任期満了に伴い12月14日告示、同21日投開票で行われる相馬市長選で、現職の立谷秀清市長(74)=6期=は今期限りで退任することを表明した。県内で初めて全国市長会長を務めた〝大物市長〟に、在職中の思い出などを聞いた。
災害・緊急対応に追われた24年間
立谷市長は市議会12月定例会初日(11月25日)の冒頭で、今期限りでの退任を正式に表明した。
立谷市長は1951年生まれ。福島県立医大医学部卒。1977年に内科医の医師免許を取得し、公立気仙沼総合病院(現気仙沼市立病院)で初研修、東北大学医学部附属病院(現東北大学病院)勤務を経て、地元に戻り、公立相馬病院(現公立相馬総合病院)に勤務した後、1983年に立谷内科医院開設、1986年に医療法人社団茶畑会を設立し、理事長就任。1995年から県議を1期務めた後、2001年の市長選で初当選した。現在6期目。2018年に全国市長会長に就任し、3期6年務めた。
退任に当たり、立谷市長は本誌取材に「長くやると、辞めるのも大変だね」と話した。
「社会資本整備を考える首長の会、地方を守る会、医系市長会など、私が設立に携わった組織が多くあります。ですから、その了解を取り付けるのが大変でした。『いま辞められたら困る』『まだできるでしょう』と言ってもらえて、ありがたいけど大変でした」(立谷市長)
それは積み上げてきたものと言えるが、一方で長く在職していれば、難しい場面に遭遇することも増える。実際、東日本大震災、二度の福島県沖地震、新型コロナウイルスの蔓延、水害などに見舞われた。
「私が在職していた24年間は常に緊張状態にあったような気がします。『困った』、『どうしよう』の連続で、いろいろと対策を講じて『何とかなった』という具合でした。就任直後は財政面での戦いでした。就任時は財政調整基金が約6億円しかありませんでした。それを様々な努力により約30億円に積み上げたタイミングで東日本大震災に見舞われました。災害が起きたら被災者救済のためにさまざまな支援を行いますが、国から補助金が措置されるまでには時間がかかります。とはいえ、被災者救済はそれを待っているわけにはいかないので、まずは自前の財源で対応しなければなりません。市民の皆さん、市議会議員、市職員、佐藤雄平前知事、内堀雅雄知事、国会議員の先生方、各省庁と、本当にいろいろな方に助けてもらって、何とか乗り切ることができました。その後の地震、水害、コロナ禍も同様で、何とか乗り切ったという印象です」
2つの嬉しかったこと
そんな中でも、「嬉しかったことが2つある」という。
1つは東北中央道の開通。相馬市を起点に、福島市、山形県米沢市、山形市などを経由して、秋田県横手市を終点とする延長約268㌔の高速道路。現時点で全体の9割ほどが開通しているが、福島県側は2021年4月に全線開通した。これにより、東北道―東北中央道―常磐道が結ばれた。相馬市から福島市までの所要時間は40分ほど短縮され、利便性の向上、企業活動の活性化、救急医療体制の強化(県立医大への輸送時間短縮)、広域観光・交流の拡大といったメリットがある。
立谷市長は「あれは本当に嬉しかった」としみじみ語った。
もう1つは、計画されていた復興住宅がすべて完成したとき。
「最後の復興住宅が完成したときは嬉しかったですね。復興というのは生活再建なんです。それで全てが解決したわけではありませんが、生活再建の基礎になる部分ができたわけですから」
そのうえで、こう続けた。
「嬉しかったのはこの2つですね。あとは本当に張り詰めて、余裕はありませんでした。この2年ほどは、災害などがなく落ち着いていますが、トラウマがありますから『いつ何が来るか分からない』という緊張は常にあります。ただ、それを辛いと思うこともありません。そう思っても何もならないので、常に緊張感を持っていました」
もう1つ、立谷市長を語るうえで欠かせないのが、県内で初めて全国市長会長を務めたこと。歴代の市長会長を見ると、当初は京都市長、名古屋市長、大阪市長、札幌市長などの大都市(政令指定都市)の市長が就くケースが多かった。昭和後期以降は、地方都市の市長が就くケースも増えていったが、いずれも県庁所在地、人口規模が10万人以上の都市の市長が就いていた。そんな中、人口3万人台の小規模都市の市長が全国市長会長に就くのは過去に例がない。その意義は大きかったと思われる。
市長会長時代の思い出
一方で、市長会長に就任直後、全国紙の記者から「人口3万人超の小さな街の市長が、人口300万人超の横浜市の市長の上に立っていいのか」といった質問を受けたこともあるという。
その時の立谷市長の回答は「小さいところは小さいところなりに、大きなところは大きなところなりに、それぞれ悩みと課題があります。そういう課題をすべてお聞きしながら、会長として務めていきます」というものだった。
そのほか、市長会長を務めた中で印象に残っていることを聞くと、次のように話した。
「会長就任と同時に、幼児教育無償化の議論が始まりました。幼児教育無償化はいいことですが、当初はその費用のかなりの部分を市町村が負担する内容でした。そこで、全国市長会では『国が決めたことですから、国の責任でやってもらわないと困る』ということで、全国の市長に『地元選出の国会議員に、国の責任で実施すべきと訴えてください』という通達を出しました。それで、いろいろ議論が進み、交付税で全額措置する案が出てきました。そうなると、不交付団体が黙っていないわけです。『立谷会長! 変なこと決めてくれるな!』とね。そこで、さらなる議論を重ねもともと幼稚園の補助金は国が3分の1だったところを国2分の1、県4分の1、市4分の1に制度改正されることになりました。そのうえで不交付団体の市長に『頑張ったけどこれが精一杯。なんとかこれで収めてほしい』と頭を下げて、『まあ、会長がそこまでやってくれたのなら』と納得してもらいました。あれは嬉しかったですね」
コロナ禍でも、市長会長、さらには内科医で病院理事長の立場から、ワクチン接種のあり方など、国に提言して実現に至った部分もあったという。
最後に今後について聞くと、立谷市長は「もう1つの名刺」を差し出してきた。そこには「相馬中央病院理事長」「臨床内科専門医」「糖尿病認定医」「日本医師会認定産業医」などの肩書きが並ぶ。
「臨床内科専門医、糖尿病認定医、認定産業医などは、ある程度活動したり、講習会に行ったり、ポイントを取らないと資格が維持できませんが、この間(市長在職中も)ずっと資格を維持してきました」
そう話し、「今後は医師として市民やお世話になった方々に恩返しをしたい」と締め括った。

























