Category

能登半島地震

  • 「次の大地震に備えて廃炉を」警鐘鳴らす能登の反原発リーダー【北野進さん】

    【北野進】「次の大地震に備えて廃炉を」

     1・1能登半島地震の震源地である石川県珠洲市にはかつて原発の建設計画があった。非常に恐ろしい話である。今回の大地震は日本列島全体が原子力災害のリスクにさらされていることをあらためて突きつけた。珠洲原発反対運動のリーダーの一人、北野進さんにインタビューした。 ジャーナリスト・牧内昇平 警鐘鳴らす能登の反原発リーダー 北野進さん=1959年、珠洲郡内浦町(現・能登町)生まれ。筑波大学を卒業後、民間企業に就職したが、有機農業を始めるために脱サラして地元に戻った。1989年、原発反対を掲げて珠洲市長選に立候補するも落選。91年から石川県議会議員を3期務め、珠洲原発建設を阻止し続けた。「志賀原発を廃炉に!」訴訟の原告団長を務める。  ――ご自身の被災や珠洲の状況を教えてください。  「元日は午後から親族と会うために金沢市方面へ出かけており、能登半島を出たかほく市のショッピングセンターで休憩中に大きな揺れを感じました。すぐ停電になり、屋外に誘導された頃に大津波警報が出て、今度は屋上へ避難しました。そのまま金沢の親戚宅に避難しました。  自宅のある珠洲市に戻ったのは1月5日です。金沢から珠洲まで普段なら片道2時間ですが、行きは6時間、帰りは7時間かかりました。道路のあちこちに陥没や亀裂、隆起があり、渋滞が発生していました。自宅は内陸部で津波被害はなく、家の戸がはずれたり屋根瓦が落ちたりという程度の被害でしたが、周りには倒壊した家もたくさんありました。停電や断水が続くため、貴重品や衣類だけ持ち出して金沢に戻りました。今も金沢で避難生活を続けています」  ――志賀原発のことも気になったと思います。  「志賀町で震度7と知った時は衝撃が走りました。原発の立地町で震度7を観測したのは初めてだと思います。志賀原発1・2号機は2011年3月以来止まっているものの、プールに保管している使用済み核燃料は大丈夫なのかと。残念ながら北陸電力は信用できません。今回の事故対応でも訂正が続いています」  ――2号機の変圧器から漏れた油の量が最初は「3500㍑」だったのが後日「2万㍑」に訂正。その油が海に漏れ出てしまっていたことも後日分かりました。取水槽の水位計は「変化はない」と言っていたのに、後になって「3㍍上昇していた」と。津波が到達していたということですよね。  「悪い方向に訂正されることが続いています。そもそも北電は1999年に起きた臨界事故を公表せず、2007年まで約8年間隠していました。今回の事態で北電の危機管理能力にあらためて疑問符がついたということだと思います。  これは石川県も同じです。県の災害対策本部は毎日会議を開いています。しかし会議資料はライフラインの復旧状況ばかり。志賀原発の情報が全然入っていません。たとえば原発敷地外のモニタリングポスト(全部で116カ所)のうち最大で18カ所が使用不能になりました。住民避難の判断材料を得られない深刻な事態です。  私の記憶が正しければ、メディアに対してこの件の情報源になったのは原子力規制庁でした。でも、モニタリングポストは地元自治体が責任を持つべきものです。石川県からこの件の詳しい情報発信がないのは異常です。県が原発をタブー視している。当事者意識が全くありません。放射線量をしっかり測定しなければいけないという福島の教訓が生かされていないのは非常に残念です」 能登半島の地震と原発関連の動き 1967年北陸電力、能登原発(現在の志賀原発)の計画を公表1975年珠洲市議会、国に原発誘致の要望書を提出1976年関西電力、珠洲原発の構想を発表(北電、中部電力と共同で)1989年珠洲市長選、北野氏らが立候補。原発反対票が推進票を上回る関電による珠洲原発の立地調査が住民の反対で中断1993年志賀原発1号機が営業運転開始2003年3電力会社が珠洲原発計画を断念2006年志賀原発2号機が営業運転開始2007年志賀原発1号機の臨界事故隠しが発覚(事故は99年)3月25日、地震発生(最大震度6強)2011年3月11日、東日本大震災が発生(志賀1・2号機は運転停止中)2012年「志賀原発を廃炉に!」訴訟が始まる2021年9月16日、地震発生(最大震度5弱)2022年6月19日、地震発生(最大震度6弱)2023年5月5日、地震発生(最大震度6強)2024年1月1日、地震発生(最大震度7)※北野氏の著書などを基に筆者作成  ――もしも珠洲に原発が立っていたらどうなっていたと思いますか?  「福島以上に悲惨な原発災害になっていたでしょう。最大だった午後4時10分の地震の震源は珠洲原発の建設が予定されていた高屋地区のすぐそばでした。原発が立っていたら、その裏山に当たるような場所です。また、高屋を含む能登半島の北側は広い範囲で沿岸部の地盤が隆起しました。原子炉を冷却するための海水が取り込めなくなっていたことでしょう。ちなみにこの隆起は志賀原発からわずか数㌔の地点まで確認されています。本当に恐ろしい話です」  ――珠洲に原発があったら原子炉や使用済み燃料プールが冷やせず、メルトダウンが起きていたと?  「そうです。そしていったんシビアアクシデントが起きた場合、住民の被害はさらに大きかったと思います。避難が困難だからです。奥能登の道路は壊滅状態になりました。港も隆起や津波の被害で使えません。能登半島の志賀原発以北には約7万人が暮らしています。多くの人が避難できなかったと思います。原子力災害対策指針には『5㌔から30㌔圏内は屋内退避』と書いてありますが、奥能登ではそもそも家屋が倒壊しており、ひびが入った壁や割れた窓では放射線防護効果が期待できません。また、停電や断水が続いているのに家の中にこもり続けるのは無理です。住民は避難できず、屋内退避もできず、ひたすら被ばくを強いられる最悪の事態になっていたと思います」 能登周辺は「活断層の巣」  ――では、志賀原発が運転中だったら、どうなっていたでしょう?  「志賀原発に関しても、運転中だったらリスクは今よりも格段に高かったと思います。原子炉そのものを制御できるか。核反応を抑えるための制御棒がうまく入るか、抜け落ちないか。そういう問題が出てきます。事故が起きた時の避難の難しさは珠洲の場合とほぼ同じです」  ――今のところ、辛うじて深刻な原子力災害を免れたという印象です。  「とにかく一番心配なのは、今回の大地震が打ち止めなのかということです。今回これだけ大きな断層が動いたのだから、他の断層にもひずみを与えているんじゃないかと。次なる大地震のカウントダウンがもう始まっているんじゃないのかっていうのが、一番怖い。能登半島周辺は陸も海も活断層だらけ。いわば『活断層の巣』ができあがっています。半島の付け根にある邑知潟断層帯とか、金沢市内を走る森本・富樫断層帯とか。次はもっと原発に近い活断層が動く可能性もあります。能登の住民の一人として、『今回が最後であってほしい』という気持ちはあります。しかし、やっぱり警戒しなければいけません。そういう意味でも、志賀原発の再稼働なんて尚更とんでもないということです」  ――あらためて志賀原発について教えてください。現在は運転を停止していますが、2号機について北陸電力は早期の再稼働を目指しています。昨年11月には経団連の十倉雅和会長が視察し、「一刻も早く再稼働できるよう願っている」と発言しました。再稼働に向けた地ならしが着々と行われてきた印象です。  「運転を停止している間、原子力規制委員会が安全性の審査を行っています。ポイントは能登半島にひしめいている断層の評価です。志賀原発の敷地内外にどんな断層があるのか、これらが今後地震を引き起こす活断層かどうかが重要になります。経緯は省きますが、北電は『敷地直下の断層は活断層ではない』と主張していて、規制委員会は昨年3月、北電の主張を『妥当』と判断しました。それ以降は原発の敷地周辺の断層の評価を進めていたところでした。  当然ですが、今回の地震は規制委員会の審査に大きな影響をおよぼすでしょう。北電はこれまで、能登半島北方沖の断層帯の長さを96㌔と想定していました。ところが今回の地震では、約150㌔の長さで断層が動いたのではないかと指摘されています。まだ詳しいことは分かりませんが、想定以上の断層の連動があったわけです。未確認の断層があるかもしれません。規制委員会の山中伸介委員長も『相当な年数がかかる』と言っています」  ――北野さんは志賀原発の運転差し止めを求める住民訴訟の原告団長を務めていますね。裁判にはどのような影響がありますか。  「2012年に提訴し、金沢地裁ではこれまでに41回の口頭弁論が行われました。裁判についてもフェーズが全く変わったと思います。断層の問題と共に私たちが主張するもう一つの柱は、先ほどの避難計画についてです。今の避難計画の前提が根底からひっくり返ってしまいました。国も規制委員会も原子力災害対策指針を見直さざるを得ないと思います。この点については志賀に限らず、全国の原発に共通します。僕たちも裁判の中で力を入れて取り組みます」 これでも原発を動かし続けるのか?  石川県の発表によると、1月21日午後の時点で死者は232人。避難者は約1万5000人。亡くなった方々の冥福を祈る。折悪く寒さの厳しい季節だ。避難所などで健康を損なう人がこれ以上増えないことを願う。  能登では数年前から群発地震が続いてきた。今回の地震もそれらと関係することが想定されており、北野さんが話す通り、「これで打ち止めなのか?」という不安は当然残る。  今できることは何か。被災者のケアや災害からの復旧は当然だ。もう一つ大事なのが、原発との決別ではないか。今回の地震でも身に染みたはずだ。原発は常に深刻なリスクを抱えており、そのリスクを地域住民に負わせるのはおかしい。  それなのに、政府や電力会社は原発に固執している。齋藤健経産相は地震から10日後の記者会見で「再稼働を進める方針は変わらない」と言った。その1週間後、関西電力は美浜原発3号機の原子炉を起動させた。2月半ばから本格運転を再開する予定だという。  これでいいのか? 能登で志賀原発の暴走を心配する人たちや、福島で十年以上苦しんできた人たちに顔向けできるのか?  福島の人たちは「自分たちのような思いは二度とさせたくない」と願っているはずだ。事故のリスクを減らすには原発を止めるのが一番だ。これ以上原発を動かし続けることは福島の人びとへの侮辱だと筆者は考える。  内堀雅雄知事が県内原発の廃炉方針に満足し、全国の他の原発については何も言わないのも理解できない。  まきうち・しょうへい 42歳。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。フリー記者として福島を拠点に活動。

  • 他人事ではない能登半島地震

    1月1日16時10分、石川県能登地方を震源とするマグニチュード7・6、最大震度7の巨大地震が発生した。この間、東日本大震災をはじめ大地震に遭遇してきた本県だが、能登地方の被害の大きさに衝撃を受けた人も多いはずだ。地震被災地の現状と本県の大地震リスクを調べた。(志賀) 専門家に聞く〝福島県のリスク〟 倒壊した7階建てのビル(輪島市、藤室玲治さん撮影)  石川県によると、1月20日現在の能登半島地震による被害状況は死者232人(災害関連死14人含む)。重軽傷者1169人。住宅被害3万1670棟。  被害が大きかった珠洲市の住宅被害はまだ正確な数が把握されていないが、市内約6000戸のうち5割が全壊した見通し。  隣接する富山県の被災状況は重軽傷者47人、住宅被害4239棟(全壊23棟)。  地震発生直後に大津波警報が発令されたことから津波被害が懸念されたが、それ以上に目立ったのは、家屋倒壊により生き埋めとなって命を落としたケースだ。  氏名・年齢が公表された石川県の死者114人のうち87%(100人)は家屋倒壊によるもの。死因は窒息死・圧死と考えられ、土砂災害による死者も8人(7%)いた。  家屋倒壊が目立った要因の1つ目は、地震規模が圧倒的に巨大な地震だったことだ。家屋倒壊などで6434人が亡くなった阪神・淡路大震災はマグニチュード7・3。能登半島地震はそれを上回るマグニチュード7・6。数値としては0・3差だが、地震のエネルギーは実に3倍だ。  震度7の揺れを観測した石川県志賀町では、地震計から算出した「加速度」が2825・8ガルに達した。東日本大震災の2933・7ガル(宮城県栗原市)に匹敵する揺れが発生していたことになる。  地震波を分析すると、1回の揺れの周期が1~2秒で、木造家屋に大きな被害をもたらす地震波「キラーパルス」が観測された。  要因の2つ目は、耐震化率の低さ。石川県によると、2017年時点で県内の建物の約4割は建築基準法の旧耐震基準(1981年以前)だった。耐震化率(耐震補強により新耐震基準=1981年以降=を満たした割合)は76%に留まる。  高齢化率が高い能登半島の耐震化率はさらに低い。被害が大きかった珠洲市の耐震化率は、2018年度末時点で51%。輪島市は2019年末時点で45・2%。同時期の全国平均87%を大きく下回っている(福島民友1月5日付)。  耐震工学に詳しい東北大学災害科学国際研究所の五十子幸樹教授は次のように解説する。  「震度が大きい地域でも、耐震補強により新耐震基準を満たしている建物は無被害か小さい被害で済んだ。まずは耐震化が重要ということです。また、倒壊した建物の屋根は瓦を固定するため土葺きとなっていて重いことも被害率を高めている可能性がある。このほか、地盤の液状化現象により住宅が傾くなどの被害を受けることもあるので、危険性のある場所はあらかじめ地盤改良などの対策が必要です」  要因の3つ目は、2020年12月ごろから能登半島で群発地震が発生しており、そのダメージが家屋に蓄積していた可能性があること。  2022年6月、2023年5月には最大震度6強の地震が発生しており、今回の激震でとどめを刺された格好だ。 住宅に累積するダメージ 写真は倒壊した住宅(輪島市、藤室玲治さん撮影)  翻って本県では、地震で家屋倒壊が発生する心配はないのか。  県によると、2018年現在の耐震化率は87・1%で、全国平均並み(約87%)となっている。震災や2度の福島県沖地震により、旧耐震基準の住宅が建て替え・改修を迫られたため現在はさらに耐震化率が向上していそうだ。  ただ、何度も大地震を経験すれば当然ながらダメージは残っていく。2022年3月の福島県沖地震で震度6強の揺れに見舞われた国見町では「震災と2021年2月の地震には何とか耐えたが、今回の大地震で自宅の壁が崩落してしまった」と嘆いていた男性がいた。  今後も数年に一度の周期で大地震が発生すると考えるべきだろう。発生確率が高いとされているのは、宮城県沖の陸寄りで繰り返し発生する一回り小さいプレート間地震、いわゆる宮城県沖地震だ。30年以内に70~90%の確率で発生すると予想されている。過去の地震を踏まえると、本県でも震度5~6の揺れが観測されるが、そのときマイホームが無事に乗り切れるか否かは、実際に大地震が来ないと分からない。  前出・五十子教授は大地震によるダメージについてこのように話す。  「建築基準法は、大きな地震を複数回受けた場合の耐震性については何も規定していません。地震後の調査で残存耐震性能を評価する試みもあるが、あまり広がっていません。福島県では市町村の耐震診断、耐震改修補助制度を支援しており、住宅リフォームに合わせて耐震改修をする場合の助成金などもあるので、積極的に活用していくべきです」  住宅の耐震診断は10万~25万円程度とのことだが、旧耐震基準の住宅だと補助を活用して数千円程度で利用できるという。マイホームの倒壊リスクを減らすための投資と考え、まずは診断を受けておいた方が良さそう。特に築年数が20年以上で、震度4~5以上の地震を何度か経験した木造住宅はリスクが高いという専門家の指摘もあるので、自宅が該当する人は意識して対策を講じていく必要がある。 いわきでも「流体地震」 「流体」で起こる地震のイメージ  能登半島での群発地震の一因とされているのが、地下深くに存在する「流体」(マグマやガスを含む水)だ。約3000万立方㍍に及ぶ高熱・高圧の水が分離しながら地上に向かって上昇することで、周辺の岩盤が押されたり、断層の隙間に入り込んで滑りやすくなる。  その結果、半島周辺にある複数の海底活断層帯が刺激され連動して動いたため、広範囲での巨大な地震になったとみられている。  実は流体が一因となる地震は本県でも起きていた。  東日本大震災から1カ月後の2011年4月11日、いわき市付近を震源とするマグニチュード7・0、最大震度6強の直下型地震が発生した。土砂崩れが起きて4人が命を落としたが、この地震の一因となったのがいわき市と茨城県北茨城市の間の地下にある流体だったと言われる。  能登半島の群発地震と流体の関係を研究する京都大学防災研究所附属地震災害研究センターの西村卓也教授は次のように解説する。  「地下から湧き出る温泉が全国にあるように、流体は全国のさまざまな地域の地下にある。実際どれぐらいの量があるのか、全容は把握されていません。能登半島地震やいわき市の地震のように、流体が断層まで上がってきて影響を与えることが頻繁にあるわけではないが、福島県を含む全国で同じような地震が起こるリスクは把握しておくべきです」  本県内陸の主要な活断層としては双葉断層、福島盆地西縁断層帯、会津盆地西縁断層帯などがあり、30年以内に直下型の大地震が発生する確率は限りなく0に近いと予測されている。だが、地下の流体の影響で断層の滑りが良くなれば、突発的に大地震が発生する可能性もある。そういう意味では、本県も油断は禁物ということだ。 孤立集落化を防ぐ対策  能登半島地震では、道路インフラが寸断され、発災直後は孤立する人や集落が数多く発生した。車社会かつ人口密度が低い本県も他人事ではない。  避難計画を専門としている東北大学災害科学国際研究所の奥村誠教授は「福島県では相馬福島道路など復興道路の整備も進んでいる。西日本と比べ谷筋の奥で暮らしているような集落はそれほど多くない。能登半島の被災地のように孤立する可能性は少ないのではないか」と前置きしたうえで、次のように語る。  「東日本大震災では被災地の道路復旧を進める際に、2方向から沿岸部の道路に入って作業を進める『櫛の歯作戦』を採用しました。災害時のスムーズな避難や復旧においては、最低限2方向からアクセスできることを意識して道を作っておくことが重要です。山間部であれば、山道などを活用して尾根のところをつなげておくという方法もあります」  「一方で、孤立する可能性がある山間部の過疎地は平時から道路が寸断されたときのことを想定した整備が有効だと思います。例えば道路に面する耕作放棄地を道路の余裕幅として残しておく、状態のいい空き家はすぐ壊さず避難先候補として残しておけばいい。逆に状態の良くない空き家は壊して空き地にしておけば、ヘリポートの離着陸が可能な場所として活用できます」  その一方で、奥村教授は「石川県は早い段階で広域避難に切り替える必要があった」と指摘する。  「被災者には、電気・ガス・水道が止まり、携帯電話なども通じない被災地にとどまるより、金沢市もしくは隣県の福井県の宿泊施設に避難してもらう二次避難をもっと早くから積極的に進めた方がよかったと思います。長期間の避難となれば理解を得るのが難しいですが、状況が厳しい能登ではまだまだ有効な方法です。福島からの広域避難の経験や教訓が生かせるところだと思います」 それに対し、福島県の災害関連死を研究しているときわ会常磐病院の澤野豊明医師は「広域避難のリスクにも目を向けるべきだ」と指摘する。  「震災・原発事故のときは、広域避難させた高齢者の症状が悪化したというデータがあります。広域避難により避難生活が長期化すれば、災害関連死を増やす要因になることも忘れてはならないと思います」  いずれにしても、大きな地震災害が起こるたびに同様の問題は出てくるはず。救急医療におけるトリアージのように、どの人を地元に残し、どの人を広域避難させるか、より早く判断する仕組みが求められる。 加速する支援の動き 被災地でDMATとして活動した澤野医師(中央)ら常磐病院スタッフ  1月20日現在、自治体職員などをはじめ、福島県内から多くの人が被災地支援で現場に足を運んでいる。  前出・澤野医師は同病院の看護師ら4人とともに、1月6日から8日にかけてDMAT(ディーマット、災害派遣医療チーム)として珠洲市に入った。地元で一番大きい医療機関・珠洲市総合病院の担当部署に配属され、それぞれ診療、病棟支援、業務調整員として活動したという。  澤野医師によると、現地までの道のりは厳しいものだったようだ。  「車で向かいましたが、道路は亀裂や落石、段差だらけで、土砂崩れで片側交互通行になっているところも多かった。命の危険を感じるほどでした。珠洲市に入ると潰れた家屋が多く見られ、地震の影響を実感させられました」  能登半島では周辺が停電していることもあり、真っ暗な中を20~30㌔の速度で走行し、13時間かけて病院に到着した。病院ではリハビリ室などを使って雑魚寝で過ごした。  「担当したのが発災6日目だったこともあり、避難所生活でストレスを抱えていたり、持病が悪化して来院した方を診察しました。高齢者が多い地域だからか、わざわざ若い人に車を出してもらうのを遠慮した結果、病気が悪化したというケースもありました」(同)  こうした支援が行われる一方で、石川県のホームページには「能登方面への不要不急の移動は控えて!」と書かれ、1月4日には岸田文雄総理もSNSで「現在、限られた輸送ルートに一般の車両が殺到し深刻な渋滞が発生しています。被災地へ速やかに必要な物資が届けられるよう、できる限り利用を抑制していただくことについて、国民の皆様のご理解とご協力をお願いします」と呼びかけた。  そのため、ネットなどでは被災地支援に関する議論が展開され、個人で支援物資を持って被災地に向かうジャーナリストや政治家を批判する向きもあったほどだ。 いまこそ被災地へ  そうした中、福島大学地域未来デザインセンターの特任准教授を務め、浜通りの復興支援に取り組む藤室玲治さんは、この間すでに3回にわたって被災地に支援物資を届けに行っている。  「2007年にも能登半島で大きな地震が発生し、支援に足を運んだとき、輪島市の仮設住宅の区長・藤本幸雄さんにお世話になった。今年1月1日、藤本さんに安否確認したところ、『水もガスも電気もないから大変』と言われた。そこで翌2日に物資を持って現地に向かうことにしました。物資をいろいろ買い込んで、金沢市まで移動してホテルで一泊。そこから1日かけて輪島市に向かい、藤本さんに物資を渡しました。追加で欲しいものがあるということだったので、かほく市のイオンで物資を買い込んで再び届けに行きました」  ネットなどで被災地支援のあり方が議論になっていたころには、すでに行動を始めていた、と。  「地震直後は幹線道路にも倒木、落石、ひび割れなどがあり、行くまでにずいぶん時間がかかりました。穴水町では大きいひび割れの中に車がのみ込まれているのを見ました。これまでさまざまな被災地に行っていますが初めての体験でした」(同)  藤室さんは兵庫県神戸市出身で、神戸大学2年生のときに阪神・淡路大震災に遭う。同市長田区にあった兵庫高校の避難所で支援活動をしたのを機に、災害ボランティアに従事するようになった。それだけに、被災地支援のあり方については確固たる信念を持っている。  「自治体では『いまは受け入れらない』とボランティアの自粛を呼びかけていましたが、東日本大震災などで災害ボランティアの経験があるグループやNPO法人はいち早く現地避難所に入って炊き出しをしていました。そもそも行政職員が重要度の高い災害対応の仕事に追われている中で、ボランティアの仕切りもやるというのは無理がある。そういうとき、役場に代わって被災者を支援するのがボランティアの本来の役割だと思います」  藤室さんは毎週のように被災地に足を運んでボランティアをしているが、時間が経つごとに道路状況は着実に良くなっており、1月20日に車で輪島市まで行った際には渋滞と感じるエリアもなかった。ボランティアの内容も変わりつつあり、1月20日に学生とともに避難所に行った際は、被災者に足湯に入ってもらい話を傾聴する活動をした。  藤室さんによると、県内の宿泊施設や県外の公営住宅などで被災者を受け入れる広域避難も始まっているが、利用している人はあまりおらず、避難所に残るどころか生活インフラが完全に復旧していない自宅で過ごす人も少なくないようだ。  「自宅に残る理由は片付けを優先したり、車で自由に移動できたり、障害を持つ家族や高齢の家族がいて避難所での生活が難しいなど、さまざまです。災害関連死は在宅で最も多く発生すると言われているので心配です」(藤室さん)  今後、復旧・復興が進む中でボランティアのニーズはさらに高まるとみられる。2月以降、3連休などを利用して足を運ぶ人も増えそうだ。  藤室さんは「被災地で必要な物資は時期によって異なる。何か支援物資を持っていこうと考えるのであれば、現地で支援に入っているグループやNPO法人などに問い合わせるのが良いと思います」と語る。  能登半島地震は本県にとっても他人事ではない。その教訓をしっかり生かして防災対策を講じ、被災者支援に取り組んでいく必要がある。

  • 災害時にデマに振り回されないための教訓

    災害時にデマに振り回されないための教訓

     能登半島地震では、存在しない住所から救助を求めたり、架空の寄付を募ったり、不安を煽るような情報がSNS上に複数出回っている。東日本大震災の際も流布したデマ。当時、その渦中にいた元首長二人に、厳しい状況の時こそデマに振り回されず、正しい情報に触れる・発信する大切さを聞いた。 二人の元市長が明かす震災時の「負の連鎖」  当時福島市長の瀬戸孝則氏(76)は米沢、新潟、沖縄、果ては海外に逃げたという逃亡説が囁かれた。  震災発生から2カ月後の2011年5月、本誌が瀬戸氏に真偽を尋ねると、こんな答えが返ってきた。  「慰問に来た新潟の首長から『マスコミに露出してPRしないと大変だよ』とアドバイスされた。新潟でも中越地震の際、目立たない首長は逃げたとウワサされたそうです。ただ、当市は浜通りに比べて被害が小さく、マスコミが積極的に取り上げる事案もなかった。それなのに被害の大きい自治体を差し置いて、私がマスコミに出るわけにはいかない」  常識的には、あれほどの大災害が起きれば様々な情報が瞬時に首長に集まり、その場で必要な判断を迫られる。そうした状況で、もし首長が逃げたら大ニュースだ。福島市役所には市政記者室があり、番記者が瀬戸氏の動向を常に見ている。  だから自身に関するデマが出回っていると知っても深刻に受け止めなかったが、2012年2月に神戸大学大学院教授が講演で「福島市長は山形市に住んで、公用車で毎日市役所に通っている」と発言した時はさすがに強く抗議した。  同年4月、教授は市役所を訪れ直接謝罪したが、瀬戸氏は怒るでもなく淡々と謝罪を受け入れた。  あれから間もなく13年。本誌の取材に「あの場面で厳しく怒っていれば逃亡説は打ち消せたのかな」と振り返る瀬戸氏は、能登半島地震の被災地に思いを巡らせながら当時のことを静かに語ってくれた。  「あの時、逃げたと言われたのは私、原正夫郡山市長、渡辺敬夫いわき市長の3人。共通するのは人口30万人の中核市です。小さい市や町村では、首長が逃げたというウワサはほとんど聞かなかったと思います」  30万人の市になると、市長が市内を隅々まで回るのは難しい。そうした中、東日本大震災が自然災害だけだったら直接の被害者は限定されていただろう。分かり易く言うと、台風で収穫前のリンゴが落下すれば被害者はリンゴ農家、河川が越水すれば被害者は浸水家屋の持ち主、という具合。同じ地域に住んでいても、直接被害を受けていない人は「大変だな」くらいにしか思わない。  しかし、東日本大震災は自然災害に加えて放射能災害が襲った。目に見えない放射能は、原発周辺の人たちだけでなく、遠く離れた全員を被害者にした。放射線量がほとんど上がらなかった地域でも、被曝を心配する人が続出した。  「全員が被害者なので、全員が一斉に不安になる。そこで出てくる不満や怒りをどこかにぶつけたくてもぶつける場所がないので、市長が標的になる。平時は市長が何をしているかなんて気に掛けないのに、ああいう時は『何をやってるんだ』となり、姿が見えないと『逃げたんじゃないか』となってしまう。こうした負の連鎖は、放射能災害特有の現象だと思います」(同)  冷静に考えれば原発事故の加害者は東電・国なのに、両者に言っても反応がないので余計に不満・怒りが募る。その矛先が市民にとって最も身近な政治家である市長に向いた、というのが瀬戸氏の見立てだ。  「幸い志賀原発は大丈夫だったので、逃げたと言われる首長さんはいないのではないか。首長さんが避難所を回り、被災者に声をかける姿をテレビで見たが、苦労は絶えないと思う。政治家はやって当たり前、やらないと厳しく批判されるのが性だが、デマに基づいて非難するのは違う。今回の地震では、デマに振り回される人が一人でも少なくなることを願います」(同) 流言は智者に止まる  当時郡山市長の原正夫氏(80)もデマに翻弄され、それを乗り越えようとした首長の一人だ。  「デマとそれに基づく中傷は時代が変わってもなくならないと思う。これだけITが発達すればフェイクニュースも増え、それを悪用する輩も次々と出てきますからね」  原氏によると、日本人は性善説に立った思考付けがなされている。法律や条例が「悪いことをするはずがない」という建て付けでつくられていることが、それを物語る。だから罰則も諸外国に比べて甘い、と。  「被災地で流布するデマに接すると、多くの人は『そんなデマを平気で流すなんて信じられない』という気持ちになる。普通の感覚の持ち主は、あんな状況でデマなんて流さない。しかし現実には悪質なデマを流す人がいる。かつての性善説が通用しない今、罰則を厳しくさえすればデマを防げるわけではないが、それと同時に私は教育の大切さを強く感じます。判断する基準、物事を見極める力を幼少期から養うべきです」  原氏が原発事故直後のこんな体験を明かしてくれた。  「市の災害対策本部近くに岐阜から応援に来た陸上自衛隊がテントを張って駐留したが、会議に出席してほしいと要請しても誰もテントから出てこない。何度も要請してようやく責任者が出てきたと思ったら、全身を完全防備していた。岐阜の上官から『全員、完全防備で屋内退避』の指令が出ていたというのです」  しかし、自衛隊員は全員、線量計を所持しており、一帯の放射線量が低いことを認識していた。対する郡山市は、市全体でガイガーカウンターを3台しか所有していなかった。  「上官の指令に従わなければならないことは理解できる。その指令が経産省からの線量の情報によるものだったこともあとから分かった。しかし、現場にいない経産省に市の線量なんて分かるはずがない。ましてや隊員は、所持している線量計で現場の線量を把握していた。私は責任者に『上官に正しい情報をきちんと伝えなさい』と強く求めました」  それから1時間後、責任者は完全防備をやめ、制服姿で会議に出席したという。  「もしあんな姿を市民に目撃されたら『郡山は危ない』と誤解され、一気にパニックになっていたと思います。デマではないが、正しくない情報に基づいて行動するリスクを強く感じた場面でしたね」  こうした状況が日々連続する中、原氏が意識したのは錯綜する情報に惑わされず、最悪の事態を想定した対策を講じることだったという。  デマとの接触は完全には避けられない。性善説が崩れていると嘆いても仕方がない。ならば情報リテラシー(世の中に溢れる情報を適切に活用できる基礎能力)を磨くことが自分を守り、他人を傷付けない第一歩になるのだろう。また、東日本大震災時よりSNSが普及している現在は、良かれと思って拡散した情報がデマの場合、かえって世の中を混乱させる恐れもある。「流言は智者に止まる」を意識することも大切だ。  そんな原氏も瀬戸氏と同様、逃亡説に翻弄された。地震で自宅が損壊し、市内の長女宅に3カ月避難したところ「逃げた」というデマが流れた。3選を目指した2013年4月の市長選は、デマがマイナスに作用し落選の憂き目に遭った。 「自分はともかく、家族に悲しい思いをさせたのは申し訳なかった」  そう話す原氏は、マスコミへの牽制も忘れなかった。  「とにかく正確な情報を発信してほしいし、切り取った発信の仕方もできれば避けてほしい」  原氏の言葉から、マスコミがデマを広めてしまう可能性があることも肝に銘じたい。

  • 【北野進】「次の大地震に備えて廃炉を」

     1・1能登半島地震の震源地である石川県珠洲市にはかつて原発の建設計画があった。非常に恐ろしい話である。今回の大地震は日本列島全体が原子力災害のリスクにさらされていることをあらためて突きつけた。珠洲原発反対運動のリーダーの一人、北野進さんにインタビューした。 ジャーナリスト・牧内昇平 警鐘鳴らす能登の反原発リーダー 北野進さん=1959年、珠洲郡内浦町(現・能登町)生まれ。筑波大学を卒業後、民間企業に就職したが、有機農業を始めるために脱サラして地元に戻った。1989年、原発反対を掲げて珠洲市長選に立候補するも落選。91年から石川県議会議員を3期務め、珠洲原発建設を阻止し続けた。「志賀原発を廃炉に!」訴訟の原告団長を務める。  ――ご自身の被災や珠洲の状況を教えてください。  「元日は午後から親族と会うために金沢市方面へ出かけており、能登半島を出たかほく市のショッピングセンターで休憩中に大きな揺れを感じました。すぐ停電になり、屋外に誘導された頃に大津波警報が出て、今度は屋上へ避難しました。そのまま金沢の親戚宅に避難しました。  自宅のある珠洲市に戻ったのは1月5日です。金沢から珠洲まで普段なら片道2時間ですが、行きは6時間、帰りは7時間かかりました。道路のあちこちに陥没や亀裂、隆起があり、渋滞が発生していました。自宅は内陸部で津波被害はなく、家の戸がはずれたり屋根瓦が落ちたりという程度の被害でしたが、周りには倒壊した家もたくさんありました。停電や断水が続くため、貴重品や衣類だけ持ち出して金沢に戻りました。今も金沢で避難生活を続けています」  ――志賀原発のことも気になったと思います。  「志賀町で震度7と知った時は衝撃が走りました。原発の立地町で震度7を観測したのは初めてだと思います。志賀原発1・2号機は2011年3月以来止まっているものの、プールに保管している使用済み核燃料は大丈夫なのかと。残念ながら北陸電力は信用できません。今回の事故対応でも訂正が続いています」  ――2号機の変圧器から漏れた油の量が最初は「3500㍑」だったのが後日「2万㍑」に訂正。その油が海に漏れ出てしまっていたことも後日分かりました。取水槽の水位計は「変化はない」と言っていたのに、後になって「3㍍上昇していた」と。津波が到達していたということですよね。  「悪い方向に訂正されることが続いています。そもそも北電は1999年に起きた臨界事故を公表せず、2007年まで約8年間隠していました。今回の事態で北電の危機管理能力にあらためて疑問符がついたということだと思います。  これは石川県も同じです。県の災害対策本部は毎日会議を開いています。しかし会議資料はライフラインの復旧状況ばかり。志賀原発の情報が全然入っていません。たとえば原発敷地外のモニタリングポスト(全部で116カ所)のうち最大で18カ所が使用不能になりました。住民避難の判断材料を得られない深刻な事態です。  私の記憶が正しければ、メディアに対してこの件の情報源になったのは原子力規制庁でした。でも、モニタリングポストは地元自治体が責任を持つべきものです。石川県からこの件の詳しい情報発信がないのは異常です。県が原発をタブー視している。当事者意識が全くありません。放射線量をしっかり測定しなければいけないという福島の教訓が生かされていないのは非常に残念です」 能登半島の地震と原発関連の動き 1967年北陸電力、能登原発(現在の志賀原発)の計画を公表1975年珠洲市議会、国に原発誘致の要望書を提出1976年関西電力、珠洲原発の構想を発表(北電、中部電力と共同で)1989年珠洲市長選、北野氏らが立候補。原発反対票が推進票を上回る関電による珠洲原発の立地調査が住民の反対で中断1993年志賀原発1号機が営業運転開始2003年3電力会社が珠洲原発計画を断念2006年志賀原発2号機が営業運転開始2007年志賀原発1号機の臨界事故隠しが発覚(事故は99年)3月25日、地震発生(最大震度6強)2011年3月11日、東日本大震災が発生(志賀1・2号機は運転停止中)2012年「志賀原発を廃炉に!」訴訟が始まる2021年9月16日、地震発生(最大震度5弱)2022年6月19日、地震発生(最大震度6弱)2023年5月5日、地震発生(最大震度6強)2024年1月1日、地震発生(最大震度7)※北野氏の著書などを基に筆者作成  ――もしも珠洲に原発が立っていたらどうなっていたと思いますか?  「福島以上に悲惨な原発災害になっていたでしょう。最大だった午後4時10分の地震の震源は珠洲原発の建設が予定されていた高屋地区のすぐそばでした。原発が立っていたら、その裏山に当たるような場所です。また、高屋を含む能登半島の北側は広い範囲で沿岸部の地盤が隆起しました。原子炉を冷却するための海水が取り込めなくなっていたことでしょう。ちなみにこの隆起は志賀原発からわずか数㌔の地点まで確認されています。本当に恐ろしい話です」  ――珠洲に原発があったら原子炉や使用済み燃料プールが冷やせず、メルトダウンが起きていたと?  「そうです。そしていったんシビアアクシデントが起きた場合、住民の被害はさらに大きかったと思います。避難が困難だからです。奥能登の道路は壊滅状態になりました。港も隆起や津波の被害で使えません。能登半島の志賀原発以北には約7万人が暮らしています。多くの人が避難できなかったと思います。原子力災害対策指針には『5㌔から30㌔圏内は屋内退避』と書いてありますが、奥能登ではそもそも家屋が倒壊しており、ひびが入った壁や割れた窓では放射線防護効果が期待できません。また、停電や断水が続いているのに家の中にこもり続けるのは無理です。住民は避難できず、屋内退避もできず、ひたすら被ばくを強いられる最悪の事態になっていたと思います」 能登周辺は「活断層の巣」  ――では、志賀原発が運転中だったら、どうなっていたでしょう?  「志賀原発に関しても、運転中だったらリスクは今よりも格段に高かったと思います。原子炉そのものを制御できるか。核反応を抑えるための制御棒がうまく入るか、抜け落ちないか。そういう問題が出てきます。事故が起きた時の避難の難しさは珠洲の場合とほぼ同じです」  ――今のところ、辛うじて深刻な原子力災害を免れたという印象です。  「とにかく一番心配なのは、今回の大地震が打ち止めなのかということです。今回これだけ大きな断層が動いたのだから、他の断層にもひずみを与えているんじゃないかと。次なる大地震のカウントダウンがもう始まっているんじゃないのかっていうのが、一番怖い。能登半島周辺は陸も海も活断層だらけ。いわば『活断層の巣』ができあがっています。半島の付け根にある邑知潟断層帯とか、金沢市内を走る森本・富樫断層帯とか。次はもっと原発に近い活断層が動く可能性もあります。能登の住民の一人として、『今回が最後であってほしい』という気持ちはあります。しかし、やっぱり警戒しなければいけません。そういう意味でも、志賀原発の再稼働なんて尚更とんでもないということです」  ――あらためて志賀原発について教えてください。現在は運転を停止していますが、2号機について北陸電力は早期の再稼働を目指しています。昨年11月には経団連の十倉雅和会長が視察し、「一刻も早く再稼働できるよう願っている」と発言しました。再稼働に向けた地ならしが着々と行われてきた印象です。  「運転を停止している間、原子力規制委員会が安全性の審査を行っています。ポイントは能登半島にひしめいている断層の評価です。志賀原発の敷地内外にどんな断層があるのか、これらが今後地震を引き起こす活断層かどうかが重要になります。経緯は省きますが、北電は『敷地直下の断層は活断層ではない』と主張していて、規制委員会は昨年3月、北電の主張を『妥当』と判断しました。それ以降は原発の敷地周辺の断層の評価を進めていたところでした。  当然ですが、今回の地震は規制委員会の審査に大きな影響をおよぼすでしょう。北電はこれまで、能登半島北方沖の断層帯の長さを96㌔と想定していました。ところが今回の地震では、約150㌔の長さで断層が動いたのではないかと指摘されています。まだ詳しいことは分かりませんが、想定以上の断層の連動があったわけです。未確認の断層があるかもしれません。規制委員会の山中伸介委員長も『相当な年数がかかる』と言っています」  ――北野さんは志賀原発の運転差し止めを求める住民訴訟の原告団長を務めていますね。裁判にはどのような影響がありますか。  「2012年に提訴し、金沢地裁ではこれまでに41回の口頭弁論が行われました。裁判についてもフェーズが全く変わったと思います。断層の問題と共に私たちが主張するもう一つの柱は、先ほどの避難計画についてです。今の避難計画の前提が根底からひっくり返ってしまいました。国も規制委員会も原子力災害対策指針を見直さざるを得ないと思います。この点については志賀に限らず、全国の原発に共通します。僕たちも裁判の中で力を入れて取り組みます」 これでも原発を動かし続けるのか?  石川県の発表によると、1月21日午後の時点で死者は232人。避難者は約1万5000人。亡くなった方々の冥福を祈る。折悪く寒さの厳しい季節だ。避難所などで健康を損なう人がこれ以上増えないことを願う。  能登では数年前から群発地震が続いてきた。今回の地震もそれらと関係することが想定されており、北野さんが話す通り、「これで打ち止めなのか?」という不安は当然残る。  今できることは何か。被災者のケアや災害からの復旧は当然だ。もう一つ大事なのが、原発との決別ではないか。今回の地震でも身に染みたはずだ。原発は常に深刻なリスクを抱えており、そのリスクを地域住民に負わせるのはおかしい。  それなのに、政府や電力会社は原発に固執している。齋藤健経産相は地震から10日後の記者会見で「再稼働を進める方針は変わらない」と言った。その1週間後、関西電力は美浜原発3号機の原子炉を起動させた。2月半ばから本格運転を再開する予定だという。  これでいいのか? 能登で志賀原発の暴走を心配する人たちや、福島で十年以上苦しんできた人たちに顔向けできるのか?  福島の人たちは「自分たちのような思いは二度とさせたくない」と願っているはずだ。事故のリスクを減らすには原発を止めるのが一番だ。これ以上原発を動かし続けることは福島の人びとへの侮辱だと筆者は考える。  内堀雅雄知事が県内原発の廃炉方針に満足し、全国の他の原発については何も言わないのも理解できない。  まきうち・しょうへい 42歳。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。フリー記者として福島を拠点に活動。

  • 他人事ではない能登半島地震

    1月1日16時10分、石川県能登地方を震源とするマグニチュード7・6、最大震度7の巨大地震が発生した。この間、東日本大震災をはじめ大地震に遭遇してきた本県だが、能登地方の被害の大きさに衝撃を受けた人も多いはずだ。地震被災地の現状と本県の大地震リスクを調べた。(志賀) 専門家に聞く〝福島県のリスク〟 倒壊した7階建てのビル(輪島市、藤室玲治さん撮影)  石川県によると、1月20日現在の能登半島地震による被害状況は死者232人(災害関連死14人含む)。重軽傷者1169人。住宅被害3万1670棟。  被害が大きかった珠洲市の住宅被害はまだ正確な数が把握されていないが、市内約6000戸のうち5割が全壊した見通し。  隣接する富山県の被災状況は重軽傷者47人、住宅被害4239棟(全壊23棟)。  地震発生直後に大津波警報が発令されたことから津波被害が懸念されたが、それ以上に目立ったのは、家屋倒壊により生き埋めとなって命を落としたケースだ。  氏名・年齢が公表された石川県の死者114人のうち87%(100人)は家屋倒壊によるもの。死因は窒息死・圧死と考えられ、土砂災害による死者も8人(7%)いた。  家屋倒壊が目立った要因の1つ目は、地震規模が圧倒的に巨大な地震だったことだ。家屋倒壊などで6434人が亡くなった阪神・淡路大震災はマグニチュード7・3。能登半島地震はそれを上回るマグニチュード7・6。数値としては0・3差だが、地震のエネルギーは実に3倍だ。  震度7の揺れを観測した石川県志賀町では、地震計から算出した「加速度」が2825・8ガルに達した。東日本大震災の2933・7ガル(宮城県栗原市)に匹敵する揺れが発生していたことになる。  地震波を分析すると、1回の揺れの周期が1~2秒で、木造家屋に大きな被害をもたらす地震波「キラーパルス」が観測された。  要因の2つ目は、耐震化率の低さ。石川県によると、2017年時点で県内の建物の約4割は建築基準法の旧耐震基準(1981年以前)だった。耐震化率(耐震補強により新耐震基準=1981年以降=を満たした割合)は76%に留まる。  高齢化率が高い能登半島の耐震化率はさらに低い。被害が大きかった珠洲市の耐震化率は、2018年度末時点で51%。輪島市は2019年末時点で45・2%。同時期の全国平均87%を大きく下回っている(福島民友1月5日付)。  耐震工学に詳しい東北大学災害科学国際研究所の五十子幸樹教授は次のように解説する。  「震度が大きい地域でも、耐震補強により新耐震基準を満たしている建物は無被害か小さい被害で済んだ。まずは耐震化が重要ということです。また、倒壊した建物の屋根は瓦を固定するため土葺きとなっていて重いことも被害率を高めている可能性がある。このほか、地盤の液状化現象により住宅が傾くなどの被害を受けることもあるので、危険性のある場所はあらかじめ地盤改良などの対策が必要です」  要因の3つ目は、2020年12月ごろから能登半島で群発地震が発生しており、そのダメージが家屋に蓄積していた可能性があること。  2022年6月、2023年5月には最大震度6強の地震が発生しており、今回の激震でとどめを刺された格好だ。 住宅に累積するダメージ 写真は倒壊した住宅(輪島市、藤室玲治さん撮影)  翻って本県では、地震で家屋倒壊が発生する心配はないのか。  県によると、2018年現在の耐震化率は87・1%で、全国平均並み(約87%)となっている。震災や2度の福島県沖地震により、旧耐震基準の住宅が建て替え・改修を迫られたため現在はさらに耐震化率が向上していそうだ。  ただ、何度も大地震を経験すれば当然ながらダメージは残っていく。2022年3月の福島県沖地震で震度6強の揺れに見舞われた国見町では「震災と2021年2月の地震には何とか耐えたが、今回の大地震で自宅の壁が崩落してしまった」と嘆いていた男性がいた。  今後も数年に一度の周期で大地震が発生すると考えるべきだろう。発生確率が高いとされているのは、宮城県沖の陸寄りで繰り返し発生する一回り小さいプレート間地震、いわゆる宮城県沖地震だ。30年以内に70~90%の確率で発生すると予想されている。過去の地震を踏まえると、本県でも震度5~6の揺れが観測されるが、そのときマイホームが無事に乗り切れるか否かは、実際に大地震が来ないと分からない。  前出・五十子教授は大地震によるダメージについてこのように話す。  「建築基準法は、大きな地震を複数回受けた場合の耐震性については何も規定していません。地震後の調査で残存耐震性能を評価する試みもあるが、あまり広がっていません。福島県では市町村の耐震診断、耐震改修補助制度を支援しており、住宅リフォームに合わせて耐震改修をする場合の助成金などもあるので、積極的に活用していくべきです」  住宅の耐震診断は10万~25万円程度とのことだが、旧耐震基準の住宅だと補助を活用して数千円程度で利用できるという。マイホームの倒壊リスクを減らすための投資と考え、まずは診断を受けておいた方が良さそう。特に築年数が20年以上で、震度4~5以上の地震を何度か経験した木造住宅はリスクが高いという専門家の指摘もあるので、自宅が該当する人は意識して対策を講じていく必要がある。 いわきでも「流体地震」 「流体」で起こる地震のイメージ  能登半島での群発地震の一因とされているのが、地下深くに存在する「流体」(マグマやガスを含む水)だ。約3000万立方㍍に及ぶ高熱・高圧の水が分離しながら地上に向かって上昇することで、周辺の岩盤が押されたり、断層の隙間に入り込んで滑りやすくなる。  その結果、半島周辺にある複数の海底活断層帯が刺激され連動して動いたため、広範囲での巨大な地震になったとみられている。  実は流体が一因となる地震は本県でも起きていた。  東日本大震災から1カ月後の2011年4月11日、いわき市付近を震源とするマグニチュード7・0、最大震度6強の直下型地震が発生した。土砂崩れが起きて4人が命を落としたが、この地震の一因となったのがいわき市と茨城県北茨城市の間の地下にある流体だったと言われる。  能登半島の群発地震と流体の関係を研究する京都大学防災研究所附属地震災害研究センターの西村卓也教授は次のように解説する。  「地下から湧き出る温泉が全国にあるように、流体は全国のさまざまな地域の地下にある。実際どれぐらいの量があるのか、全容は把握されていません。能登半島地震やいわき市の地震のように、流体が断層まで上がってきて影響を与えることが頻繁にあるわけではないが、福島県を含む全国で同じような地震が起こるリスクは把握しておくべきです」  本県内陸の主要な活断層としては双葉断層、福島盆地西縁断層帯、会津盆地西縁断層帯などがあり、30年以内に直下型の大地震が発生する確率は限りなく0に近いと予測されている。だが、地下の流体の影響で断層の滑りが良くなれば、突発的に大地震が発生する可能性もある。そういう意味では、本県も油断は禁物ということだ。 孤立集落化を防ぐ対策  能登半島地震では、道路インフラが寸断され、発災直後は孤立する人や集落が数多く発生した。車社会かつ人口密度が低い本県も他人事ではない。  避難計画を専門としている東北大学災害科学国際研究所の奥村誠教授は「福島県では相馬福島道路など復興道路の整備も進んでいる。西日本と比べ谷筋の奥で暮らしているような集落はそれほど多くない。能登半島の被災地のように孤立する可能性は少ないのではないか」と前置きしたうえで、次のように語る。  「東日本大震災では被災地の道路復旧を進める際に、2方向から沿岸部の道路に入って作業を進める『櫛の歯作戦』を採用しました。災害時のスムーズな避難や復旧においては、最低限2方向からアクセスできることを意識して道を作っておくことが重要です。山間部であれば、山道などを活用して尾根のところをつなげておくという方法もあります」  「一方で、孤立する可能性がある山間部の過疎地は平時から道路が寸断されたときのことを想定した整備が有効だと思います。例えば道路に面する耕作放棄地を道路の余裕幅として残しておく、状態のいい空き家はすぐ壊さず避難先候補として残しておけばいい。逆に状態の良くない空き家は壊して空き地にしておけば、ヘリポートの離着陸が可能な場所として活用できます」  その一方で、奥村教授は「石川県は早い段階で広域避難に切り替える必要があった」と指摘する。  「被災者には、電気・ガス・水道が止まり、携帯電話なども通じない被災地にとどまるより、金沢市もしくは隣県の福井県の宿泊施設に避難してもらう二次避難をもっと早くから積極的に進めた方がよかったと思います。長期間の避難となれば理解を得るのが難しいですが、状況が厳しい能登ではまだまだ有効な方法です。福島からの広域避難の経験や教訓が生かせるところだと思います」 それに対し、福島県の災害関連死を研究しているときわ会常磐病院の澤野豊明医師は「広域避難のリスクにも目を向けるべきだ」と指摘する。  「震災・原発事故のときは、広域避難させた高齢者の症状が悪化したというデータがあります。広域避難により避難生活が長期化すれば、災害関連死を増やす要因になることも忘れてはならないと思います」  いずれにしても、大きな地震災害が起こるたびに同様の問題は出てくるはず。救急医療におけるトリアージのように、どの人を地元に残し、どの人を広域避難させるか、より早く判断する仕組みが求められる。 加速する支援の動き 被災地でDMATとして活動した澤野医師(中央)ら常磐病院スタッフ  1月20日現在、自治体職員などをはじめ、福島県内から多くの人が被災地支援で現場に足を運んでいる。  前出・澤野医師は同病院の看護師ら4人とともに、1月6日から8日にかけてDMAT(ディーマット、災害派遣医療チーム)として珠洲市に入った。地元で一番大きい医療機関・珠洲市総合病院の担当部署に配属され、それぞれ診療、病棟支援、業務調整員として活動したという。  澤野医師によると、現地までの道のりは厳しいものだったようだ。  「車で向かいましたが、道路は亀裂や落石、段差だらけで、土砂崩れで片側交互通行になっているところも多かった。命の危険を感じるほどでした。珠洲市に入ると潰れた家屋が多く見られ、地震の影響を実感させられました」  能登半島では周辺が停電していることもあり、真っ暗な中を20~30㌔の速度で走行し、13時間かけて病院に到着した。病院ではリハビリ室などを使って雑魚寝で過ごした。  「担当したのが発災6日目だったこともあり、避難所生活でストレスを抱えていたり、持病が悪化して来院した方を診察しました。高齢者が多い地域だからか、わざわざ若い人に車を出してもらうのを遠慮した結果、病気が悪化したというケースもありました」(同)  こうした支援が行われる一方で、石川県のホームページには「能登方面への不要不急の移動は控えて!」と書かれ、1月4日には岸田文雄総理もSNSで「現在、限られた輸送ルートに一般の車両が殺到し深刻な渋滞が発生しています。被災地へ速やかに必要な物資が届けられるよう、できる限り利用を抑制していただくことについて、国民の皆様のご理解とご協力をお願いします」と呼びかけた。  そのため、ネットなどでは被災地支援に関する議論が展開され、個人で支援物資を持って被災地に向かうジャーナリストや政治家を批判する向きもあったほどだ。 いまこそ被災地へ  そうした中、福島大学地域未来デザインセンターの特任准教授を務め、浜通りの復興支援に取り組む藤室玲治さんは、この間すでに3回にわたって被災地に支援物資を届けに行っている。  「2007年にも能登半島で大きな地震が発生し、支援に足を運んだとき、輪島市の仮設住宅の区長・藤本幸雄さんにお世話になった。今年1月1日、藤本さんに安否確認したところ、『水もガスも電気もないから大変』と言われた。そこで翌2日に物資を持って現地に向かうことにしました。物資をいろいろ買い込んで、金沢市まで移動してホテルで一泊。そこから1日かけて輪島市に向かい、藤本さんに物資を渡しました。追加で欲しいものがあるということだったので、かほく市のイオンで物資を買い込んで再び届けに行きました」  ネットなどで被災地支援のあり方が議論になっていたころには、すでに行動を始めていた、と。  「地震直後は幹線道路にも倒木、落石、ひび割れなどがあり、行くまでにずいぶん時間がかかりました。穴水町では大きいひび割れの中に車がのみ込まれているのを見ました。これまでさまざまな被災地に行っていますが初めての体験でした」(同)  藤室さんは兵庫県神戸市出身で、神戸大学2年生のときに阪神・淡路大震災に遭う。同市長田区にあった兵庫高校の避難所で支援活動をしたのを機に、災害ボランティアに従事するようになった。それだけに、被災地支援のあり方については確固たる信念を持っている。  「自治体では『いまは受け入れらない』とボランティアの自粛を呼びかけていましたが、東日本大震災などで災害ボランティアの経験があるグループやNPO法人はいち早く現地避難所に入って炊き出しをしていました。そもそも行政職員が重要度の高い災害対応の仕事に追われている中で、ボランティアの仕切りもやるというのは無理がある。そういうとき、役場に代わって被災者を支援するのがボランティアの本来の役割だと思います」  藤室さんは毎週のように被災地に足を運んでボランティアをしているが、時間が経つごとに道路状況は着実に良くなっており、1月20日に車で輪島市まで行った際には渋滞と感じるエリアもなかった。ボランティアの内容も変わりつつあり、1月20日に学生とともに避難所に行った際は、被災者に足湯に入ってもらい話を傾聴する活動をした。  藤室さんによると、県内の宿泊施設や県外の公営住宅などで被災者を受け入れる広域避難も始まっているが、利用している人はあまりおらず、避難所に残るどころか生活インフラが完全に復旧していない自宅で過ごす人も少なくないようだ。  「自宅に残る理由は片付けを優先したり、車で自由に移動できたり、障害を持つ家族や高齢の家族がいて避難所での生活が難しいなど、さまざまです。災害関連死は在宅で最も多く発生すると言われているので心配です」(藤室さん)  今後、復旧・復興が進む中でボランティアのニーズはさらに高まるとみられる。2月以降、3連休などを利用して足を運ぶ人も増えそうだ。  藤室さんは「被災地で必要な物資は時期によって異なる。何か支援物資を持っていこうと考えるのであれば、現地で支援に入っているグループやNPO法人などに問い合わせるのが良いと思います」と語る。  能登半島地震は本県にとっても他人事ではない。その教訓をしっかり生かして防災対策を講じ、被災者支援に取り組んでいく必要がある。

  • 災害時にデマに振り回されないための教訓

     能登半島地震では、存在しない住所から救助を求めたり、架空の寄付を募ったり、不安を煽るような情報がSNS上に複数出回っている。東日本大震災の際も流布したデマ。当時、その渦中にいた元首長二人に、厳しい状況の時こそデマに振り回されず、正しい情報に触れる・発信する大切さを聞いた。 二人の元市長が明かす震災時の「負の連鎖」  当時福島市長の瀬戸孝則氏(76)は米沢、新潟、沖縄、果ては海外に逃げたという逃亡説が囁かれた。  震災発生から2カ月後の2011年5月、本誌が瀬戸氏に真偽を尋ねると、こんな答えが返ってきた。  「慰問に来た新潟の首長から『マスコミに露出してPRしないと大変だよ』とアドバイスされた。新潟でも中越地震の際、目立たない首長は逃げたとウワサされたそうです。ただ、当市は浜通りに比べて被害が小さく、マスコミが積極的に取り上げる事案もなかった。それなのに被害の大きい自治体を差し置いて、私がマスコミに出るわけにはいかない」  常識的には、あれほどの大災害が起きれば様々な情報が瞬時に首長に集まり、その場で必要な判断を迫られる。そうした状況で、もし首長が逃げたら大ニュースだ。福島市役所には市政記者室があり、番記者が瀬戸氏の動向を常に見ている。  だから自身に関するデマが出回っていると知っても深刻に受け止めなかったが、2012年2月に神戸大学大学院教授が講演で「福島市長は山形市に住んで、公用車で毎日市役所に通っている」と発言した時はさすがに強く抗議した。  同年4月、教授は市役所を訪れ直接謝罪したが、瀬戸氏は怒るでもなく淡々と謝罪を受け入れた。  あれから間もなく13年。本誌の取材に「あの場面で厳しく怒っていれば逃亡説は打ち消せたのかな」と振り返る瀬戸氏は、能登半島地震の被災地に思いを巡らせながら当時のことを静かに語ってくれた。  「あの時、逃げたと言われたのは私、原正夫郡山市長、渡辺敬夫いわき市長の3人。共通するのは人口30万人の中核市です。小さい市や町村では、首長が逃げたというウワサはほとんど聞かなかったと思います」  30万人の市になると、市長が市内を隅々まで回るのは難しい。そうした中、東日本大震災が自然災害だけだったら直接の被害者は限定されていただろう。分かり易く言うと、台風で収穫前のリンゴが落下すれば被害者はリンゴ農家、河川が越水すれば被害者は浸水家屋の持ち主、という具合。同じ地域に住んでいても、直接被害を受けていない人は「大変だな」くらいにしか思わない。  しかし、東日本大震災は自然災害に加えて放射能災害が襲った。目に見えない放射能は、原発周辺の人たちだけでなく、遠く離れた全員を被害者にした。放射線量がほとんど上がらなかった地域でも、被曝を心配する人が続出した。  「全員が被害者なので、全員が一斉に不安になる。そこで出てくる不満や怒りをどこかにぶつけたくてもぶつける場所がないので、市長が標的になる。平時は市長が何をしているかなんて気に掛けないのに、ああいう時は『何をやってるんだ』となり、姿が見えないと『逃げたんじゃないか』となってしまう。こうした負の連鎖は、放射能災害特有の現象だと思います」(同)  冷静に考えれば原発事故の加害者は東電・国なのに、両者に言っても反応がないので余計に不満・怒りが募る。その矛先が市民にとって最も身近な政治家である市長に向いた、というのが瀬戸氏の見立てだ。  「幸い志賀原発は大丈夫だったので、逃げたと言われる首長さんはいないのではないか。首長さんが避難所を回り、被災者に声をかける姿をテレビで見たが、苦労は絶えないと思う。政治家はやって当たり前、やらないと厳しく批判されるのが性だが、デマに基づいて非難するのは違う。今回の地震では、デマに振り回される人が一人でも少なくなることを願います」(同) 流言は智者に止まる  当時郡山市長の原正夫氏(80)もデマに翻弄され、それを乗り越えようとした首長の一人だ。  「デマとそれに基づく中傷は時代が変わってもなくならないと思う。これだけITが発達すればフェイクニュースも増え、それを悪用する輩も次々と出てきますからね」  原氏によると、日本人は性善説に立った思考付けがなされている。法律や条例が「悪いことをするはずがない」という建て付けでつくられていることが、それを物語る。だから罰則も諸外国に比べて甘い、と。  「被災地で流布するデマに接すると、多くの人は『そんなデマを平気で流すなんて信じられない』という気持ちになる。普通の感覚の持ち主は、あんな状況でデマなんて流さない。しかし現実には悪質なデマを流す人がいる。かつての性善説が通用しない今、罰則を厳しくさえすればデマを防げるわけではないが、それと同時に私は教育の大切さを強く感じます。判断する基準、物事を見極める力を幼少期から養うべきです」  原氏が原発事故直後のこんな体験を明かしてくれた。  「市の災害対策本部近くに岐阜から応援に来た陸上自衛隊がテントを張って駐留したが、会議に出席してほしいと要請しても誰もテントから出てこない。何度も要請してようやく責任者が出てきたと思ったら、全身を完全防備していた。岐阜の上官から『全員、完全防備で屋内退避』の指令が出ていたというのです」  しかし、自衛隊員は全員、線量計を所持しており、一帯の放射線量が低いことを認識していた。対する郡山市は、市全体でガイガーカウンターを3台しか所有していなかった。  「上官の指令に従わなければならないことは理解できる。その指令が経産省からの線量の情報によるものだったこともあとから分かった。しかし、現場にいない経産省に市の線量なんて分かるはずがない。ましてや隊員は、所持している線量計で現場の線量を把握していた。私は責任者に『上官に正しい情報をきちんと伝えなさい』と強く求めました」  それから1時間後、責任者は完全防備をやめ、制服姿で会議に出席したという。  「もしあんな姿を市民に目撃されたら『郡山は危ない』と誤解され、一気にパニックになっていたと思います。デマではないが、正しくない情報に基づいて行動するリスクを強く感じた場面でしたね」  こうした状況が日々連続する中、原氏が意識したのは錯綜する情報に惑わされず、最悪の事態を想定した対策を講じることだったという。  デマとの接触は完全には避けられない。性善説が崩れていると嘆いても仕方がない。ならば情報リテラシー(世の中に溢れる情報を適切に活用できる基礎能力)を磨くことが自分を守り、他人を傷付けない第一歩になるのだろう。また、東日本大震災時よりSNSが普及している現在は、良かれと思って拡散した情報がデマの場合、かえって世の中を混乱させる恐れもある。「流言は智者に止まる」を意識することも大切だ。  そんな原氏も瀬戸氏と同様、逃亡説に翻弄された。地震で自宅が損壊し、市内の長女宅に3カ月避難したところ「逃げた」というデマが流れた。3選を目指した2013年4月の市長選は、デマがマイナスに作用し落選の憂き目に遭った。 「自分はともかく、家族に悲しい思いをさせたのは申し訳なかった」  そう話す原氏は、マスコミへの牽制も忘れなかった。  「とにかく正確な情報を発信してほしいし、切り取った発信の仕方もできれば避けてほしい」  原氏の言葉から、マスコミがデマを広めてしまう可能性があることも肝に銘じたい。