神戸市中央区にある「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」を見学した。

阪神・淡路大震災は1995年1月17日午前5時46分、兵庫県淡路島北部を震源とするマグニチュード7・3の地震だった。6400人を超える人が亡くなり、甚大な被害をもたらした。
当時、筆者は中学生で、とんでもない大変なことが起こったと感じたことを記憶している。とはいえ、福島県に住む自分にとっては「遠いこと」でもあった。
それから16年後、東日本大震災に遭遇した。この被害は地震そのものより、津波の被害が大きく、福島県に限っては原発事故の影響がさらに大きかった。
一方で、避難所生活や復旧に当たっては、阪神・淡路大震災の教訓・知見などが生かされた部分も大いにあった。
それだけに、阪神・淡路大震災のとき、住民はどんな思いだったのか、街はどうだったのかを、あらためて知りたいと思い、記念館に足を運んだ。
同記念館は映像がメーンだった。地震発生直後の再現映像や、実際の映像、さらにはそれから数年後の住民の声などを見聞きすることができた。そのうえでの感想は、「恐怖」ということに尽きる。復興が進む過程での被災者の「あの時はこうだったけど、いまはこうなった」といった証言も複数あったが、それ以上に、地震発生直後の再現映像や、実際の映像のインパクトが強かったのだ。
一通り見学していると、ボランティアガイドの人に「どちらからお見えになったのですか」(実際は「どちらからお見えにならはったのですか」と言っていたと思う)と尋ねられた。「福島県です」と言うと、「じゃあ、東日本大震災を経験しているんですね。大変でしたね」と言われた。
ボランティアガイドの人と話している中で、とても印象に残っている言葉がある。
それは、「私は祖父母などの年長者から『神戸は地震が少ない街だから』と教えられていました。だから、あんな大きな地震に遭遇するとは夢にも思っていなかった」ということ。
県内の津波被災地域の人からも似たような話を聞くことが何度もあった。つまり、「亡くなった祖父から『オレは80年ここ(海の近く)に住んでいるが、津波を見たことは一度もない』と聞かされていた」等々だ。
自然災害において、「いままでなかったから、これからもない」ということが通用しないと、あらためて感じさせられた。
一方で、このボランティアガイドの人は、「東日本大震災後、福島県にボランティアに行った」という。
「自身の(被災の)経験から、すぐに行っても役に立てないと思ったので少し時間が経ってから行きました。そこで、例えば炊き出しや、物資の配布などの様子を見ていたら、きちんと並んで、秩序が保たれていました。その光景を見た時、『大丈夫、この地域は必ず復興できる』と思いました。なぜなら、神戸がそうでしたから」
このボランティアガイドの人の話はいろいろと勉強になった。同時に、経験を伝えていく大切さを再認識することができた。
