
メディア出演の功罪
前回、編集者はいつ誰から相談を受けてもよいように手を空けておかなければならない、と書きました。誰もボールを拾わない間隙を縫うのが編集者の仕事のひとつです。それゆえに、『射精責任』などフェミニズム・ジェンダーをテーマにした書籍の担当編集者として「女性論客」的な役割を引き受けることもあります。
この「女性論客」としてメディアに出る、というのは、不思議な仕事です。少し考えてみればわかることですが、「男性論客」という言葉は成立しません。どうしてこのような奇妙な言葉が生まれるのか、考えてみましょう。
ジェンダー・セクシュアリティの文脈では「有徴化」という言葉が用いられることがあります。有徴化とは「徴(しるし)を付ける」ということです。マイノリティは名付けられ、徴(しるし)付けられるのに、マジョリティは「普通」であるから、徴(しるし)付けられない(無徴化)。例えば、「女医」「女流作家」という言葉は、医師や作家は男性であるという前提が反映された言葉であり、マイノリティである女性のみが「女」と名付けられます。
問われない父親の責任
4月3日、嬰児の産み落し事件へのコメントをお願いしたいという依頼を受けて、テレビ朝日系列のネット情報バラエティ番組「Abema Prime」に出演しました[*1]。3月29日に名古屋のネットカフェで赤ちゃんの遺体が発見され、母親らしき女性が逮捕されたというニュースがきっかけとなりました[*2]。同月16日には埼玉県行田市で、女子中学生が自宅の部屋で一人で赤ちゃんを産み、庭に埋めたとして逮捕されています[*3]。
このような事件が起こる度に、母親である女性が逮捕され、時には実名報道され、社会的地位の低下、精神的・肉体的・経済的ダメージを引き受ける一方、望まない妊娠を引き起こした父親にはなんの咎めもないことが問題視されてきました。
2023年に『射精責任』(ガブリエル・ブレア著、村井理子訳、齋藤圭介解説)を翻訳出版した時にも、このような事件とそれに対する世間からの反応が念頭にありました。もともと本書はアメリカでトランプ大統領の就任によって最高裁に保守派の裁判官が選任され、中絶の権利を保障していたとされるロー対ウェイド判決が破棄され、望まない妊娠をした女性たちの権利が脅かされる、という危機感から出版されたものです。「中絶」という話題が宗教的・倫理的対立を引き起こしやすいアメリカに比べると、日本の中絶へのアクセスは容易です。
とはいえ、父親が母親からのLINEをブロックしてしまえば、父親は妊娠や出産、中絶から「途中退場」できるのに対し、女性はそういうわけにはいかないという不均衡が存在します。それが最悪の場合、嬰児の遺棄という「事件」に結実してしまうのです。
「女性論客」役を任された
番組ではいろいろ手を尽くして男性の専門家の出演を模索したようでした。『射精責任』においても、望まない妊娠について取り上げるのであれば、女性ではなく男性に焦点を当てることが問題の解決に繋がると主張しています。
しかし、オファーが出演直前だったことなどもあり、男性の専門家のブッキングは叶わなかったようです。そこで、私一人がこの問題の「有識者」として出演することになりました。
もちろん私はジェンダー・セクシュアリティ研究の専門家でもなければ、若年妊娠に悩む女性の支援に従事しているわけでもありません。しかし、そういったお仕事に従事する方々は多くの場合に多忙で、急なオファーに応えることができません。
また、情報バラエティ番組に出演することで、心ないバッシングや悪質な嫌がらせを受けることもあります。編集者は、「悪名は無名に勝る」、本を売るために本の露出が増えるならなんでもやる、というスタンスを取りやすいですが、多くの人はそういうわけにはいきません。というわけで、その日は『射精責任』の担当編集者として「女性論客」の役割を引き受けたのでした。
「Abema Prime」はネット番組とはいえテレビ朝日系列で、収録も六本木のテレビ朝日のスタジオで行われます(その日は金曜日の夜で、隣のスタジオではミュージックステーションを収録していました)。女性ゲストには局が用意している常駐のヘアメイクさんがついてくれます。私はほぼ毎日すっぴんで過ごしているので有難い待遇なのですが、興味深いことに同じ番組に複数出演経験のある男性には、そのような申し出はこれまで一度もなかったようです。
番組出演後は、知人友人らからは「理路整然と話していてよかった」「顔色が良くて感じがよかった」(ヘアメイクさんのおかげですね)などと好意的な感想をもらいました。動画の公開直後から『射精責任』のAmazonの順位はじわっと上がったので、担当編集者としては収穫だったといえるでしょう。
「有徴化」と向き合う
一方で、予想していた通り、動画のコメント欄は悪意のあるコメントで溢れかえりました。男性の専門家が不在だったこともあり、「編集者という特殊な職業に就く、女性という特殊な性別の人間が、特殊な意見を述べている」という構図にされてしまったという印象は否めません。
私はまさに「有徴化」されきった状態で舞台に上がることになったのでした。そのため、私はどのような意見を聞いたとしても、怒らず穏やかに、にこやかにするように努めました。番組制作者のみなさんはできうる限りの手を尽くしてくださり、事前のヒアリングも丁寧でした。しかしそうであったとしても、社会にマイノリティに対する差別的目線が埋め込まれている以上、「有徴化」とそれに伴う当事者へのバッシングは前景化しやすいのです。
だからといって、社会を前進させるためにも、メディアがマイノリティの主張や意見を取り上げないわけにはいきません。一方で、特殊なもの、目立つものでなければ人々の耳目を集めることはできません。メディアはあえて「有徴化」する「演出」込みでマイノリティの置かれている現状や声を伝えることがあります。そうした舞台構造と「有徴化」がもたらす副作用について理解した上で、どのように伝えるべきか。私もまたメディアの一端を担う編集者として、自戒も込めてこの問いと共に在りたいと思います。
[*1]「【射精責任】赤ちゃん遺棄『男性の責任』なぜ問われない? 午前0時のプリンセスと考える」(Abema Prime)
[*2]「名古屋・錦三のネットカフェで乳児の遺体 20歳の女を緊急逮捕」(朝日新聞 2026年3月29日)
[*3]「『孤立出産』15歳女子中学生を逮捕する必要はあったのか 生まれたばかりの赤ちゃんを庭に埋めた事件」(弁護士ドットコム 2026年3月18日)https://www.bengo4.com/c_18/n_20137/






















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