福島市飯坂町の穴原温泉・吉川屋では、4月1日、館内に名作漫画を並べたブックラウンジを開設した。同旅館の畠正樹社長(45)にラウンジ設置の狙いやおすすめ漫画、さらには飯坂温泉をモチーフとしたご当地キャラクター「飯坂真尋ちゃん」を用いた地域振興の取り組みについて語ってもらった。(志賀)
温泉旅館内の遊休施設を漫画コーナーに改装
吉川屋は1841(天保12)年創業の温泉旅館。客室数126。天皇・皇后をはじめ皇室が利用する宿としても知られ、旅行新聞新社主催の「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選2023」で全国総合11位に選ばれた人気の宿だ。
そんな同旅館の7代目社長・畠正樹社長は大の漫画好きで、4月1日には約4000冊の漫画を備えた宿泊者向けブックラウンジ「ふくろう」をオープンした。開設の狙いを畠社長はこのように語る。
「もともとは宿泊客の宴会の二次会で使われていたクラブだったが、コロナ禍前から稼働率が低く、景色が良い場所なので、もったいないと考えていました。コロナ禍で団体旅行から個人・少人数旅行への切り替えが急速に進む中、思い切ってクラブをなくし、かねてからの夢だった漫画専用のブックラウンジを整備することにしたのです」
福島市が観光関連事業者をサポートするために設けた「周遊スポット魅力アップ支援事業」に採択され、約1000万円かけてリニューアル。ブックラウンジと併せて、バーだった場所にはボルダリング設備を備えたファミリースペース「あそびば」を整備した。さらにフロント脇には、蛇口をひねるとモモやブドウ、リンゴなど季節ごとに違うジュースが味わえるジューススタンドを設置した。
各施設のロゴやジューススタンドのイラストデザインは、福島学院大情報ビジネス学科の学生が担当した。
特筆すべきは、ブックラウンジの漫画は、畠社長自身が厳選したものだということ。「古本屋チェーンのブックオフを通してまとめ買いし、過去に読んで面白かったものを中心に選びました。和食や温泉に加え、日本の文化である漫画も旅館で楽しめるというコンセプトです。旅先で人生を変える1冊に出合うというのも、最高の体験だと思います」
実は畠社長、大学時代から本格的に漫画を描いており、出版社に持ち込みまでしていた異色の経歴の持ち主。果たしてどんな作品をセレクトしたのか。かつて夢中になった作品、衝撃を受けた作品などをいくつか紹介してもらった。
①『HUNTER×HUNTER』(冨樫義博、集英社)既刊37巻
少年ゴン・フリークスとその仲間たちの活躍を描く冒険活劇。
「『面白い漫画』という点では間違いなく3本の指に入る。読者をワクワクさせる物語・伏線の作り方は神クラス。漫画にはさまざまな表現があるが、シンプルな面白さという点で頭一つ抜けています」
②『BASTARD!!』(萩原一至、集英社)既刊27巻
魔法使いダーク・シュナイダーが戦い続けるファンタジー作品。
「物語もさることながら、圧倒的な画力による精密な作画は週刊連載レベルではない。中学生のころから読み始め、一番影響を受けた作品と言っても過言ではありません。『新世紀エヴァンゲリオン』が話題になる前から、宗教をテーマにしていたのも新しかったと思います」
③『プラネテス』(幸村誠、講談社)全4巻
スペースデブリ(宇宙ごみ)の回収業に従事する青年が、自分と向き合いながら成長していく姿を描く、新感覚のSF作品。
「大学時代、漫画家を夢見てオリジナル作品を漫画誌編集部に持ち込んだが、評価されることはなく、『もっと人間を描け』とアドバイスされた。20歳そこそこで人間の深みなんて表現できるわけがない。人生に迷っているときに読んで心に染みました。青春を代表する1冊です」
「大河ドラマ超える傑作」
④『ゴールデンカムイ』(野田サトル、集英社)全31巻
明治末期の北海道・樺太を舞台に、アイヌの埋蔵金をめぐって戦うサバイバル漫画。
「漫画アプリで全巻無料になっているときに知って夢中で読み、本棚に入れることを決めました。徹底した時代考証でアイヌの文化を描きつつ、しっかりストーリーを盛り上げる。個人的には大河ドラマを超えた傑作。日本の漫画の価値は多様性にある、とあらためて感じました」
⑤『攻殻機動隊』(士郎正宗、講談社)全3巻
電脳化・サイボーグ技術が発達した未来の日本で、デジタル犯罪に対応する「公安9課」が奔走する物語。
「20年以上前の作品ですが、インターネットが発達した現在の問題を描いていることに驚かされます。アニメ版と合わせて多くのクリエイターに影響を与え、その遺伝子はさまざまな作品に引き継がれている。そういう意味では、日本の漫画・アニメ文化を象徴する作品です」
これ以外にもさまざまな作品を選び、熱い思いを語ってくれた畠社長(写真参照)。ブックラウンジのソファーにはスマホなどが充電できるUSBポートが設置されており、時間を気にせず快適に過ごすことができる。まさに漫画好きの畠社長の理想が反映されていると言える。
今後の展望に関しては「自分の思い出の1冊に再会すると自然と会話が広がるもの。漫画好きな人同士がコミュニケーションを取る場、新たな作品と出合う場になってほしいです。イベントや朗読会の場として活用することも検討していきたい」と明かした。
同旅館のブックラウンジが、福島市におけるアニメ・漫画文化の情報発信地となっていくかもしれない。
漫画以外にもアニメ、ゲームを愛する〝オタク〟であることを隠さない畠社長。その熱量は思わぬ形で経済効果を生みつつある。それが「飯坂真尋ちゃん」の取り組みだ。
全国の温泉をモチーフとしたキャラクターをつくり、漫画・小説・音楽などを展開する「温泉むすめ」というプロジェクトがある。エンバウンド(東京都、橋本竜社長=郡山市出身)が手がける企画だが、その中で飯坂温泉代表として制作されたのが「飯坂真尋ちゃん」だった。
飯坂温泉観光協会に立ち寄ったファンの一言でその存在を知った畠社長。「地域を、温泉地を沸かせたい」という同プロジェクトの理念に共感し、公式に応援することを決めた。
青年部や地域を巻き込みながら、「飯坂真尋ちゃんプロジェクト」を立ち上げ、2019年2月には、観光協会に等身大パネルを設置。地元商店とコラボしたデザインのイラストやオリジナルグッズも制作した。同年9月には架空のキャラクターながら飯坂温泉特別観光大使に就任し、担当声優の吉岡茉祐さんのトークイベントが開催された。
2020年に「真尋ちゃん音頭」のクラウドファンディングを実施したところ、全国のファンから約360万円の支援を受けた。2022年に行われた生誕祭では、さまざまなコラボデザインの中からお気に入りを選ぶ「飯坂真尋ちゃん総選挙」が行われた。畠社長によると、こうした企画ができるほど「温泉むすめ」のコラボデザインが作られた温泉地はほかにないという。
福島交通飯坂線の飯坂温泉駅前には「飯坂真尋ちゃん」の大きな看板が立てられた。温泉街の中にはラッピング自販機が設置され、「真尋ちゃん神社」が開設された。ついには、スマホのGPSやカメラと連動し、「飯坂真尋ちゃん」が声と動きで飯坂温泉をガイドしてくれるサービスが、観光庁の補助事業で展開された。架空のキャラクターが、現実に存在するアイドルのようになりつつある。
ファンと共に地域振興
年1回の声優トークイベントには約800人のファンが訪れ、宿泊、飲食、土産品購入などでお金を落とす。地元の新聞・テレビも注目し、福島学院大学や地元企業とも連携。盛り上がりに対応するため、同プロジェクトでは1、2カ月に1回、会議を行い、地域内での連携を深めている。「飯坂真尋ちゃん」をきっかけとした好循環が広がっている。
「もともと温泉むすめは『温泉地の神様が地域を盛り上げるため、人の姿となって、アイドル活動をしている』という設定。『飯坂真尋ちゃん』はまさしく地域を盛り上げ、われわれに一体感・成功体験を与えてくれました」(畠社長)
活動を続けるうちに、「飯坂真尋ちゃん」をモチーフとした痛車(アニメキャラなどがあしらわれた車)やコスプレ、同人誌即売会など、さまざまな〝オタク向けイベント〟も開催されるようになった。これまでの活動を通して、〝オタクに理解がある温泉街〟として認識されたということだろう。
その中心にいたのは、〝オタク文化〟を愛し、誰よりも「飯坂真尋ちゃん」を推している畠社長だ。
「オタクは自分の趣味を静かに楽しむ一方で、関心がある分野への出資を惜しまないもの。温泉地にとってとても良いお客さんであり、先入観を持たずに多様な受け入れをしていく必要があります。今後もファンととともに、『飯坂真尋ちゃん』の取り組みを盛り上げ、地域振興につなげていきたいと思います」(同)
かつて漫画家になる夢をあきらめた青年はいま、日本一〝オタク愛〟が深い温泉旅館の社長として、魅力的な旅館づくりと温泉街の振興に奔走している。