人は1人では生きられない。生きるために仲間と助け合うしかすべのなかった人類は、社会的動物として進化した。隣人と仲良くする知恵を得ようと、200万年かけて脳を大きくした結果、脳と集団規模は霊長類最大となった。おかげで、寿命も最も長い。生き延びるために、仲間との関係を大切にしてきたのだ。だから、人とのつながりの豊かさを失えば、途端に命が脅かされる。今月号では、放射線災害に起因する故郷喪失が、いかに福島県民の心身をむしばむか検証する。
地球上で唯一、直立2足歩行する人類は、短距離走が苦手だ。足が遅いことが直立2足歩行の致命的な弱点で、4足歩行の動物と競ったら、たいてい勝ち目はない。なにせ、オリンピック100㍍走にカバが出場できたとしたら、でっぷりした体型に似合わず金メダル最有力候補にノミネートされることだろう。人類史上最速の男、ウサイン・ボルトも真っ青だ。だから、「山菜採りでクマと鉢合わせしたら、走って逃げなさい」などと誰もアドバイスしないのは、もっともなことだ。
心が痛むと「心臓」が痛む
猛獣に襲われたら、ひとたまりもない。そんな、ひ弱な動物、人類は、仲間に頼って命を紡いできた。本誌6月号で指摘したように、人類を含めた霊長類は、生存率を上げるために仲間との結束力を強め、集団で暮らすように進化した。
だから、孤立を嫌う。孤独な人は不安を強く感じやすいことが知られているが、孤立で高まった不安
(生命の警報)は、天から降ってきた妄想などではない。
人は孤立すると病気になりやすくなり、死亡率が上がる。
実際、人とのつながりが希薄な分断社会は治安が悪化、殺人を含む犯罪発生率が高くなる。教育水準も低下。いじめにあう子どもの割合、10代の妊娠率が高くなる。幸福を感じる人の割合は低くなり、アルコール依存症、薬物中毒患者が多くなる。
こんな殺伐としたストレス社会では、とても生きた心地がしない。心臓病、がんの死亡率が高くなる。乳児死亡率、そして総死亡率も上昇することが知られている
(Wilkinson RG,2005; Marmot M, 2015)。
どうして人間関係が希薄になると、心だけでなく身体も病んでくるのだろう。
コーエンらの実験によると、健康な成人に風邪ウイルスを混入した点鼻薬を投与したところ、友だちが少ない人は、多い人と比べ4倍以上も高い割合でかぜの症状が出たという
(Cohen S et al.,1997)。別の調査では、配偶者との死別直後は、心筋梗塞のリスクが2・2倍に跳ね上がると報告されている
(Carey IM et al.,2014)。原因はいずれも、ストレスによる免疫力の低下と見られる。
心と身体は別々ではない。心が痛むと、本当に心臓が痛む。うつ病の人は心臓病になりやすい
(Baune BT et al.,2012)。ストレス症状が重い人ほど、心臓病や脳卒中の死亡率が高くなり、強い心理ストレスはがん死亡率も高める
(Russ TC et al.,2012)。
逆の例も報告されている。心が安らげば、身体も元気を取り戻すのだ。
周囲のサポートがしっかりしていると、心筋梗塞を起こした人の生存率は3倍も高まる
(Berkman LF,1995)。うつ病の薬、SSRIは心筋梗塞のリスクを減らすことが、24万人を対象にした調査で明らかになっている
(Coupland C et al.,2015)。
大災害後には、被災者に寄り添うことが大切だと言われ続けたが、単に寄り添うだけでも、被災者の心と身体の傷を癒すことができるのは本当のことのようだ
(写真1)。人と一緒にいると、脳の活動がシンクロして痛みを感じにくくなることが確認されている
(Goldstein P et al.,2018)。信頼できる相手ほど脳がシンクロしやすく、痛みを感じにくくなるそうだ。
写真1 復興の決め手は人とのつながりの豊かさ(南相馬市で開かれた復興イベント)
このことを裏付けるように、人とのつながりが豊かな地域では、大災害後の健康被害が少ないことが、日本老年学的評価研究
(岩沼プロジェクト)によって明らかになっている。
仙台市近郊の岩沼市は、東日本大震災による津波で大きな被害を受けた。調査対象となった高齢者の40%近くが親族や友人を失っている。調査では、結束力の強い地域に住んでいる人の方が、そうでない地域に住んでいる人より心的外傷後ストレス障害
(PTSD)になるリスクが、25%少ないことが分かった。また、友人の数が多く会う頻度が多い人、スポーツなど趣味の集まりへの参加頻度が高い人ほど認知症になりにくいことも分かった。
この事例は、人とのつながりの豊かさが、いかに心身の健康にとって重要かを物語っている。
区域外住民が強い不安を感じるわけ
では、次の調査結果は、どう受け止めたらいいのだろうか。
早稲田大学の辻内琢也教授らが避難者を対象に行った調査※1で、避難指示区域外の福島市など中通りからのいわゆる自主避難者が、避難指示が解除された地域
(旧緊急時避難準備区域)の住民より、強い精神的ストレスを感じていることが分かった。
※1 調査は2015年に、避難者1万7000世帯を対象に行われた。
帰還の見通しが立たない帰還困難区域からの避難者が強いストレスを感じていることはもっともだが、区域外の避難者がそれと同程度の強いストレスを感じているのだ。なぜだろうか。
東京大学の川上憲人教授らの調査※2では、事故を起こした第1原発に近い浜通りより、中通りの住民の方が精神的ストレスを感じていて、抑うつ傾向が強いことが示されている。
※2 調査は2014年に、20歳から75歳未満の福島県民1000人を対象に行われた。
ヒントになりそうなのは、1998年に中国河北省で発生した地震後の被災地調査だ。調査によると、支援や義援金が集中する被害の中心部より、被害の程度が軽くても支援の届きにくい周辺地域の住民の方が、PTSD発症率が高かった
(Wang X et al., 2000)。
逆に、阪神・淡路大震災でPTSD発症率が低かったのは、国内外から多くのボランティアが支援に駆けつけるなど、被災者が人とのつながりを実感できたことが大きかったと言われている
(新福尚隆、2006)。
これらの調査で分かったことは、被災者にとっては被災後に、「見捨てられた」とか「置き去りにされた」などと感じる状態に置かれること自体、
復興災害ともいえる新たな健康被害の原因になるということだ。
中通りなど区域外の地域では、パッと見では放射線災害の被害は目につかない。しかし、住民の多くは、口をそろえて「故郷が失われてしまった」と嘆く。確かに、命にかかわる被害は発生した。しかも、現在進行形なのだ。なのに、なかったかのように忘れ去られようとしている。
理解してもらえず説明に疲れ、傷つきたくないから、言葉を失っていく。自尊心は引き裂かれ、存在は切り捨てられ、不安と憤りから、精神的にも肉体的にも追い込まれていく人たちがいる。
それでは、被災の言葉を手掛かりに、何が起きているのか見ていこう。
里山の恵みとスーパーのキノコ どこが違うのか
多くの県民は、以下のコメント※3に共感できるはずだ。中山間地の豊かな暮らしの何が失われたかを、如実に物語っている。
※3 誌面の都合で紹介できないが、コメントをいただいた方々には、感謝申し上げます。
春にはコゴミ、タラの芽、コシアブラなどの山菜。秋には豊富な種類のキノコ。食卓を潤し、各家庭で保存された。
採集には長年の経験、知識、技術が必要。時間と手間がかかる。収入には直結しないが、食生活には欠かせない自然の恵み。レジャーではなく重要な生業の一つだ。
原発事故後は、まったくできなくなってしまった。里山が失われることで、自然とともにあった暮らしは戻らない。
里山で採れる山菜やキノコなどは、経済的にはたいして価値はない。労力を考えたら、種類は少ないが、スーパーで買った方が安上がりだ。遊びの要素が強く、やめたとしても実質的には何ら支障はない。なのに、意外なほどの情熱によって受け継がれてきたのは、なぜだろうか。
キノコや山菜を採るのに、たいした道具はいらない。しかし、だからこそ、ハイテク化された日常の経済活動とはまったく次元の異なる、自らの身体を駆使した高度な技法が必要になってくる。
しかも、この技は、自然と密接にかかわってきた長年の経験に基づく知識がなければ習得できない。毎年の山菜やキノコの収穫を通して、季節の移り変わり、悠久の時間の流れを実感する。里山の中に身を置いて、先祖の代から繰り返されてきた営みを自ら実践することで、自然や土地の人たちに包み込まれている自分の存在を体感する。
このことが、たまらない魅力になる。技法の習熟、知識の有無などによって、キノコや山菜などの収穫に、大きな個人差が出てくるからだ。競争しつつも、先人から知識を受け継ぎ、自分でも創意工夫を加える努力をしてきた。
その成果は、単に金銭的価値にとどまらない。日常の職業、社会的地位の違いに左右されない平等な活動の成果として、土地の人から「名人」と呼ばれることは、当人だけでなく、家族にとっても大きな誇りとなる。その土地の人間としての、確かな役割を実感できるからだ。
だから、クマに襲われるリスクを覚悟のうえで、山に分け入って行く。しかし、その里山の除染は行わないことになっている。環境省が、その方針を変える気配はない。
この見える山々、土地すべてが生活空間なのだ。山から山菜を採り、川で魚を釣り、そして山から腐葉土を取って土を肥やしてきた。そのすべてが生活空間ではないのか。宅地、田畑だけが生活空間ではない。
森林除染は、里山の暮らしの豊かさを知る土地の人にとっては、生活圏の除染にほかならない。除染が行われないことは、里山の価値を認めてもられないことを意味する。
その一方で、山肌は削り取られ、里山自体がなくなりつつある
(写真2)。農地除染や防潮堤の復旧に必要な山砂を確保するためだ。国が復興の切り札として進める「福島イノベーションコースト構想」の用地造成としても、里山は削られる
(写真3)。土地の人が削られた山肌を見ると、まるで自分の肌がえぐり取られたかのような痛みを感じるのではないか。
写真2 復興事業のために山肌を削り取られる里山(南相馬市で撮影)
写真3 浪江町棚塩地区の棚塩産業団地に建設予定の福島水素エネルギー研究フィールド
地元民は、「開発にあたっては、地域に根ざした歴史、文化に畏敬の念を持って関わってほしい。このままでは、先祖から受け継がれてきた文化がなくなってしまう」と嘆く。
「遊び仕事」としての里山文化
ところで、採ってきた山菜、キノコ、ヤマメなどの川魚、イノシシの肉などは、おすそ分けされることが多い。調査によると、半分ほどは親戚や友人、知人に配られるそうだ。
作った米や野菜、山菜、キノコを近所の人、遠くの友人、知人に配るのが楽しみだった。旬のものを贈ってあげて、贈られた方も、贈った方も、お互いに喜んでいた。それを生きがいにしていた。そんな当たり前の人間関係がなくなったことが残念でならない。
仲間と一緒にイノシシを獲って、みんなでシシ鍋を食べるのが、何よりの楽しみだった。
山菜やキノコを採る楽しさとは、なんといっても里山の恵みを「おすそ分け」することを通した人との付き合いの楽しさなのだ。家族や親戚、友人、知人など、贈った相手に喜んでもらえるのが楽しいし、相手の喜ぶ顔を見るのが生きがいになる。おすそ分けは、隣近所、そして、故郷を離れて暮らす親戚や知人との関係性をより強固にする社会的意義を担っている。
だから、山に入って自分でキノコや山菜を採ることに価値がある。スーパーで買っても意味はない。市場経済のモノサシではかることのできない
里山暮らしの豊かさとは、人とのつながりの豊かさなのだ。
以上、被災者のコメントを軸に見てきた山菜採りやキノコ狩りの特徴は、
マイナー・サブシステンス(遊び仕事)と呼ばれ、民俗学の分野で詳しく調査されている。
遊びの要素が強く、収入は当てにならない。しかし、成果は金額以上に高く評価され、肉体的にきついが、ハマると病みつきになる。使用する道具は素朴で、高度な技能が要求される。そのため、名人はその土地で名声を得る。これが、マイナー・サブシステンスだ※4。
※4 松井健(1998)「マイナー・サブシステンスの世界」、篠原徹編『民俗の技術』朝倉書店
「遊び仕事」と意訳されるように、マイナー・サブシステンスは、経済活動として金銭という「量」に還元できないので、これまでほとんど評価されてこなかった。しかし、その土地の人にとって先祖から受け継がれてきた日常的なさりげない行いとしての遊び仕事は、コミュニティーの土台を形成する大切な機能を果たしている。
南相馬市原町区に住む長澤利枝さん
(77)も、春には山菜、秋にはキノコと毎年、季節ごとの里山の恵みを楽しんできた1人だ。福島の人はイノハナと呼ぶ高級キノコの代表格、香茸の炊き込みご飯をお客さんに振る舞うことが、なによりもの誇りだった。「春になれば毎年かかってきた隣の奥さんからの電話が、原発事故が起きてから一度もない。里山を失って、豊かな会話がなくなった」と悲しむ。
先に述べたように、心が痛めば、実際に心臓が痛む。里山喪失による人間関係の希薄化は、命に関わる重大な健康リスクになる。うつ病などの精神疾患だけでなく、心臓病、脳卒中、糖尿病、がんなど、ありとあらゆる病気のリスクが高まる。
原因は、里山が放射性物質に汚染されたためだ。立派な放射線災害なのに、
里山喪失による健康リスク増大が認められないのなら、「見捨てられた」と感じるのは当然で、その疎外感自体がさらなる健康リスクとして、区域外の住民を追い込んでいく。
「結い」の力
区域外でさえこの有様なら、ある日突然、故郷を根こそぎ奪われた帰還困難区域の惨状は、文字通り想像を絶する。被災者の言葉に、真摯に耳を傾けなければならない。
そもそも浜通りの住民には、第二次世界大戦後にシベリアから復員した人、樺太や満州からの新規引揚者が多いのが特徴だ※5。昭和40年代の飯舘村だと、農家戸数の35%が開拓農家だ。葛尾村では半数、浪江町で20%、大熊町は15%が開拓農家だった。
※5 福島県農地開拓課編(1973)『福島県戦後開拓史』福島県
裸一貫で入植した開拓農家の暮らしは、文字通り開墾から始まって、笹小屋に住んで炭を焼き、伐採した土地を耕し畑にし、葉タバコ、酪農などで生計を立てた。学校に行けず、新聞を繰り返し読んで文字を覚えた人もいる。食べるものもろくにない中で、苦しみ抜いてやっとの思いで開墾した土地なのだ。
「苦労続きで、いいことはなかった」と話す人もいれば、「少しでも良くなれば、幸せに変わる。そのために我慢した」と話す人もいる。「子どもの教育だけはした」と、息子を県内有数の進学校から東京の大学に進学させた人もいる。
浪江町津島から福島市に避難している三瓶
(旧姓:渡辺)春江さん
(59)の両親も、それぞれシベリアと満州から福島県内に引き揚げた後、津島に入植した開拓者だ。
両親は、炭焼きと農業の兼業で生計を支え、農閑期に父親は出稼ぎに行った。長男は高校に進学せず、東京に出稼ぎに行き、家族に仕送りをしてくれた。
その長男は、25歳のとき大宮市で、交通事故で亡くなった。葬式は故郷の津島で、土葬で行った。隣組の組長が、葬儀委員長を務めてくれた。他の隣組の男性は棺を作り、五色旗などお墓に持って行くものを用意した。女性は料理を作った。
何百年も前からのやり方を滞りなくできたのは、分からなければ長老に聞けば教えてもらえたからだ。葬式だけでなく、結婚や出産のときに踊る田植え踊りなどの伝統芸能や、田植え、稲刈り、脱穀などの農作業も、隣組の
「結い」の力
(協働の精神)で助け合ってやってきた。
津島全体が大きな1つの家族だった。
学校に行く子どもには、畑仕事しているおばあちゃんが、「おはよう」と挨拶する。下校時には、ダンプを運転しているおじさんが、すれ違いざま「いま帰りか。気いつけて帰れよ」と、運転席から話しかけてくれる。
どこの家でも、人を見かければ必ずと言っていいくらいお茶や食事を振る舞った。人が集まれば、酒を飲まないで終わることはなかった。山菜やキノコ、川魚が保存食として塩漬けや冷凍にしてあったので、酒の肴には困らなかったという。畑にも山にも食べ物は豊富にあり、とても美味しかった。
山の幸は、畑で採れる白菜や大根を含めて、隣近所の人たちへのおすそ分けの分も含めて大量に塩漬けにし、1年中食べられるように保存しておくのが当たり前だった。
春江さんは、「生活するだけで精一杯だったけど、みんな一緒に同じものを食べたり、話ができたことで幸せな思いを噛み締められた。人との関わりがよかったから、津島を離れようとは思わなかった」と、事故前の生活を懐かしむ。
里山の豊かさとは、やはり人とのつながりの豊かさだったのだ。
故郷とは何か
津島の人にとって人間関係は、生まれ育った故郷の土地と切り離せない。地名やその土地の特徴、生業などに由来する屋号で呼ぶことが多い。
たとえば、春江さんの嫁ぎ先、三瓶家はスガタと呼ばれていた。隣近所に三瓶という名字は多いが、スガタと言えば、春江さんの家だ。住所は南津島西ノ内だが、杉林があったから、杉の家が転じてスガタと呼ばれるようになったそうだ。クツクボと言えば、赤宇木葛久保地区の特定の家を指す。葛久保の他の家の人のことは、クツクボと呼ばない。
津島を巣立った子どもたちは、全国に散らばっていったが、「ばあちゃんがいる故郷に行こう」と、お盆には人口が倍増した。故郷を離れて顔が分からなくなっても、「スガタの家の子だ」と言えば、三瓶家の親戚としてすぐに打ち解けて、地元の人と変わりなく接してくれた。親の世代、その上の世代までさかのぼって、家や土地とのつながりを実感できたからだ。里山の暮らしを、医療人類学の波平恵美子は次のように語る※6。
※6 波平恵美子(1996)『いのちの文化人類学』新潮選書
かつて日本人の間には一人一人の人間の個別性よりも、ある「家」やある土地に生まれ、一定期間の人生を生きて死んでゆく者は、一つの大きないのちのプールのようなものの中から、ある時間帯だけこの世に生まれ出て来て、死ぬと、またそのいのちのプールに帰るとでも比喩できるような、個人のこの世での生命を強調しないいのちの観念があった。
里山の桜を見ることで、土地の人は、桜を植えてくれた先祖の暮らしに思いをはせることができる。そして、自分が植えた桜を、数十年後に自分の子どもや孫が眺める姿を思い描くことで、先祖から自分、自分から子ども、孫へと引き継がれていく命の連鎖、自分がこの土地に生きていることの意味を、具体的に考える手がかりを得ることができる。
内面的人間など存在しない。人はいつも世界内にあり、世界の中でこそ人は己れを知る※7。それが故郷だ。
※7 メルロ=ポンティ、M(1967)『知覚の現象学1』みすず書房
あの日を境に何が起きたのか
あの日、その故郷から無理やり引き剥がされてしまった。満州から引き揚げ、炭を焼き、農地を開拓し、ようやく築き上げた自分たちの居場所が、一瞬のうちになくなってしまったのだ。なるほど、土地や家はあるにはあるが、見るも無残に荒れ果ててしまった。濃密な人とのつながりも、なくなった。
かつて、春江さんの嫁ぎ先の三瓶家には、週に3、4日は誰かしら訪問客があった。福島市に避難してからは、訪問客が来るのは年に1、2度だけ。義父は、「寂しいね。いつになったら帰れるのかなあ。俺が死んだら津島に埋めてくれ」と春江さんに頼んだという。
その後、がんで入院した義父は、興奮しながら春江さんの手を握りしめ、「帰りたい、帰りたい」と訴えた。それが、最後の会話となった。
避難先なので、昔ながらの葬式をしてあげられなかった。津島の墓に埋めてあげたいが、いまのままだと、放射線量が高いので墓参りができない。義父の墓をどこにするかは、まだ決めてないという。「結い」の力で、戦後の厳しい時代を助け合って生き抜いてきた津島住民は、避難に次ぐ避難で散り散りになってしまった。故郷から引き剥がされ、お墓にさえ入ることができない。
しかも、避難先では大好きな津島を隠して暮らさなければならない。
車のナンバーを「いわき」から「福島」にかえた。駐車中に、車のボディーに10円玉で削ったような傷をつけられた。走行中に後ろから煽られたこともあり、怖かった。
昔話ができない。出身地を名乗ったら、「避難民なの」「お金いっぱいもらったんでしょ」などと、好奇の目でみられた。同郷の友人、知人のいない避難先では、家族以外に津島の話ができなくなってしまった。記憶があっても話すことができないから、記憶を失っているのと同じだ。「記憶喪失のようだね」と、春江さんは寂しげに呟く。
生きがいを失った。津島の人たちはみんな、若いうちは好きなことをやっていても、ゆくゆくは親のあとを継ぐんだな、と生まれたときから自然に決めているところがある。戻れない、親のあとを継ぐ場所がない。生きがいが奪われて、何をすればいいか分からない。ご飯を食べて、テレビを見て、それだけだ。生きる張りがないということは、死に近づいているということ。やる気が起きない。時間だけが過ぎていく毎日。近所に知り合いがいないから、誰とも話さない。友達はテレビだけ。そんな避難者が多いと、春江さんは嘆く。
では、どうすればいいのか。
春江さんは、人前では「津島に戻りたい」と訴えてきた。ただ、「本当に戻る気があるんですか」と問い詰められると、胸を張って「帰れます」とも「帰れません」とも言えない自分がいる。戻りたいが、戻れない。「帰らない」と宣言してしまったら、津島で暮らした過去、その記憶までも全部、自分の手で消し去ることになる。「いまの段階で決断しろというのは酷だ」と、春江さんは話す。
社会の病
これまで紹介してきた帰還困難区域からの避難者の状態は、生物学的には生きているが、きつい言い方になるが、社会的動物としては死んでいるのも同然だ。
社会的な動物である人間にとって、自分と自分の子孫の生存を末長く保障してくれるはずだった故郷の土地、連綿と続いてきた気心知れた人とのつながりを失うことは、生存の危機を意味する。
放射線災害を、「社会の病」として捉え直す必要がある。
東日本大震災・原発事故関連死の死者数は、福島県が2272人と被災3県のなかで圧倒的に多い※8
(宮城県928人、岩手県467人=図1)。関連自殺も福島県が107人と、極端に多い※9
(宮城県57人、岩手県50人=図2)。関連死・関連自殺の主な原因は、避難所への移動や避難生活にともなう肉体的・精神的疲労と言われる。
※8 2019年3月31日現在(復興庁発表)
※9 2019年3月31日現在(厚生労働省発表)
図1 被災3県の震災原発事故関連死(復興庁発表:2019年3月31日現在)
図2 被災3県の震災原発事故関連自殺者数(厚生労働省発表:2018年12月末現在)
しかし、それだけでは説明がつかない。原発事故特有の現象として、事情を知らない第3者には理解困難な、土地や家があるのに帰れない故郷喪失感、将来の見通しのなさ、いじめや差別、相談相手がいない孤立感、放射線被ばくに対するトラウマなど、心理的・社会的・経済的要因が複雑に絡まり合ったストレスが上乗せされていると考えられる。
筆者は、背景にある社会経済的格差を含めて、これらを「社会の病」と呼んでいるのだが、実はこのことを裏付ける調査が行われている。先に紹介した辻内教授らの調査だ※10。
※10 辻内琢也(2016)「原発事故がもたらした精神的被害:構造的暴力による社会的虐待」『科学』岩波書店
調査によると、事故後4年を経過した時点でさえ、強制避難区域からの避難者の50%以上がPTSDの可能性のある強いストレスを受けていることが分かった。50%強という数字は、阪神淡路大震災の約40%
(発生から3年8ヶ月後)、新潟県中越地震の約21%
(発生から3ヶ月後、および13ヶ月後)と比べて群を抜いて高い。避難生活に伴う肉体的・精神的疲労の一言で済ますわけにはいかない。
前述したように、心が痛めば身体も痛む。PTSDやうつ病の患者には、がんや心臓病、糖尿病の合併症が多いことが知られている。50%以上がPTSDの可能性があるということは、避難者にがんや心臓病、糖尿病、脳卒中のリスクも高まっているということだ。2013年には、衝撃的なデータが発表された。
深刻な精神疾患患者の平均余命は、自殺を除いても、そうでない人より少なくとも
10年は短い(Hordentoft M et al., 2013)。
がんの死亡率と変わらなかった。
なぜ、心が痛むと身体も痛むのだろうか。鍵を握っている物質がある。それは、炎症反応や免疫応答を媒介するタンパク質、炎症性サイトカインだ。PTSD、うつ病、がん、心臓病、どの病気でも、炎症性サイトカインの過剰放出による慢性的な炎症反応が観察されている
(Irwin MR & Miller AH, 2007; Spiegel D, 2014)。
PTSDの患者でも、インターロイキン6
(IL-6)などのサイトカインの血中濃度が高いことが確認されている
(Passos IC et al., 2015)。
外敵を攻撃する免疫系の前線部隊、マクロファージは、動脈でコレステロールを食べると泡のように膨らむ。同時に炎症物質、IL-6が血液中に放出されると、動脈の内壁が炎症を起こし、血液が詰まりやすくなる。つまり、強いストレスを受けている人は、サイトカインの血中濃度が高い状態が続いているので、心臓発作を起こしやすいのだ。
つまるところ、
ほとんどすべての深刻な病気の原因は、ストレスによる炎症反応であることが最近の研究で分かってきた。21世紀の医学部生は授業中、ほんの少し前の学生とかなり違った説明を受けている。一般の人がメディアで耳にする情報は、さらに時代遅れだ。周回遅れと言っていい。
放射線災害の鍵を握る物質 炎症性サイトカイン
放射線そのものの物理的影響と、「社会の病」の間に相互作用がある可能性もある。放射線の身体への影響も、ストレス反応であることに変わりないからだ。
原爆被ばくから60年以上が経過しても、依然としてリンパ球などに放射線由来のDNA傷害が残っていて、免疫系に異常がある被ばく者がいた。調査で、被ばく線量が多い人ほどサイトカイン
(IL-6)の血中濃度が上昇していることが分かった。さらに、心筋梗塞の既往症のある被ばく者は、IL-6の血中濃度が有意に高いことが確認されている。これらのことから、IL-6による炎症反応で動脈硬化症になった可能性が高いことが示されている
(Kusunoki Y & Hayashi T, 2008)。
また、放射線は細胞の老化を早める。老化した細胞は、サイトカインを過剰に放出するようになる。さらに、放射線は、老化によるサイトカインの血中濃度上昇を加速させることが報告されている
(Nakachi K, 2004)。
原爆被ばく者の免疫細胞に対する放射線の影響は、被ばく線量1グレイ当たり数%とわずかかもしれない。しかし、そのダメージが何十年も続けば命に関わってくることが、長寿研究で裏付けられようとしている。
興味深いことに、IL-6の血中濃度が高い人は、うつ病になりやすく、抗うつ剤が効きにくいことが別の研究で明らかになっている
(Muscatell KA et al., 2015)。サイトカインは神経細胞に炎症を起こすだけでなく、気分の変化に関係するセロトニンなどの神経伝達物質の合成・取り込み・放出に影響を与えることが報告されている。これらのことから、うつ病のサイトカイン原因説が提唱されている
(Miller AH et al., 2013)。
脳腫瘍への放射線治療の副作用で精神症状が出るのは、40グレイもの高線量を浴びた場合かもしれない。ほとんど分裂しない脳の神経細胞は、放射線の影響を受けにくいかもしれない。しかし、被ばくによりサイトカインの血中濃度が高くなった人は、被ばくしていない人より精神疾患に罹患しやすいはずだ。
きわめて低線量の被ばくでも、サイトカインの血中濃度が上昇したり、免疫力が低下することが報告されている。パキスタンでは、自然放射線によりサイトカインの一種、インターフェロンα遺伝子に突然変異が起き、免疫力が低下していることが確認された
(Shahid S et al., 2015)。住民があびた年間の自然放射線量は、わずか0・4―4・6㍉シーベルトだった。中国のウラン鉱山で5年以上働いていて、積算実効線量が推定で20㍉シーベルトを超えた人は、それ以下の被ばく量の人に比べ、サイトカインの血中濃度が有意に高くなっていることが報告されている
(Li K et al., 2014)。
遺伝子に突然変異が起きなくても、影響が出る可能性がある。放射線は活性酸素を発生させる。活性酸素がサイトカインの放出を促すことは、証明されている
(Matsuzawa A et al., 2005)。たとえ低線量でも、放射線をあび続ければ、あびた期間だけ全身の血管や臓器で余計な炎症反応が起き続ける可能性がある。その分、がんや心筋梗塞、うつ病などに罹患するリスクは高くなるだろう。
今回の原発事故で、事故時、福島市に居住していた人がそのまま福島市に住み続けるとすると、80歳到達時までに受ける実効線量は、UNSCEARの推計によれば成人で平均11㍉シーベルト、1歳児は18㍉シーベルトになる
(ANSCEAR, 2014)。パキスタンや中国の事例とは条件が異なるので単純に比較できないが、サイトカインの血中濃度が、低線量被ばくにより長期間にわたり上昇し続けるとすれば、健康リスクが高くなったとしても不思議はない。
UNSCEARは、精神衛生に関する健康問題は「検討事項の範囲外」としているが、放射線被ばくは、サイトカインの過剰放出を介してがんや心臓血管疾患のリスクを高めるだけでなく、うつ病など精神疾患のリスクも高める。
さらに、社会の病もサイトカインの血中濃度を高める。つまり、7月号で指摘したように社会経済的弱者や、故郷喪失感の強い被災者など、強いストレスを感じている人は、そうでない人と比べると、同じ1㍉シーベルトの被ばくでも、社会の病によりサイトカインの血中濃度がより高くなることで、被ばく量に換算すれば10㍉シーベルト、50㍉シーベルトに相当する身体的および精神的ダメージを受ける可能性がある
(図3)。想定するメカニズムは異なるが、動物実験では、精神的なストレスが放射線による細胞のがん化を加速させることが報告されている
(Feng Z et al., 2012)。
図3 放射線災害の鍵を握るサイトカイン:物理的影響と社会的影響には相互作用がある。心が痛めば身体も痛む。
国の姿勢に批判的な専門家も含めて、現在のリスク分析は、放射線の社会的な影響、そして社会的影響と物理的影響の相互作用を考慮していない。
生活習慣病が増えたのは原発事故の間接的な健康影響といわれているが、間接的な影響で心筋梗塞になるとすると、どのようなメカニズムを想定しているのであろうか。
放射線の物理的影響、つまり電離作用によって発生したフリーラジカルの刺激で血液中に大量に放出されたサイトカインと、放射線災害の社会的混乱によるストレスで血中濃度が高まったサイトカインは、現代の科学技術で識別不可能だ。どちらも、心筋梗塞の原因となる。
識別できないのに、放射線の物理的影響のみ考慮することは、健康リスクを過小評価することになる。
被災者の体内で、実際にどのような生理的な変化が起きているのか、炎症性サイトカインやストレスホルモンの血中濃度の測定などを行う必要はあるかもしれない。
ただ、現状に倫理的な憤慨を感じるのに十分な知識を、私たちはすでに先行研究から得ている。心臓病、脳卒中、糖尿病、うつ病、PTSDなど、心身両面の病気の治療・予防を、いま以上に強力に推進することの方が、改めて疫学調査を行うより賢明な選択だろう。
物足りないとおっしゃるなら、健康診断の血液検査に、バイオマーカーのCRPを付け加えればいい。CRPは、炎症性サイトカイン
(IL-6)が肝臓に作用することで血液中に放出される。安上がりな代用マーカーだ。身体にストレス反応が起きていることを知らせてくれる一般的な検査で、すぐに実施可能だ。
重要なのは、いますぐできることと、資金や人手、科学技術の進歩で将来的には可能だが実現には時間がかかることを秤にかけて、現実的に最も効果的な選択肢を選ぶことだ。
被災者にとって安全な暮らしとは
WHOは、健康とは「肉体的、精神的及び社会福祉のすべてが満たされた状態であり、単に病気でないとか弱ってないという状態ではない」と定義している
(WHO, 1946)。
被災者にとって放射線被ばくによる健康リスクとは、放射線量という物理量に還元できるものではない。自分と自分の家族の生命と生活の質、すべてに関わるリスクである。
事故そのものに対するリスク、事故直後にその場に留まったことによるリスクと緊急避難したことによるリスク、長期避難することで発生したリスクと帰還することによるリスクであり、おそらく一生つきまとうであろう事故直後の被ばくと、いま現在も続く低線量被ばくによる我が子の将来の健康影響に対する拭いようのない不安、そして親としての対処の仕方に対する自責の念、さらに国や東電に対する怒りである。
これらは、放射線の知識とは直接関係ない医療福祉政策をも含めた社会全体の安全保障に関連するリスクである。過去の事例では、法的な制度、関係者のモラルなど、安全性に関わるすべてのリスク認知が下がらない限り、人々の健康被害に対するリスク認知は下がらないと報告されている
(農林水産先端技術産業振興センター、2006)。
生活者にとって、トータルな意味で安全でなければ健康リスクがないとはいえないのだから、放射線量にとらわれず、社会の病を含め、あらゆる放射線被害を低減させるために、さまざまな要因を総合的に評価して健康対策を講ずる必要がある。
そのためには、放射線の物理的影響しかリスク評価の対象にしていない現在のリスク論を再検討し、リスクのモノサシを2本立てにすること。すなわち、放射線の物理的影響と社会的影響の2つをリスク評価の対象にし、多様なリスクを正当に評価する必要がある。
そして、被災者1人ひとりがお互いの価値観を尊重し、それぞれの損害を理解する努力を粘り強く続けること──それが遠回りなようで、放射線災害、最大の社会の病といえる「分断」解消への第1歩となる。
◆筆者紹介◆
伊藤浩志(いとうひろし) 1961年、静岡県磐田市生まれ。東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程修了。ストレス研究で博士号取得(学術博士)。専門は脳神経科学、リスク論、科学技術社会論。元新聞記者。阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などを担当した。福島市在住。著書に『復興ストレス─失われゆく被災の言葉』(彩流社)、『「不安」は悪いことじゃない─脳科学と人文学が教える「こころの処方箋」』(共著、イースト・プレス)がある。