海洋放出にお墨付きを与えたとされる国際原子力機関(IAEA)の包括報告書。そこにはどのようなことが書かれているのか。世界の廃炉政策を研究しており、本誌で「廃炉の流儀」を連載している尾松亮さんに解説してもらった。
政府は海洋放出を正当化する根拠として国際原子力機関(IAEA)の報告書(7月4日発表包括報告書)を引き合いに出す。この包括報告書で、IAEAが海洋放出計画を「国際基準に沿ったもの」と認め、お墨付きを与えたというのだ。
例えば、8月1日に行われた茨城沿海地区漁業協同組合連合会との面会で、西村康稔経済産業大臣はこの報告書を持ち出し「放出に対する日本の取り組みは国際的な安全基準に合致している」と説明した(8月2日付NHK茨城NEWS WEB)。
海洋放出計画は「国際基準に合致している」と、各紙各局の報道は繰り返す。
しかし、根拠となった「国際基準」とはどんなもので、何をすれば国際基準に合致すると見なされるのか、そのことを詳しく伝える報道は少なくとも日本では見たことがない。
海洋放出推進の論拠となっているIAEA包括報告書で、その「国際基準」への整合性はどのように証明されているのか。
①【IAEA包括報告書とは】和訳なし、結論部分だけが報じられる
2023年7月4日、IAEAは「福島第一原子力発電所におけるALPS処理水安全レビューに関する包括報告書」(※) を発表した。
※IAEA “COMPREHENSIVE REPORT ON THE SAFETY REVIEWOF THE ALPS-TREATED WATER AT THE FUKUSHIMA DAIICHI NUCLEAR POWER STATION”
https://www.iaea.org/sites/default/files/iaea_comprehensive_alps_report.pdf
2021年4月にALPS処理水海洋放出を決定した直後、日本政府はIAEAに対して「処理水放出計画を国際的安全基準の観点から独立レビュー」するよう要請した。その要請を受けて実施されたIAEAレビューの内容をまとめたのがこの包括報告書である。
これは付録資料含め全129頁の英文による報告書。発表から1カ月以上経過した8月下旬時点で外務省や経産省のホームページを見ても報告書全体の和訳は無い。数枚の日本語要旨がつけられているだけである。「英語が読めない住民は結論の要約だけ読んで信じれば良い」と言わんばかりである。
表1:IAEA包括報告書の主な構成
章 | 章タイトル |
---|---|
1章 | 導入 |
2章 | 「基本的安全原則との整合性評価」 |
3章 | 「安全要求事項との整合性評価」 |
4章 | モニタリング、分析及び実証 |
5章 | 今後の取り組み |
そして日本の報道機関は、この報告書の中身を分析することなく「国際基準に合致」「放射線影響は無視できる程度」という結論部分だけを繰り返し伝えている。
この結論を読むとき、疑問を持たなければならない。メルトダウンした核燃料に直接触れた水の海への投棄を認める「国際基準」とは何ものか? どういう取り組みをしたら、国際安全基準に合致していると言えるのか? その適合評価は十分厳しく行われたのか?
この報告書で処理水海洋放出計画の「国際基準(国際機関であるIAEAが定めた基準)」との整合性をチェックしているのは、主に第2章(「基本的安全原則との整合性評価」)及び第3章(「安全要求事項との整合性評価」)である。
「国際基準に合致」と言われれば、さも厳しい要求事項があり、東電と政府の海洋放出計画はそれらの要求事項を「全て満たしている」かのように聞こえる。しかし報告書の内容を読むと、この「国際基準」がいかに頼りないものであるかが明らかになる。
本稿ではこれら整合性評価で特に問題のある部分について紹介したい。
②【基本原則との適合評価】こんな程度で「合致」を認めるのか?
例えば2章1節では、「安全性に対する責任」という基本原則との整合性が確認される。
表2:2章で整合性評価される基本的安全原則
節番号 | 項目 |
---|---|
2.1 | 安全性に対する責任 |
2.2 | 政府の役割 |
2.3 | 安全性に関するリーダーシップとマネジメント |
2.4 | 正当化 |
2.5 | 放射線防護の最適化 |
2.6 | 個人に対するリスクの制限 |
2.7 | 現世代及び将来世代とその環境の防護 |
2.8 | 事故防止策 |
2.9 | 緊急時対策と対応策 |
2.1 | 現存被ばくリスクを低減するための防護策 |
これは「安全性に対する一次的責任は、放射線リスクを引き起こす活動あるいは施設の責任主体である個人あるいは組織が負わなければならない」という原則(IAEA国際基準の一つ)である。この原則について適合性はどうチェックされたか、該当箇所を見てみたい。
「日本で定められた法制度および規制制度の枠組みの下、東京電力が福島第一原子力発電所からのALPS処理水の放出の安全性に対する一次的責任を負っている」(包括報告書15頁)。つまり「海洋放出実施企業が安全に対する責任を負う」というルールさえ定めれば、「国際基準に合致」となるのだ。
2章2節は「政府の役割」という基本原則との整合性評価である。これは「独立規制組織を含む、安全性のための効果的な法制度上及び政府組織面での枠組みが打ち立てられ維持されていなければならない」という基本原則。これについてIAEAはどう評価したか。
「原子力規制委員会は独立規制組織として設立され、その責任事項には、ALPS処理水の海洋放出のための東京電力の施設及び活動に対する規制管理についての責任も含まれる」(同17頁)として、「基準合致」を認めてしまう。規制委員会があるからOKというのだ。
2章8節では「核災害または放射線事故を防止するとともに影響緩和するためにあらゆる実践的な取り組みが行われなければならない」という基本原則との整合性が確認される。ここでIAEAは「放出プロセスを管理しALPS処理水の意図せぬ流出を防ぐために東京電力によって安全確保のための堅実な工学的設計と手続き上の管理が行われている」(同29頁)として「原則合致」を認めている。その根拠として、非常時に海洋放出を止める停止装置(Isolation Valves等)があることを挙げている。非常用設備と事故防止計画があるから「基準合致」というのだ。東電のように何度も設備故障を起こし、安全基準違反を繰り返してきた企業に対して、「設備が用意されているから基準合致」というのは甘すぎるのではないか?
ここまで読んで「おかしい」と思わないだろうか? これら「基本原則」は、原子力施設を運営する国や企業に求められる初歩中の初歩の制度整備要求でしかない。これらを満たせば海洋放出計画も「国際基準に合致」ということになるのなら、ほぼ全ての原発保有国は「基準合致」のお墨付きをもらえる。
③【安全要求事項との適合評価】40年前の基準でも科学的?
3章では「安全性要求事項」との整合性がチェックされている。
表3:3章で整合性評価される安全性要求事項
節番号 | 項目 |
---|---|
3.1 | 規制管理と認可 |
3.2 | 管理放出のシステムとプロセスにおける安全に関する側面 |
3.3 | 汚染源の特性評価 |
3.4 | 放射線環境影響評価 |
3.5 | 汚染源および環境のモニタリング |
3.6 | 利害関係者の参画 |
3.7 | 職業被ばく防護 |
例えば3章4節では、東電の「環境影響評価」がIAEAの基準に沿って実施されているかチェックしている。この東電の「放射線環境影響評価」は、IAEAが「(処理水海洋放出による)人間と環境への影響は無視できる程度」と結論づける根拠となったものだ。
例えば、IAEAの基準「放射線防護と放射線源の安全:国際基本安全基準」(GSR Part3)には、影響評価について次のような規定がある。「安全評価は次のような形で行われるものとする。(a)被ばくが起こる経路を特定し、(b)通常運転時において被ばくが起こりうる可能性とその程度について確定すると共に合理的で実践可能な範囲で、あり得る被ばく影響の評価を行う」(同60頁)
これら基準に定められた評価項目を扱い、定められた手続きに沿って「環境影響評価」を実施すれば、この「国際基準に合致」したことになる。当該環境影響評価が、将来にわたる放射線影響リスクを網羅的かつ客観的に提示することまでは求められていない。そもそも網羅的な影響評価は不可能であり、不確実性が残ることは最初から許容されている。
例えばIAEAは、内部被ばくの影響評価に際して、極めて簡略化された推定値を用いることを容認している。具体的に言えば、国際放射性防護委員会(ICRP)の基準に基づき(1)カレイ目の魚類、(2)カニ、(3)昆布科の海藻、の3種類の海産物を通じた内部被ばくを評価すれば是とする。そして影響評価に際して用いる濃縮係数(汚染された海水からどの程度の放射性物質が水産物に取り込まれるかの指標)については、「魚類の濃縮係数はデータが不足しており不確実である」(同83頁)と認めている。IAEAは「海産物の摂取が主な被ばく源となる」(同72頁) と認めながらも、不確実性の高い内部被ばく評価で合格を与えているのだ。
東京電力は、水産物を通じた内部被ばく評価に際してIAEA技術報告書(TRS―422)に示された濃縮係数を用いている。水産物からの内部被ばくを評価する際に要となるのがこの濃縮係数だ。しかし、技術報告書TRS―422(2004年時点)に示された濃縮係数は20年も昔の数字であることを考慮しないといけない。さらにTRS―422に示された濃縮係数の多くは、前版である1985年の技術報告書(TRS―247)から更新されていない。「多くの要素について、完全な更新はこれまでのところ不可能で、そのためTRS―247に掲載された値が依然として現時点での最良の推定値となっている」(TRS―422、29頁)とIAEAが認める。つまり、ほとんどの値が1985年時点の推定値なのだ。
汚染された海水からどの魚種にどの程度の濃度で放射性物質が濃縮されるのか、の知識は40年近くの間IAEAの基準の中で更新されていない。それでもこの基準に依拠して内部被ばく推定を行えば、「国際基準に合致した科学的な評価」ということになってしまうのだ。
セシウムやストロンチウムを総量でどれくらい放出するのかも分かっておらず、トリチウムの放出量すら粗い推定値しかない。こんな前提条件で科学的・客観的な環境影響評価ができるはずがないのだ。この「国際基準」そのものに相当の欠陥があると言わざるを得ない。
④「正当化」基準への適合は認められていない
重要な国際基準の一つについてはチェックすらされていない。この「包括報告書」のなかでIAEA自身が、安全基準の一つである「正当化(Justification)」について評価を放棄したことを認めている。「今回のIAEAの安全レビューの範囲には、海洋放出策について日本政府が行った正当化策の詳細に関する評価は含まれない」(同19頁)という。(詳しくは本誌8月号)
「正当化」とは「実施される行為によりもたらされる個人や社会の便益が、その行為による被害(社会的、経済的、環境的被害を含む)を上回ることを確認する」ことを求める基準(GSG―8)である。今回の場合で言えば「海洋放出により個人や社会が受ける便益は何か」「その便益は海洋放出によってもたらされる社会的、経済的被害を上回るものであるか」の確認と立証が求められる。この「正当化」基準に沿った評価が行われていないことについては内外の専門家から指摘がある。
これについて日本政府は「正当化」基準を考慮したと主張する。外務省の英文報告書(2023年7月31日)では「便益について、日本政府はALPS処理水の放出は2011年東日本大震災被災地の復興のために欠かせないものであると結論づけた。被害に関しては(中略)日本政府の考えでは海洋放出が環境や人々に否定的な影響を与える可能性は極めて低い」と述べる。
海洋放出が復興にどのように寄与して定量的にどんな便益をもたらすのか。風評被害や社会的影響も含めた害はどの程度になり、それを便益が上回るものなのか。IAEAの基準に沿った「正当化」が行われた形跡は全く見えない。
金科玉条のように振りかざされる「国際基準に合致」とは、こんな程度のことなのだ。
全文和訳を作らない政府とIAEA、内容を検証せず結論部だけ繰り返す報道機関ともに、このずさんな報告書の内容を国民から隠そうとしているようにしか見えない。
おまつ・りょう 1978年生まれ。 東大大学院人文社会系研究科修士課程修了。文科省長期留学生派遣制度でモスクワ大大学院留学後、通信社やシンクタンクでロシア・CIS地域、北東アジアのエネルギー問題を中心に経済調査・政策提言に従事。震災後は子ども被災者支援法の政府WGに参加。「廃炉制度研究会」主宰。