【武塙麻衣子】ゆうべ、酒場で②

【武塙麻衣子】ゆうべ、酒場で

武塙麻衣子 たけはな・まいこ

1980年神奈川県生まれ。作家。立教大文学部卒。2024年「酒場の君」(書肆侃侃房)で作家デビュー。「西高東低マンション」(講談社)発売中。2026年夏に「一角通り商店街のこと」(小学館)が発売予定。

※photo by Yusuke Nakanishi


二皿め 横浜・野毛「大黒屋」

肉豆腐を食べ歩くことにしたんだ、と話すとみんな一瞬ぽかんとしてそれから「なんかいいねえ」と答える。肉豆腐と聞いて人々の頭に浮かぶのはどんな一皿なのだろう。甘辛く煮しめてあってもあっさり透明な出汁で仕上げていても同じ名前。その輪郭はあまりに曖昧だ。味も形も様々なのにどれも確かに肉豆腐。

興味が湧いてまずは食べ歩くことに決め、では地元横浜で肉豆腐と言えばどこだろうと考えていたところ、友人があっさりと野毛に行けばいいじゃないと言った。まるで野毛に行けば食べられないものなど何ひとつないとでもいうように。

その日、みなとみらいの映画館で「落下音」を観た。北ドイツの農場を舞台に一九一○年代のアルマ、四○年代のエリカ、八○年代のアンゲリカ、現代のレンカという異なる時代を生きる少女たちを描いている。上映時間は一五五分とかなり長いけれど誰ひとり席を立たず、そればかりか客席で音をたてる人も少なかった。息をひそめて鍵穴やドアの隙間、カーテンの陰や天井の片隅から彼女たちの生活と喜びと悲しみを盗み見しているところを気づかれ、けれどそのことを責められるわけではなく、ただ射貫くように少女達がこちらを見つめ返してくるような映画だった。視線という暴力、女性であるというただそれだけでさらされる信じがたい事象へのトラウマ、時代は変わり人が消えてなおその場所に停滞し続ける重い記憶。どの時代を生きることも本当に苦しい。

だけど今、この世界はどうだろう。ここだってまもなく地獄になるのではないだろうか?

そんなことを思いながら映画館を後にして、桜木町へと歩く。ランドマークタワーを通り過ぎて汽車道を見下ろすと、その脇を散り始めた桜の花びらが強い風に舞っていき、その景色は映画の中で聴き続けたごうごうという音と混ざった。

私が歩くこの道の下にも確実にいくつもの記憶が眠っているのだ。進むのも、ひとところに留まることもとても恐ろしい気がした。ここを生きた人々に恥じないように生きなければ。ぶるると肩をふるわせ、桜木町駅を越え、通りを渡った先の大黒屋に向かう。四時。ちょうどかけられたばかりの暖簾は、くぐるためのものというよりも、店の呼吸がそのまま外に漏れているみたいに微かに揺れている。大黒屋は創業から六十年以上の老舗の大衆酒場である。とてもいい店だ。

「こんにちは」

中へ入ると、いらっしゃいませ、と一斉に声がかかる。カウンター席に通され、混み合うまでは隣の席に荷物を置いても大丈夫ですから、という言葉にほっとしながらメニューを見せていただく。

「赤星をください」

すぐにお通しのゴボウサラダと瓶ビールが運ばれてきて、それからまずは目当ての肉豆腐。そのあとは並んだ短冊をじっと眺めて生しらすをお願いした。目の前の棚には吉田類さんのサイン入りアクリルスタンドがビニールにくるまれて凜と立っている。類さんのアクスタ、いいなあ。開店からあっというまにお客さんがどんどんやって来て女性の二人組が小上がりに、仕事終わりらしい男性たちは二階席に向かった。ここは外国人の店員さんたちも活気がある。厨房から、そそっかしいねえという声が聞こえてきた。「まだ子どもよー」「なーにを三十路が」などと楽しそうに言い合う二人にこちらまでふふと笑ってしまう。

ゴボウサラダに少し七味唐辛子をかけていると、生しらすが運ばれてきた。いきなりお醤油をどっといってしまうのはもったいないほど透き通ってぷりぷりのしらすに添えられたおろし生姜をのせてひとくち。お皿の端に盛った塩を少しだけつけてもうひとくち。液体を加えないからなのか、ねっとりとしたまま喉まですべり落ちていくのが癖になって次々食べていると、ぐつぐつと湯気の上がる肉豆腐がやってきた。長年使い込まれたのであろう熱い陶板には、長ねぎ、しいたけ、豆腐と豚バラ肉、そしてたっぷりの三つ葉がのっていて最後に卵でとじてある豪華な一皿だ。れんげでお皿にとると甘いつゆの香りが漂ってきて、たっぷりあるはずの肉豆腐はたちまちお腹に消えていく。取り皿にとってもとっても残りが全部まだ自分の分というのは、すごいことだ。ひとり飲みはこれが楽しい。すき焼きを冷たい生卵につけるのとはまた違って火の通った卵のまろやかでふわふわした口当たりにはビールがどんどん進んでしまう。美味しくてすごいスピードで食べてしまった。豚バラの脂はほんのり甘い。

記憶が積み重なる場所

最後に、天ぷらを注文することにした。天ぷらの注文は一回までなのだ。気合いをいれてメニューを眺め、私が今回選んだ三品は小柱かき揚げ、れんこん、アスパラ。アスパラの天ぷらを食べると春が来たなあと思う。カレー塩をとっとっと振り、思いきり囓る。ぽきゅっという音が頭の中に響いて気持ちがよい。黒霧島のソーダ割りをお願いすると、すぐにレースを縁にあしらったマスクをつけた女性がグラスを持ってきてくれた。受け取り、ひとくち飲んでテーブルに置くと、隣にまだ彼女が立っている。

「どう? 焼酎濃くないかしら? ソーダもっと足す?」

「ちょうどいいです」

私が答えると、

「そう」

と、彼女が目尻を下げた。マスクのむこうで満面の笑みを浮かべているのがわかる。よかった。かき揚げは端から少しずつ崩して天つゆにつけたり、塩を振ったりして食べた。カウンターの中の白衣の男性はつけている帽子の後ろをきゅっと小さなバインダークリップでとめていて、それを見てふいに子どもの頃、アメリカのピザ店でもらった子ども用のサービスの帽子をああいう風にかぶったなあと思った。楽しかったかどうかは覚えていないけれど、白いぶかぶかの紙の帽子をかぶらされてあんな風にクリップで後頭部のあたりを止めた。なぜ急に子どもの頃の記憶なんて、と不思議な気持ちになり、それからさっき見た映画を思い出した。この店も六十年以上が経ち、やがてゆっくりと代替わりをしていくのだろう。先代の女将さんはあの椅子によく腰かけていたね。そういう小さな記憶をここで働く人も常連さんもずっと大事にするのだろうと思う。私はそこにぐつぐつと湯気あがる肉豆腐の思い出を添えたい。

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