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政経東北速報解説版 毎月2回(1・15日)発行
続・事件屋 竹内陽一氏の仮面を剥ぐ
月刊政経東北
政経東北速報解説版
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株式会社東邦出版
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FAX:024-554-6103
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 「地元で話題になった記事をもう一度読みたいが、図書館に行ってバックナンバーを探すのが億劫」、「書店で売り切れていて買えなかった」という声に応え、昨年反響のあった記事をWEB上で公開することにしました。カテゴリー別に分かれており、下記のカテゴリーから選択して、興味のある記事をクリックすると全文が表示されます。

連載

なぜ、福島は分断するのか(脳神経科学者 伊藤浩志)
 第4回 ―「不安」は悪いことじゃない―
 "過剰さ"に合理性あった県民の被ばく回避行動

 放射線に対する不安とは、いったい何に対する、どんな不安なのか。世の中、当たり前と思っていても、実はよく分かっていないことがある。分かっていないのに、当たり前と思い込んでしまうから、行き違いが生じる。まさに、それが放射線不安なのだ。とかく、過剰に見られがちな放射線に対する健康不安。果たして、本当に過剰なのか。過剰だとしたら、なぜ過剰になるのか。その訳を、不安を感じる脳のメカニズムに即して科学的に検証していこう。

 「不安」を感じるとは、脳科学的には心の問題というより、生命が漠然とした危険にさらされたときに全身で起きる情動反応のことで、例えて言えば、火災報知器が鳴ったようなものだ。

 恐れ、怒り、悲しみ、喜びなども、情動反応に分類される。情動とは、脳が何らかの有害な、もしくは有益な状況を検出したときに、ほぼ無意識に起きる一連の生理反応のことだ。

 つまり、脳科学の世界では、不安という情動反応を、発汗や血圧上昇、ストレスホルモンの分泌など、物質レベルの変化として観察可能な生理現象として扱う。心理現象としては扱わないので、注意してほしい。

 「情動」と紛らわしいのが「感情」だ。脳科学では、情動が意識化されたものを感情と呼ぶ。無意識的で自動的なシグナルである情動反応を、感情として意識化することで、より効果的に自分にとっての利益・不利益を学習できるようになる。その結果、環境に適応しやすくなると考えられている。

不安を科学する利点

 心や感情と区別して、不安を科学の対象として扱うことで、大きな利点が生まれる。

 現在、放射線の健康リスクの見積もりは、科学的に行われている。それは、判断が、人によって異なる価値観や利害損得に左右されないよう、ある程度の客観性が必要だと考えられてきたからだ。不安は、客観の対極にある主観的な心の問題と見なされたため、自動的に安全性の議論の対象から外された。これが、いわゆる安全・安心二元論だ。

 この安全・安心二元論を議論の大前提とすることで、放射線不安に対する世間の目線は、心の問題として個人の内面に向かう。必然の結果として、不安は心理カウンセリング、もしくは精神医学の対象として扱われるようになる。

 これでは、放射線に対する不安は、まるで天から降ってきた妄想のようで、その人の気持ちの持ち方次第でどうとでもなる自己責任と見なされかねない。現実に存在する健康リスクの高まりに対する警報(=正当な不安)であったとしても、見逃されてしまう危険がある。

 県内のある精神科医は、原発事故後に来院患者が増えたことを憤る。

  他の診療科の検査で何も出てこないと、ストレスが原因だろうと決めつけられて、メチャクチャに傷つけられて外来に来る患者さんがいる。心のケアと逆行する状況になっている。

 不安を心の問題としてではなく、情動反応という物質を基盤とした科学の対象として扱うことで、このような臭いものに蓋式の、たらい回し現象はなくなるはずだ。

 なぜなら、不安を科学することで、思い違いによる過剰な不安なのか、それとも、合理的な根拠があるのかを、物質レベルで客観的に判定できるからだ。

 不安は、4月号で紹介した生命の警報装置、扁桃体をはじめとする情動関連の脳部位が反応した結果生じる生理現象だ。被災者の不安に合理的な根拠があるかどうかは、情動反応が誤作動なのかどうかを検討すればいい。いたって単純だ。

 誤作動かどうかは、これまでの健康リスクの見積もりと同様、コルチゾールや炎症性サイトカイン、神経伝達物質など、身体内の生理物質の「量」として科学的に比較可能だ。そして、これまでの議論の対象になっていなかったとしたら、被災者の不安は思い込みではなく、合理性があると判断できる。

 不安を正当に評価することは、被災者の尊厳の回復につながる。このように、不安を科学することで、「安全」と「安心」の間に横たわっていた狭くて深い溝を埋めることができるのだ。

 それでは、不安を科学することで、何が見えてきたか見ていこう。

20㍉シーベルトの壁

 政府は、年間の放射線量が20㍉シーベルトを確実に下回ることを避難指示解除の条件にしている。この条件に、納得しない被災者は少なくない写真1

写真1 避難指示の解除に向けて行われた住民懇談会

 政府関係者:年間20㍉シーベルト以下なら、生活して問題ないと思います。
 被災者:20㍉シーベルトで、あなたは奥さんと子どもを連れて帰って生活できますか。
 被災者:間違っている。1㍉シーベルトじゃないのか。何が20㍉シーベルトだ。

 これまで福島県内外で、何度も繰り返されたやりとりだ。うんざりしている方も多いに違いない。なぜ、こんな行き違いが生まれるのだろうか。面白い調査を紹介しよう。

 被災者に向かって「20㍉シーベルトで安全」と説明する専門家も、いざ自分が当事者になると、政府関係者に怒号を浴びせる被災者と同様に、放射線に対して強い不安を感じ始めることが分かっている。

 放射線の講習を受けた救急救命研修所の研修生100人に、「あなたが科学的に納得できる1年間の値(放射線量)はどれですか」と質問すると、「20㍉シーベルト」と答えた研修生が最も多かった。次に多かったのが、「50㍉シーベルト」だった。

 ところが、同じ研修生に「家族と一緒に住むときには、どの値にしますか」と聞くと、「20㍉シーベルト以下」の回答が圧倒的に多くなったという。

 別のクラスの研修生100人に、「あなたが(一般住民を)避難させる立場だったら、どういう値で避難させますか」と質問したところ、「20㍉シーベルト」が最も多くなった。

 調査を行なった救急救命九州研修所の郡山一明は、「自分が当事者でない場合には、科学的な値で他者を説得しようとするけど、自分が当事者の場合には、科学的な値では納得しない。こういうこころの動きがありそうだ」と考察している(郡山一明他、2013)

 なぜ、「科学の値」と、被災者の主観的なリスク認知(不安)のギャップは埋まらないのだろうか。

フレーミング問題

 人がものごとを決めるとき、フレーミング(問題を切り取る視点)によって、判断に違いが出てくることが知られている。意思決定における非合理性に着目してノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者、カーネマンらが行った実験、「アジア病問題」が有名だ(Tversky A & Kahneman D, 1981)

 アジア病問題とは、調査協力者に次のような質問をして、自分ならどちらの対策を取るか、二者択一の回答を求めるものだ。

 【問題】米国は、アジア由来の珍しい疾病の大流行に備えている。予想される死者は600人である。あなたなら、どちらの対策を選びますか。
 対策A:確実に600人中200人が助かる
 対策B:1/3の確率で全員が助かり、2/3の確率で全員が死亡する

 この問いに対しては、調査協力者の72%が対策Aを選んだ。対策Bの期待値は200人(=1/3×600+ 2/3×0)で、助かる人数は対策Aと同じなのに、である。

 ところが、質問を次のように言い換えると、回答の仕方が変わってくる。

 対策C:確実に600人中400人が死亡する
 対策D:1/3の確率で誰も死なず、2/3の確率で全員が死亡する

 このような聞き方をすると、答え方が逆転する。ほとんどの人(78%)が、対策Dを選んだ。

 対策AとC、対策BとDは、質問の仕方が違うだけで同じだ。なのに、問題を切り取る視点をポジティブ・フレーミング(命が助かる)にすると、多くの人は正の感情を抱き、確実さを求める。ネガティブ・フレーミング(命を失う)にすると、逆に負の感情が起き、リスク志向になる。

 この調査結果を聞くと、ものを見る角度が変わるだけで、判断が正反対になるなんて、人の感情は当てにならない。やはり、安全性は客観的に、科学的に判断すべきだ、と思いたくもなる。

 ちょっと、待ってほしい。

 専門家も、自分の家族のことを考えるとフレーミングが変わり、被災者と同じになるのはなぜだろうか。もう少し考えてみよう。

サイズ効果

 意思決定が感情に左右されることが非合理と解釈されるのは、カーネマンらが、客観的確率を重視する立場に立っているからだ。

 フレーミングによって判断が違ってくるからといって、必ずしも非合理とはいえない。どのような規範理論を前提にするかによって、人々のリスク認知が主観的で当てにならないと見なされる場合もあれば、客観的な合理性があると判断できる場合もある。

 注目してほしいのは、アジア病問題で想定している集団の規模だ。カーネマンらは、600人だった。

 進化心理学のワンは、集団の規模が意思決定に影響を与えることを突き止めた(Wang WT & Johnston VS, 1995)

 アジア病問題の集団規模を変えて質問したところ、集団規模が120人以上だとカーネマンらの調査と同じように、ポジティブ・フレーミングの場合、多くの調査協力者は、確実に1/3の人が助かる堅実な対策を選んだ。

 ところが、集団規模が120人以下だと、質問の仕方にかかわらず、調査協力者の多くはリスク志向的になり、1人でも失うことを恐れ、全員が助かる対策を選択した。集団規模が小さくなればなるほどリスク志向は強まり、集団規模が6人だと90%以上の人が、不確実でも全員が助かる対策を選んだ。

 非常に示唆に富んでいるのは、120人が分岐点になっている点だ。

 なぜなら、人類が進化し、現代人の特徴を獲得したとされる100万〜200万年間続いた狩猟採集社会の集団規模が、約150人と推定されているからだ。この数字は、発見者の名にちなんでダンバー数と呼ばれている。

 集団規模の推定は、人類以外の霊長類の平均的な集団規模が、大脳新皮質の大きさと比例していることを参考にして割り出された(Dunbar RIM, 1993)

 アジア病問題の質問で、集団規模が120人以上だと冷静に分析できるのは、人類が進化して環境に適応した集団規模を超えてしまい、赤の他人の問題と思えてくるからだろう。だから、客観的にリスクを認知できるようになる。

 集団規模が、知人や親戚などを想定する120人以下になると身内意識が強くなり、「誰も失いたくない」と感情的になる。リスク志向が最大になる集団規模6人は、いうまでもなく家族の人数だ。このような「サイズ効果」は、文化横断的に安定して観察されている(Bloomfield AN, 2006)

 誰もが、子どもを失うくらいなら自分も死んでいいと思う。放射線教育を受けた専門家が、当事者となった場合、できるだけ低線量を求める理由はここにある。

 2015年に避難者に対して行われたアンケート調査では、帰還できると考える放射線量が、同居している子どもの有無で大きく異なることが分かった(持田隆平、2015)

 事故由来の追加被ばく線量が年間ゼロミリシーベルトと回答した避難者は、母子避難を含め子どもと同居している世帯では60%を超えたのに対し、子どもが独立している世帯では約38%にとどまった。

 客観的確率に基づくと非合理に見えても、認識論的確率、つまり個人が持つ信念の度合いに基づけば、生物学的な合理性が見えてくる。

 現象を放射線「量」に還元する客観的確率に頼ると、集団規模が6人でも、60人でも、600人でも、パーセンテージにしてしまえば同じなので、想定する集団規模150人を境に判断が逆転する生物学的合理性に気づかない。不安を科学することで、生物学的な合理性(「質」の違い)を、きちんとリスク評価の対象にできるようになる。

 これまでの自然科学的リスク評価では、それができないがために、不安は被災者自身の内面の問題にされてしまった。不安が正当に評価されない屈辱感、疎外感はさらなる不安の原因となり、このこと自体、健康リスクとなり、被災者の心身を蝕んでいく。

 「年間20㍉シーベルトで、あなたは奥さんと子どもを連れて生活できますか?」と、政府関係者に詰め寄る被災者の叫び声には、生物学的な合理性があったのだ。

なぜ人類の脳は大きいのか

 ところで、人はなぜ、ダンバー数150人以下になるとリスク志向になり、誰かが命を落とすくらいなら、自分も死んでも構わないと思うようになるのだろうか。

 この疑問に答えるためには、私たち人類が、更新世(こうしんせい)と呼ばれるほとんどが氷河期で、食糧に乏しかった260万年前から1万年前までの間、自分の子どもを無事に育てあげるために、ひたすら仲間の助けを得ようと努めてきた祖先の末裔だということを、意識せねばならない。

 人類は、社会的動物として進化した。霊長類では、社交的なメスの子どもほど生存率が高くなり、良好な社会関係の維持が個体の生存に有利になることが報告されている(Silk JB, et al., 2007)。社会的動物である人類が集団規模に敏感で、危険を冒しても仲間を守ろうとするのは、結果的に自分や、自分の子孫の生存率を高められるからだ写真2

写真2 集団で暮らす野生のヒヒ(Silk JB, 2007より)

 霊長類では、集団規模が大きくなるにしたがって、脳に占める大脳新皮質の割合が大きくなることが分かっている(Dunbar RIM, 1992)。情動反応の主役といえる扁桃体も、集団規模が大きくなるにしたがって大きくなり、人類が最大だ(Barger N et al., 2014)。さらに最近になって、社交的な人の方が、人付き合いの少ない人より扁桃体が大きいことも明らかになった(Bickart KC et al., 2012)

 脳の大きさは、情報処理能力の高さと関係している。

 たとえば、果物を主食にしているサルの方が、葉っぱを主食にしているサルより、身体の大きさとは無関係に大脳新皮質が大きいことが確認されている(Allman J et al., 1993)

 1年中手に入る葉っぱと違って、果物を手に入れるためには、数ある植物の中のどの植物とどの植物が実をつけて、それぞれの植物の実がいつ、どの場所で、食べごろになるか覚えておかなければならない。果物を食べるサルは、必要な情報を記憶にとどめておくために脳を増大させたと考えられる。

 このように、脳が大きいほど、複雑な情報を処理できる。

 つまり、脳が大きい霊長類ほど、大きな集団を維持できるということだ。それに比例して寿命も長くなる(Allman JM et al., 1993)

 外敵から身を守り、食糧を確保し、より長生きしたうえで、自分にふさわしい繁殖相手を見つけ、子どもを守り、より多くの子孫を残そうとするなら、より多くの仲間と助け合って暮らした方が有利だ。

 ただ、集団規模が大きくなればなるほど、仲間との関係が複雑になる。仲間との良好な関係を維持するためには、脳を大きくして、多くの情報を処理する必要があった。

 これが、集団規模が大きいほど脳が大きく、寿命が長い理由と考えられる。霊長類で寿命が一番長いのは、脳と集団規模が最も大きい人類だ。

 人類の脳は、体重の2%しかない。なのに、脳は身体全体の20〜25%ものエネルギーを使う。氷河期を生き延びるために人類が選んだ選択肢は、乏しい食糧を仲間と奪い合うことではなく、仲間と助け合う方策を見つけるために、カロリーを大量消費してお腹をすかしてでも脳を増大させることだった。

 だから、身内の不幸は放っておけないのだ。仲間の誰か、特に自分の子どもが命を落とすくらいだったら全員死んだ方がましだと思う。確率が低かろうが、みんなが生き残る方策をなんとか見つけようとする。

 人は10回ないし100回チャレンジできるギャンブルだと、客観的確率にしたがって堅実な賭け方をする。ところが、1回しかチャレンジできないと分かると、リスクが高くても儲けが大きい賭け方をするようになる(Keren G & Wagenaar WA, 1987)

 このように、一発で勝負が決まってしまうとなると、自分の信念にしたがって望む目を出そうとするのが、人間の本能的な習性のようだ。人生はやり直しがきかないのだから、当事者にとって、生存率は100%か0%の2つに1つしかない。客観的確率は役に立たない。

 母親が一度しかないわが子の人生を案じて安全か危険か、自分の信念に基づいて白黒つけようとする理由の1つは、ここにある。わが子を思う母親が、こう感じてしまうように脳が進化してきたからこそ、人類は繁栄できたに違いない。現在の脳科学で分かっている範囲で、この点について、もう少し突き詰めてみよう。

脳内で別々に処理される2種類の痛み

 これまでお話してきたように、人類は社会的動物として進化することで、生存率を上げてきた。

 そして、集団を維持するために発達した情動反応が「共感」だ。

 他人の痛みを自分の痛みのように感じる共感能力は、子どもを守るために、子どもの飢えや苦痛を感知するセンサーとして発達したと考えられている(Decety J et al., 2012)

 共感能力には、前部帯状回(ACC)という脳部位が大きな役割を果たしている図1。ACCの元来の機能は、感覚的な痛みにともなって、「いやだあ〜」と感じる情動的な痛みを処理することだ。

図1 前部帯状回

 ご存知だろうか。痛みには、「感覚的な痛み」と「情動的な痛み」の2種類ある。不思議なことに、感覚的な痛みと情動的な痛みは、まったく別々に処理されている。

 感覚的な痛みとは、画びょうを踏んづけたとき、足の裏がくすぐったいのではなく、痛いと感じる感覚のことだ。この痛みは、身体がどんな刺激を受けているのか、刺激の種類の識別に関わっていて、体性感覚皮質というところが反応する図2。感情はともなわない。

図2 体性感覚皮質

 これに対して、情動的な痛みは、その刺激(痛み)が、どれくらい危険なのかを教えてくれる。痛みが命に関われば関わるほど、ACCが激しく反応して、「いやだあ〜」という不快感を強く感じる。

 たとえば、次のような実験が行われている。

 実験協力者に、「熱くないですよ」と暗示をかけてから、左手を47度のお湯につけてもらった。そのとき脳の活動を測定したところ、暗示でお湯の熱さに不快感を感じなくなった人ほど、ACCの活動が低下していることが分かった(Rainville P et al., 1997)

 感覚的な痛みに関わる体性感覚皮質の活動は、どの人も同じだった。皆、お湯の熱さは自覚していて、ACCの活性化の度合いに応じて、不快感の感じ方だけが違っていた。

 2つの痛みの性質の違いは、ACCと体性感覚皮質、それぞれを破壊する動物実験で、はっきりと確認されている(Fuchs PN et al., 2014)

 動物も人間と同じように、過去に痛い思いをした場所にさしかかると、そのときの不快感が蘇り、その場所を避けるようになる。

 ところが、ACCを破壊すると、痛みは感じるものの、不快感を感じなくなるので、痛い思いをした場所にいても平気になる。

 一方、体性感覚皮質を破壊すると、痛みを感じなくなる。しかし、不快な記憶は残っているので、過去に痛い思いをした場所に近寄らなくなる。

 以上から明らかなように、人も動物も、ACCが活性化すればするほど、強い不快感を感じる。強い不快感ほど記憶に残るので、2度と不快な思いをしないよう学習し、危険を避けることができる。ACCは、どのくらい不快感を感じるかで、われわれに危険度を教えてくれるのだ。

集団の維持に必要な共感力

 面白いことに、恋人の男性の手に電気刺激を加えると、見ていた彼女のACCが活性化し、彼女が恋人の痛みを自分の心の痛みとして感じていることが確認された(Singer T et al., 2004)。大切な人の痛みに共感したとき、自分に危険が迫ったときと同じ神経回路が活性化したのだ。

 この実験から、ACCが共感という情動反応に深く関わっていることが分かった。

 痛みを感じるセンサーに役割分担がなかったら、自分に対する痛みしか感じることができないはずだ。刺激の種類の識別と危険度の判定が、脳の中で別々に処理されていたからこそ、人間が社会的動物として進化する過程で、結束力を高めるために、仲間の痛みを自分の痛みとして感じることができるようになったに違いない。

 共感は、集団を維持するうえで、最も重要な情動反応であろう。動物行動学者のドゥ・ヴァールは、次のように語っている。

 母親による(赤ん坊の)世話は、利他行動の原型であり、他のいっさいのもののテンプレートだと言いたい。…子供は私たちの一部であり、そのため私たちは自分自身の身体にするように、何も考えずに子供を守り、養育する。それと同じ脳のメカニズムが、それ以外の、思いやりある関係の基盤を提供する(De Waal FB, 2013)

 そして、人は、愛する人を守るためには痛みを通り越し、快感さえ覚えるようになることが、次の実験で示された。

 付き合い始めてまだ日の浅い恋人のいる学生を集めて、「これ以上熱いと触っていられない」と本人が感じるほど熱くした金属板に右手を置いてもらった。

 そのとき、恋人の写真を見せると、痛みが和らぐことが分かった。恋人の写真を見て痛みを感じにくくなったときには、予想通りACCの活動が低下していた。一方、快感を感じる脳の報酬系が活発に活動していることが分かった(Younger J et al., 2010)

 別の実験では、恋人と手をつないでいると、脳の活動がシンクロして痛みを感じにくくなることが確認されている(Goldstein P et al., 2018)。パートナーが苦痛の程度を正確に言い当ててくれる実験協力者ほど、痛みを感じていなかった。つまり、痛みを共有できる大切な人を守るためには、自己犠牲に快感を感じるように人類の脳は進化したのだ。

 ここでもう一度、アジア病問題を振り返ってみよう。

 集団規模がダンバー数150人を下回ると、質問の仕方にかかわらず、人はリスク志向になり、1人でも失うことを恐れ、全員が助かる対策を選択するようになった。

 身内を強く意識すると感情的になってリスク志向になるのは、一見、不合理に見える。しかし、閉塞状況を打開するために、一か八かの賭けに出るのは、長い目で見ると合理性があるとも考えられる。

 先の実験で示されたように、愛する人を意識すると、脳の報酬系が活性化し快感を感じることは、リスクを恐れなくなることを意味する。

 このような脳の仕組みがなかったら、われわれ人類は、食糧が手に入らず窮地に陥ったとき、身を賭して新たな資源の探索をしなくなるだろう。その結果として、いつまでも飢えに苦しみ、一族は存続の危機に直面することになる。

 目先の損得にとらわれると無謀に見えることでも、長期的な視点に立つと、高い生物学的な合理性が見えてくる。

 脳の報酬系が活性化すると快感を感じるのは、神経伝達物質、ドーパミンが放出されるからだ。そして、ドーパミンの情報を受け取るアンテナの役割を果たしている受容体のうち、D4受容体はドーパミンの作用にブレーキをかける役割がある。

 同じ受容体でも、人によって少しずつ性質に違いがあり、10種類あるD4受容体のうち、最も人口に占める割合が多いのは4R遺伝子だ。

 7R遺伝子は、4R遺伝子よりブレーキのききが悪い。つまり、この遺伝子を持っている人は、快感を感じやすい。2R遺伝子は、7R遺伝子と性質が似ていて、ブレーキのきき具合は、4R遺伝子と7R遺伝子の中間だ。

 7R遺伝子を持っている人は、注意欠陥多動性障害(ADHD)になりやすいといわれている(Grady DL et al., 2003)。ADHDと聞くと、落ち着きのなさ、集中力の欠如、衝動性をイメージしがちだ。しかし、活動的で、何ごとにも物怖じせず、前向きに取り組む人だともいえる。

リスク志向とドーパミン

 窮地に陥ったとき、一か八かの賭けに出る人がいてくれたから、人類は今日の繁栄を築けたことを示す調査結果が2011年、発表された。

 日本人を含む世界18の民族について、7R遺伝子と2R遺伝子を持つ人の割合(以下、7・2R遺伝子)と、その民族の居住地が、人類発祥の地、アフリカ大陸からどれだけ離れているかを調べたところ、アフリカ大陸から遠く離れた土地で暮らす民族ほど、7・2R遺伝子を持っている人の割合が高いことが明らかになった(Matthews LJ & Butler PM, 2011)

 7R遺伝子を持つ人の行動は、落ち着きがなく、ときに無謀かもしれない。しかし、リスクを恐れなくなる7R遺伝子がなかったら、人類はいつまでもアフリカ大陸にとどまったままで、絶滅していたかもしれない。ひょっとしたら、新大陸を発見したコロンブスも、ADHDだったかもしれない(未確認)

 人類は5万年ほど前に、アフリカ大陸から世界各地に移動を始めたと推定されている。7R遺伝子は、ほぼ同時期に突然変異によって4R遺伝子から枝分かれしたことが確認されている。きっと7R遺伝子の誕生が、人類に未知の大陸への移動を促したのだろう。

 一方、2R遺伝子は、農耕が始まった1万年前に枝分かれした。

 7R遺伝子はアメリカインディアンに多く、2R遺伝子はアジア人に多い。人類が大陸移動を始めた時期、農耕を開始した時期と、ドーパミンD4受容体が突然変異で7R遺伝子、2R遺伝子に枝分かれした時期がぴたりと一致している図3

図3 民族移動距離とドーパミンD4受容体の多型
(Matthews LJ & Butler PM, 2001 を改変)

 東日本大震災後、福島に限らず被災地では、落ち着きのない子どもが増えたという。ひょっとしたら、何らかの生物学的な必然性があるのかもしれない。

 落ち着きのなさは、いまの世の中で暮らすうえではハンディになるかもしれない。しかし、7・2R遺伝子がなかったら、私たち日本人は存在せず、稲作文化も開花しなかったに違いない。環境が変われば、ハンディが誰にもマネできない長所に生まれ変わることだってある。

 障害と決めつけることで、その人の可能性を閉ざしてしまうことがあってはならない。それは、いまだ先行きが見通せない福島の復興にとって、大きな損失になることだろう。多様性が未来を切り開くことを、7・2R遺伝子をめぐる民族移動と農耕の歴史が教えてくれた。痛みを経験した福島県民だからこそ、多様性を個性として尊重できるようになるはずだ。

過剰な不安の背後にあった生物学的な合理性

 被災者のリスク認知は、どのような規範理論を仮定するかによって、過剰な不安と見なされる場合もあれば、合理性があると認められる場合もある。

 今月号では、客観的確率からは一見、不合理と解釈される不安に、進化心理学的な視点(ダンバー数)を導入することで、生物学的な合理性が見えてくる事例を取り上げた。これまでは、放射線の健康リスクを物理学的な視点でのみ評価していたので、このような合理性が見逃されてきたのだ。

 次号では、社会経済的な立場の違いなどによって、不安の感じ方が「正常」に過剰になってしまう事例を紹介しよう。過剰に不安を感じた方が正常というのは、その方が生存に有利になる、という意味だ。過剰に見えた不安の背後にある必然性に気づけば、お互いの理解が進み、分断の解消につながるはずだ。



◆筆者紹介◆
 伊藤浩志(いとうひろし) 1961年、静岡県磐田市生まれ。東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程修了。ストレス研究で博士号取得(学術博士)。専門は脳神経科学、リスク論、科学技術社会論。元新聞記者。阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などを担当した。福島市在住。著書に『復興ストレス─失われゆく被災の言葉』(彩流社)、『「不安」は悪いことじゃない─脳科学と人文学が教える「こころの処方箋」』(共著、イースト・プレス)がある。