫ると、素早く、無意識のうちに扁桃体は活性化する。

 花やキノコの写真の中から、ヘビやクモの写真を発見する方が、その逆より素早く正確に発見できる。また、多くの人の中から怒った1人の顔を発見する方が、多数の中から悲しみの顔や無表情の顔を発見するより素早く正確に発見できる。

 そして、扁桃体が活性化すると、人は不安を感じる。脳神経科学的には、不安とは、漠然とした危険が身に迫ったときに起きる情動反応のことだ。扁桃体は生命にとっての火災報知器で、不安という情動反応は警報が鳴ったことを意味する。

 情動反応とは、外からの刺激に対して、自動的に、ほぼ無意識に起きる全身の生理反応のことだ。心臓がドキドキしたり、ハッとして目が覚めたり、身がすくんだり、ストレスホルモンが分泌されたりするのが情動反応で、危険なのか、それとも安全なのかを素早く優先的に知らせてくれる。

 生物は、快・不快の情動反応によって、安全・危険の判断の方向付けを行なっている。ヘビも、イヌも、ネコも、そして人間も、安全に快感を感じ、危険に不快感を感じるようにできている。

バイアスの正体

 そして2006年、世界トップレベルの科学雑誌、サイエンスに発表された神経経済学の実証実験で、この情動反応こそがバイアスの正体であることが明らかになった(De Martine B et al., 2006)

 人は与えられた情報が不完全で不確実性が高くなると、理性より情動反応(感情)を手掛かりに意思決定を行うようになることは以前から知られていた。この論文の画期的なところは、不確実性が高い中で意思決定を行うとき、脳のどこが活発に働いているのかを実際に確認できたところにある。

 実験者は、次のようなギャンブル実験を行なった。

 実験協力者に50ポンド渡しておいて、「あなたにお金をあげますけど、どちらを選びますか」と聞いて、二者択一の回答を求める。

 聞き方には、ゲイン・フレームとロスト・フレ―ムの2通りある。フレームとは問題を切り取る視点のことだ。

 まず、ゲイン・フレームの聞き方。
  ①確実に20ポンド獲得できる(確実)
  ②40%の確率で全額獲得できる(ギャンブル)

次に、ロスト・フレームの聞き方。
  ③確実に30ポンド失う(確実)
  ④60%の確率で全額失う(ギャンブル)

 聞き方はいろいろと変わるのだが、期待値は同じ。つまり、客観的確率としては、もらえるお金の平均値は同じである。

 面白いことに、「獲得」を強調するゲイン・フレームでどちらを選ぶか聞いたところ、①の確実を選ぶ割合が高かった。

 一方、「失う」を強調するロスト・フレームだと、④のギャンブルを選ぶ割合が高くなった。

 この実験で明らかになったことは、人間の意思決定は、必ずしも合理的ではないことだ。どの選択肢も期待値は同じなのに、問題を切り取る視点(フレーミング)を変えただけで、人は自分の意見を変えてしまう。獲得を強調するポジティブ思考(ゲイン・フレーム)にすると、確実さを求める。一方、損失を強調するネガティブ思考(ロスト・フレーム)にすると、一か八かの賭けに出るようになる。

 そして、フレーミング効果の影響が大きいとき、つまり、ポジティブ思考で確実さ、ネガティブ思考で一か八かの賭けに出るとき、扁桃体の活動が活発になっていることが分かった図4

 逆に、フレーミング効果の影響が小さいとき、つまり、ポジティブ思考で一か八かの賭けに出て、ネガティブ思考で確実さを求めるときには、前部帯状回(ACC)の活動が活発になることが分かった。ACCは、分析的な思考(理性)と情動的な反応(感情)が競合したときに活性化する脳部位だ。

 さらに、次のことが確認できた。

 フレーミングの影響を受けにくい人、つまり、「獲得」か「失う」かの表現に惑わされない人ほど、前頭前皮質腹内側部(VMPFC)が活性化しやすいことが分かった図5

 VMPFCは、情動反応を洗練させ、行動を環境により適応させることを可能にしていると考えられている。冷静な人は、VMPFCが発達しているので、情動反応にブレーキがかかりやすいのだろう。

バイアスの正体は、安全か危険かの判断を方向付ける情動反応だった。命を守るために発達した防御システムに起因するのだから、バイアスを避けられないのは当然だ。ただし、情動反応にはマイナス面だけでなく、プラス面もある。この点については、次号以降で検討する。

「吊り橋効果」とは何か

 これまで見てきたように、無意識レベルで起きる快・不快の情動反応に従って、人は心地よいと感じる解決を望むのだ。正しいと思う解決を望むのではない。

 困ったことに、バイアスを避けられない私たちは、しばしば無意識のうちに自分の行動を決め、後付けでもっともらしいストーリーをでっち上げてしまう。このことを証明した古典的な実験として有名なのが、ダットンらが1974年に発表した「吊り橋効果」だ(Dutton DG & Aron AP, 1974)

 実験では、独身男性に、深い渓谷にかかる足がすくむような不安定な吊り橋と、地面に近いところにかかる揺れない安定した橋を渡ってもらう。男性は、それぞれの橋の途中で若い魅力的な女性に呼び止められ、インタビューされた後、「もっとお話したかったら連絡してね」と告げられ、電話番号を教えてもらう、というものだ。

 その結果、揺れない木の橋で声をかけられた男性より、不安定な吊り橋の途中で声をかけられた男性の方が、はるかに高い確率で女性に電話をかけることが分かった。

 吊り橋で女性に出会った男性は、不安定な吊り橋の上にいることで起こる情動反応(心臓の高鳴りや手のひらの発汗)を、恋愛感情と錯覚していたことが、この実験では確認されている。吊り橋の揺れや目のくらむ高さから起きる不安感は真実だが、無意識のうちに起きる心臓の高鳴りなどの情動反応を意識化する過程で、独身男性らしく恋愛感情と錯覚してしまったのだろう。

 このような錯覚は、特別なことではない。日常的に起こっている。

 20歳前後の大学生に、薬物中毒やポルノ、不倫など、不道徳に関わる行為について、どの程度許せるか質問する前に、消毒済みの清潔なタオルで手を拭かせたところ、タオルで手を拭かなかった学生より、より厳しい判断をするようになることが分かった(Zhong CB et al., 2010)

 逆に、不道徳が人に手を洗わせることも分かった。

 実験協力者に過去に行った自分の過ちや不道徳で許せない行為と感じることを思い描いてもらうと、そうでない行為を想像したときと比べて、「洗濯」「シャワー」「石鹸」など、身体を綺麗にする単語を連想しやすくなった。また、身体を洗いたいと強く思い始めるようになった。実験後に謝礼としてほしいものを選んでもらうと、筆記用具よりお手拭きを選ぶ人が多かった。そして、実際に手を洗うことで、自分の罪が軽くなったと感じる人が多かったという(Zhong CB & Liljenquist K, 2010)

 心と身体は別々ではないのだ。道徳に反する理不尽な行為を受ければ、心が傷つくだけでなく、身体も汚されたと感じる。逆に、身体を清潔に保てば、人は心も美しくあろうとする。心を清めようと思えば、身体の汚れも落とそうとするのだ。

 次のような報告もある。

 建物の玄関近くによく置いてある、手指を清潔に保つための消毒液ディスペンサー(噴霧器)の近くで実験協力者に政治信条を尋ねたところ、ディスペンサーから離れた場所で尋ねたときより、保守的になることが明らかになった(Helzer EG & Pizarro DA, 2011)

 お分りいただけただろうか。人は必ずしも理性的に物事を判断している訳ではない。まずは直感、理由は後付けに過ぎないのだ。

 ひょっとしたら、除染廃棄物が片付かないままだったり、ホットスポットが点在したままだと、治安が悪くなったり、革新政党支持者が多くなったりするかもしれない。

科学と価値が混同される原因

 果たして原発事故でまき散らかされた放射性物質で、どのくらい被ばくさせられ、どのくらいの確率でがんなどの疾患が発生するのか、本当のことは誰も知らない。

 このように、不確実性が高くなると、なおさらバイアスがかかりやすくなることが、実験で何度も確認されている。

 一例を紹介しよう。

 マウスにランダムな音を聞かせ、次に何が起こるか予測できない不確実な状態に置いたところ、扁桃体が活発に活動し始めたことを示す遺伝子変化が起きた。行動も臆病になることが分かった。わざわざ動物実験を行うのは、脳を解剖して、分子レベルで直接、扁桃体の活動具合を確認するためだ。

 人間も同じだった。実験協力者にランダムな音を聞かせると、それだけで扁桃体が活性化することが、直接は見れないが、生きた人間の脳活動を外から間接的に観察できる機能的磁気共鳴画像法(fMRI)で確認できた。そのとき、怒り顔の写真を見せると、規則的な音を聞かせたときより、扁桃体はより激しく反応した(Herry C et al., 2005)

 不確実性が高くなると扁桃体が活性化しやすくなるということは、バイアスがかかりやすくなるということだ。

 つまり、低線量被ばくの健康リスクのように不確実性が高く、さらに、政治的、経済的、社会的、法的な利害関係が複雑で、自分の置かれた立場が不安定だと、自分の立場を無意識のうちに守ろうとして、なおさら扁桃体が活性化しやすくなり、強烈なバイアスがかかってしまう。

 これが、原発事故のように不確実性が高い健康リスク問題を議論する際、科学と価値が混同され、出口なき感情的対立に陥ってしまう原因だろう。

実効線量のワナ

 筆者はなにも、人間はどんなに頑張ってもバイアスから逃れられないのだから、科学の客観性を捨てても構わないと言っているのではない。「科学はもっと謙虚であれ」と言いたいのだ。

 科学者といえども、真空の中で生まれ育ったのではない。バイアス・フリーはありえないことを肝に銘じて、徹底的に科学的に議論する必要があるが、それでも残った不確実性の幅の間には、それぞれの人が譲れない価値観が含まれている可能性がある。だから、そこから先は価値の問題として、科学者以外の利害関係者を含めて、社会的な合理性に基づいて議論していけばいい。これが、筆者の意見だ。

 「実効線量」を例に考えてみよう。

 実効線量とは、身体全体に通算でどの程度、放射線の影響があるかを示す目安である。

 実効線量はあくまで計算上の数値で、実際に測ることはできない。3月号で指摘した通り、原発事故後、学校などに設置されたリアルタイム線量測定システム(通称、モニタリングポスト)や、サーベイメーターで測定している数値は実効線量ではなく、1㌢㍍周辺線量当量だ。0.6倍した値が実効線量なので、みんなが普段目にしたり、口にしている測定値で、時間あたり0.38マイクロシーベルト(1㌢㍍周辺線量当量)が、除染目標となっている実効線量、0.23マイクロシーベルトに相当する。

 実効線量は、次のように求められる。少々専門的な話になりますが、お付き合いいただければ幸いです。

 物理量として測定可能な空気吸収線量(グレイ)から等価線量を求める過程で、「放射線荷重係数」という係数が使われる図6。等価線量は、身体のそれぞれの組織・臓器ごとに、どの程度の影響があるかを示している。アルファ線やベータ線など、それぞれの放射線の種類やエネルギー量によって障害の起こりやすさが違ってくるので、異なる放射線荷重係数をかけて等価線量を求める。

 等価線量から、さらに実効線量を求める過程で、今度は「組織荷重係数」が使われる図7。被ばくした組織や臓器ごとに、がんや遺伝的影響の発生確率が異なってくるため、組織・臓器ごとに異なる組織荷重係数をかけて、足し算して得られた数値が実効線量だ。

 2つの係数を決めた国際放射線防護委員会(ICRP)によると、2つの係数は、放射線生物学および疫学から得られた知見に基づいて、「放射線防護に適用するための判断によって選ばれており、容認できる単純化」を行なったのだという※3。

※3 ICRP2007年勧告

 2つの係数は、実在しない人物(標準モデル)に対する放射線の反応を示しているに過ぎない。実効線量は、標準的な成人男性と成人女性のコンピューターモデルを使って、各臓器が受ける放射線の平均吸収線量を2つの係数で二重に加重平均したうえで、さらに男女間で平均化して得られるかなり大雑把な値だ。これらの単純化を容認できる人もいれば、容認できない人もいることだろう。

 ICRPは、「容認できる単純化」という表現で、科学に価値観が混入していることを認めている。ICRPはなぜか、どのような理由から単純化を容認できるかについて一言も言及していないが、「原子力発電は、安価で安定した電力供給と地球温暖化対策のために必要だ」と考える人は、この単純化を容認しやすいだろう。

 しかし、遺伝的に放射線に対して感受性が高い人、子ども、生活習慣病などで免疫力・臓器の代謝能力が低下した人、恐らくストレスから免疫力が低下しているであろう社会経済的弱者など、一言で言えば、平均的な人より放射線の影響を受けやすい社会的弱者・少数者は、健康リスクが過少に見積もられることになるので、この単純化を容認しにくいだろう。

 このように、科学は客観的なように見えて、実際に、はしばしば具体的な方法論をめぐる議論に認識論的な価値判断が混入してしまう。

数字に翻弄されてきた福島県民

 原発事故以降の、いわゆる政府系の科学者の議論を見ていると、実効線量の定義自体、科学的とは言えない(原理的に科学的ではあり得ない)ので、そのときの都合でルールを適当に変えても構わないと思っている節がある。

 実効線量の求め方から分かるように、基準値を多少変更したとしても科学的には大差ないだろう。しかし、科学的に見て大差ないからと言って、一部の人間が勝手にルールを変えていいことにはならない。ルールを変更するには社会的な合理性が求められるが、科学者にとって関心の薄い領域なので、この点について軽く考えているように見受けられる。

 一般の人たちは、この辺の政府系科学者のアバウトな感覚を理解したうえで自分たちの要求をしないと、彼らに分かってもらえないはずだ。いたずらに感情的な反発をするだけではなく、もう少し自分たちと科学者では「バイアスのかかり方が違うんだ」ということを、強く意識する必要があるだろう。

 基準値が上げられないように、年間被ばく線量1㍉シーベルトより5㍉シーベルトの方が、がん発生確率が高くなることを、一生懸命証明しようとしている方を見受けるが、意味がない。前述したように、実効線量は、あくまで目安として導入された大雑把な数値なので、科学的には、ほとんど変わりないからだ。

 そうではなくて、なぜ基準値の変更に社会的な合理性が必要なのかを、科学者や政府に理解してもらうにはどうしたらいいかを考えなければならない写真2

写真2 リアルタイム線量測定システム。測定値は毎時0.144マイクロシーベルトを示している。この値は1㌢㍍周辺線量当量。除染目標として話題に上る0.23は、同じマイクロシーベルト表示でも実効線量の値。実効線量は1㌢㍍周辺線量当量の0.6倍なので、写真の値0.144マイクロシーベルトを実効線量に換算すると、0.0864マイクロシーベルトになる。性質の異なる値に同じ単位、シーベルトが使われていることも、混乱の原因の一つになっている。

 水俣病の調査に携わった科学者・半谷高久は、科学と社会の関係について、次のように指摘している※4。

※4 半谷高久(1989)「科学の論理と水俣病」都留重人編『水俣病事件における真実と正義のために―水俣病国際フォーラム(1988年)の記録―』勁草書房

 自然科学的証明に忠実であろうとすればするほど、問題の解決を遅らせる危険性を持つ。……(自然科学者は)その因果関係を具体的な行動に反映させるに際して、どの程度の厳密性が要求されるのかの議論には習熟していない。…社会科学者は、一般に自然科学の研究における因果関係の論理の厳密性を具体的に検討するのに馴れていない。この間隙を狙って、権力は科学的論理による判断というカムフラージュの下に、権力の不当な行使を正当化する機会を持つ(太字、筆者)


 科学的合理性と社会的合理性の境界線を見極める作業が、被災者・被害者の救済にとって重要課題となる、という指摘だ。残念ながら、水俣病の教訓は、福島原発事故に活かされているとは言えない。

 少々、込み入った話になってしまったが、分断を解消するために重要なポイントなので、あえてここで触れさえていただいた。科学的合理性と社会的合理性の境界線の見極め作業は今後、ますます重みを増してくる課題だろう写真3

写真3 原子力規制庁が福島市で行なったリアルタイム線量測定システムの配置見直しに関する住民説明会(2018年8月30日)

科学論争で求められる素人の役割

 さて、これまで脳の構造上、科学者といえどもバイアスから逃れられないのだから、もっと謙虚であるべきだと述べてきた。それに対し、一般人の側には、とかく独りよがりになりがちな科学者の暴走に警鐘を鳴らす役割が求められるだろう。

 3月号で指摘したように、安全とは価値の問題なのだ。暮らしに根付いた価値観や、地域の気候・風土・伝統・文化の特異性は、その土地の人しか知らない。自分たちが失いたくない価値とは何かを、はっきり言葉にできるようになりたい写真4。住民が何を失いたくないかを言葉にできなければ、専門家はリスクを定義し、許容できるリスクレベルを推定することができないからだ。

写真4 朝もやに包まれた美しい里山の風景(二本松・東和地区)

 価値の問題については、連載の後半で改めて行うことにするとして、その前に、情動反応を、理性を脅かす厄介者扱いしていいのか議論したい。なぜなら、情動の脳神経科学の進歩で、過剰に見られがちだった不安(情動反応)には、生物学的な合理性があることが明らかになってきているからだ。

 つまり、原発事故の損害を、いまよりはるかに正当に評価できる可能性が見えてきたということだ。科学者に理解されなかった不安の内実を正当に評価できるようになれば、原発事故で被災者が失った価値を言葉にしやすくなる。

 このような観点から、次回は、政府が提唱する「被災者の過剰な放射線不安説」の限界と、不安を感じることの生物学的合理性について検討したい。



◆筆者紹介◆
 伊藤浩志(いとうひろし)1961年、静岡県磐田市生まれ。東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程修了。ストレス研究で博士号取得(学術博士)。専門は脳神経科学、リスク論、科学技術社会論。元新聞記者。阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などを担当した。福島市在住。著書に『復興ストレス─失われゆく被災の言葉』(彩流社)、『「不安」は悪いことじゃない─脳科学と人文学が教える「こころの処方箋」』(共著、イースト・プレス)がある。