元三春町長の伊藤寛さんが1月5日に亡くなった。93歳だった。伊藤元町長は「改革派」や「やり手の町長」として知られ、独自の行財政改革に取り組んだ。伊藤元町長がもたらしたものを振り返る。
「やり手」で知られるも最後はチグハグ


伊藤元町長は1931年生まれ。田村高校、一橋大経済学部を卒業後、1955年に地元の御木沢農業協同組合に勤務した。そこで5年間働いた後、農林中央金庫に転職、14年ほどして御木沢農業協同組合に復職した。1975年に三春町助役となり、1980年の三春町長選で初当選した。そこから6期途中まで23年5カ月務めた。
伊藤元町長が亡くなったのは1月5日だったが、地元紙の訃報欄でそのことが伝えられたのは2月下旬だった。福島民報が2月25日付、福島民友がその翌日。両紙の報道によると、本人の意向で近親者のみで1月7日に葬儀を行ったという。
両紙は伊藤元町長について、こう伝えている。
《全国初の教育長一般公募をはじめ、県内初の課制廃止などの行財政改革に取り組んだ。三春交流館まほら、町歴史民族資料館などを建設した》(福島民報)
《全国初の教育長公募や米国ライスレイク市との姉妹都市締結、三春ダム建設などに取り組んだ。「町民参加のまちづくり」を提唱し、地区単位での地域振興計画の策定などにも力を注いだ》(福島民友)
両紙とも訃報欄の限られたスペースの中で実績を紹介しているわけだから、それらが「特筆すべき点」ということになる。
筆者は2003年に本誌記者となったので、伊藤元町長の在職期間は数カ月しか知らない。伊藤元町長の在職時と現在では社会情勢や時代背景などが違うものの、「改革派町長」と言われるゆえんに正直ピンと来ていなかったし、両紙が紹介した実績を見てもその思いは変わらない。
3月17日には遺族と発起人会の共催で「お別れの会」が行われた。代表発起人は伊藤元町長の後を受けた鈴木義孝前町長で、そのほか大内長久区長会長、相川義則まちづくり協会長、新田信二商工会長、内藤忠田村高校同窓会長が発起人として名を連ねた。
当日は多くの町民・関係者が献花用の花を持って参列した。そこで配布されたリーフレットに伊藤元町長の功績が記されている。主なものを紹介する。
「卓越した政治手腕と信念をもって住民福祉の向上と地域の振興のため、特色ある施策の推進に尽力いただきました」
「『町民参加のまちづくり』を提唱し、全町的な組織としてまちづくり協議会、地域的な組織として各地区にまちづくり協会を設置し、独自の個性的な地域づくり活動を行い地域の振興に貢献されました」
「長年の懸案であった『三春ダム建設』に尽力し、地権者の補償問題や生活再建にも取り組み、三春ダム(さくら湖)の完成に貢献しました」
「昭和50年代後半の教育荒廃を憂い、知識詰め込み型の一斉画一教育から個性化教育への転換を図るため、子どもたちの個性と自主性を育てるための特徴ある魅力的な学校づくり(小学校はオープンスペースを備え多彩な学習活動、中学校は多目的スペースを組み合わせた教科教室型での教育システム)に尽力いただきました」
「歴史公園都市を目指すため『うるおい・緑・景観モデル都市』の指定を建設省から受け、都市の美しさ、楽しさ、そして機能的な構造整備計画として、大町街路整備事業、みはる壱番館建設オープン、桜川河川改修などの事業を行い、都市機能の充実強化に尽力いただきました。特に、三春交流館『まほら』は、中心市街地の再活性化を促進し、マチ(地域商業)とムラ(地域農業)の結びつきが深まる場、ヒト・モノ・情報の交流の場、町民の文化・学習・展示活動の場など幅広い施設として、平成15(2003)年度の開館に尽力いただきました」
「『国際交流館ライスレイクの家』を建設し、アメリカ合衆国ライスレイク市と姉妹都市を締結、中高生の交換留学や住民交流、ホームステイの相互派遣など幅広い国際交流を行い、新たなライフスタイルの構築と異文化間のグローバルな交流に尽力いただきました」
前町長、現町長に聞く
こうした実績紹介を見ても、筆者としてはやはり「改革派町長」と言われることへの納得感はない。
「お別れの会」代表発起人の鈴木前町長に話を聞いた。なお、鈴木前町長は、伊藤元町長の在職時は議員・議長の立場だった。
「当時は行政視察なんかも結構来ていましたね。そこで皆さんがおっしゃるのは『キレイな街並みだね』ということです。それをつくったのが伊藤元町長です。また、在職期間の終盤には合併議論もありましたが、三春町は生活面では郡山市に依存する部分が大きいので、田村郡の合併に参加しても、メリットが小さいと考え、早々に合併しないことを決めました。もちろんそれは住民との協議を経て決めたことですが、当時の判断は間違っていなかったと思います」
一方、坂本浩之町長はこう話す。ちなみに、坂本町長は元町職員で、伊藤元町長が在職していたころは、まだ責任ある立場の役職ではなかったが、身近で見てきた存在であることは間違いない。
「一言で言うと『先見の明があった』ということでしょうね。当時は私もまだ駆け出しでしたから、分からない部分もありましたが、いま町長という立場になり、そう思います。大町地区の区画整理にしても、住民自治の基本的な部分をつくったことにしても、いまだったらできないこと、あるいはいまは当たり前になっていることが、かなり早い段階から行われていたわけですから」
大町地区の区画整理により、交流館建設、電線の地中化や街並み整備などを行ったこと、全町的な組織の「まちづくり協議会」、各地区単位の「まちづくり協会」を設置し、住民参加型のまちづくりの基礎をつくったことなどが実績として捉えられているようだ。
確かに、いまでこそ「まちづくり基本条例」のようなものが制定されるケースは珍しくないが、当時は先進的な取り組みだったのだろう。
一方で、本誌主幹の奥平は、2003年10月号「マスコミがつくった伊藤寛元三春町長の虚像」という記事で伊藤元町長を評論している。そこで指摘しているのは、三春ダム関連事業や、学校、駅周辺、国際交流館、三春交流館の整備など、さまざまな事業を実施したが、それらは評価が分かれる施策であること、さらには大きな事業を行った結果、財政が危険水域に達していることだ。
確かに、交流館整備などの事業は評価が難しいが、財政指標などの数値は客観的な判断材料になる。同記事によると、1989年度に公債費負担比率が8・2%だったが、2002年度には22・1%になった。公債費負担比率が高いほど、自由に使える予算が少なくなり、15%が警戒ライン、20%が危険ラインとされるから、三春町は危険ラインを大きく超えていたのだ。
「町の将来のため、借金しても進めなければならない事業は必ずあるから、財政力指数が標準値を超えたから悪いというのではない。ただ、各種データは三春町が膨大な予算を使いながら、順調に発展しているわけではないことを示している」(同記事より)
伊藤元町長が務めた期間は、初期のころは日本経済が右肩上がりで、国・地方自治体の財政規模も拡大していた。その後、バブル崩壊を経て事情が変わった。国・地方自治体の財政が厳しさを増していったのである。どこかの時点で、事業の選別、あるいは本誌・奥平がずっと主張し続けていた公務員の待遇を引き下げるなどの財政健全化に向けた取り組みも進める必要があったということだろう。
公募教育長と裁判に
さらに、全国初の試みだった教育長の一般公募は、その後、裁判沙汰になった。2003年に伊藤元町長が退任し、新町長(鈴木前町長)が就任すると、教育長は慣例に従い進退伺を提出した。鈴木前町長はそれを尊重する格好で、教育長に退任してもらうことにした。その結果、「辞意がないのに辞職扱いにされた」として、教育長が町を相手取り、地位確認と約2000万円の損害賠償を求めて訴訟を起こしたのだ。最終的には町が1100万円の和解金を支払うことで決着(和解)したが、何とも後味の悪い結果に終わった。
ところで、冒頭で伊藤元町長は1980年から6期途中まで務めたと書いた。伊藤元町長は2000年の町長選で6期目の当選を果たし、任期は2004年3月までだった。しかし、多選による町政のマンネリ化を危惧し、6期目の任期満了で退任することを決めており、そんな中で「妻が介護が必要な状況になった」ことを理由に任期を7カ月ほど残して、2003年8月末で辞職した。
当然、出直し町長選が行われるが、それを見越して、同年9月定例会が前倒しで8月中に行われ、伊藤元町長にとって最後の議会となった同定例会最終日にこう述べた。
「任期中に1つだけやり残した夢がある。それは、住民・議会・職員が同じテーブルに着いて町づくりの施策を協議する仕組みを実現すること。町長を辞めてからも、その夢の実現を(町議の)皆さんとともに考えていきたい」
ちょうど同年9月には町議選が控えており、「フルタイムの町長は無理でも、議員活動なら介護と両立できる」と、町長を辞めた後、町議に転身することを明かしたのだ。
それを聞いた時、筆者は「それはどうなのか。町政は1人のものではない。町民を愚弄する行為ではないか」と感じた。
同様に感じた人がいたかどうか、いたとしてそれがどのくらいの数で、当人に伝わっていたのか等々は不明だが、伊藤元町長はそれからすぐに町議転身を諦めた。
理由は「妻の介護が予想以上に大変なのが分かったこと、後援会で退任を伝えた後、懇親会を開き、それが町議選の事前活動と受け取られる恐れがあること」を挙げた。
こうして見ると、確かに伊藤元町長は三春町にいろいろなものをもたらしたのだろうが、最後はチグハグな面があったのは否めない。