いわき市鹿島地区にある商業施設「いわきエブリア」でテナント空白の状態が続き、開業した30年前の面影を失ったことに心を痛めている89歳の男性がいる。実は、エブリア開業の裏面を知る人物。70歳の時に書いた回顧録とインタビューを基に珍しかった地元主導型のSCに光を当てる。(肩書きは当時)
「仕掛け人」が語るハニーズ、平南開発両社長との思い出


本誌では、いわき市鹿島地区にあるショッピングセンター「鹿島ショッピングセンター エブリア(旧名)」の所有者が、市内の不動産会社平南開発から、分割や吸収合併を経て福島県内を中心にパチンコホールを展開する「つばめグループ」に移ったことを報じた(2022年10月号「いわき市鹿島エブリアを〝取得〟したつばめグループ」)。
その後、旧運営会社の鹿島ショッピングセンターと、新たに運営に乗り出したつばめグループの平南ホールディングスの間で家賃や敷金の返還を巡り協議がもつれた経緯があり、テナント誘致が難航していた問題を報じた(2024年7月号「いわきエブリア運営会社破産の真相」)
2025年7月号では、「相変わらず空洞化が続くエブリア 大規模テナントの誘致交渉が難航」と報じたように一貫して暗い現状がある。
2024年7月号の記事が分かりやすいので引用する。
《同施設は1995年10月開業。小名浜地区にあった2つのショッピングセンターの小売・飲食業59店舗と、市内のデベロッパー・平南開発が車社会に対応した商業施設を設けるべく開発したもの。キーテナントとして総合スーパー・ダイエーいわき店が入居した。
2005年にダイエーが撤退した後は、ヨークベニマルエブリア店やスーパースポーツゼビオいわき店が入居。専門店街には最盛期に約70のテナントが入っていた。
平地区と小名浜地区を結ぶ県道26号小名浜平線(通称鹿島街道)沿いに立地し、週末には多くの買い物客が訪れる。延べ床面積3万8122平方㍍、駐車場2000台。
現在の土地・建物の所有者は平南ホールディングス(禹竜太代表社員、本店=東京都中央区晴海。郡山市大町に移転との情報あり)。もともとは、建設時から計画に携わっていた平南開発の関連会社が所有者だったが、外資系投資会社が運営する全く無関係の会社に吸収合併され、現在の名称に変更された。
そんな同社の株を取得し、子会社化したのが、福島県などを中心にパチンコホールを展開する「つばめグループ」の中原商事(登記上の本店=東京都港区南青山、本部=郡山市大町)だ。1968年設立。資本金2300万円。代表取締役は禹竜太、禹泰浩の両氏(いずれも名字は中原を名乗っている)》
エブリアで空きテナントが続いている事態については、1990年代のいわきがSC激戦地であった背景と絡めてショッピングセンター研究家・ライターの坪川うた氏が東洋経済オンラインに執筆している
《前編:「売上低迷でダイエーが撤退」「近くに巨大イオンモール誕生、客を奪われる」…福島にある「やや廃墟なモール」衰退の背景》
《後編:「ダイエーが開業すぐに2度改装」「サティも早々にテナント入れ替え」…激戦地・いわきが「廃墟モールのある街」になった顛末》(いずれも2026年5月23日配信)
前編の「やや廃墟なモール」とはエブリアのこと。うまくいっていないSCとして負のイメージで語られがちなエブリアだが、開業に携わった市内在住の陽田善勝さん(89)は「先進的なSCだった」と再評価を求める。陽田さんは、看板職人として身を立て、鹿島町で看板製作会社を創業(現在閉業)。40年以上前は、買い物空白地帯だった鹿島地区にSCの必要性を説き、平南開発に開業を働きかけたという。

高齢のため、記憶がおぼつかない点があるが、2006年の69歳の時に書いた回顧録を基に話してくれた。
「鹿島ショッピングセンターは市民の血税は一銭たりとも使わず、平南開発の園部嘉男社長(2018年に死去)が約100億円を投じて立ち上げた当時としては画期的な大型商業施設でした」
一度は渋った園部・平南開発社長
今でこそ鹿島街道沿いは、ロードサイド型の店舗が並び車での買い物には困らないが、40年前は市内の核となる地区である平や小名浜の中間地点として取り残され、移動や買い物には不便な地区だったという。こんな例があった。
「子どもたちは目と鼻の先にある湯本高校に通う時に親が鹿島街道のバス停まで送り、バスで平駅(現いわき駅)に向かって電車で湯本駅まで行っていました」(陽田さん)
選挙運動を手伝い、地元鹿島地区の要望を聞き取る中で、住民から「買い物先がない」と切実な声が寄せられた。いつの選挙かは詳しく覚えていないというが、回顧録を紐解くと、「故中田武雄氏が市長を務めており、岩城光英氏が県議だった」とあるから、1986~90年と特定できる。
地元の事業経営者や農家らでつくるゴルフ会を基盤に賛同する仲間を募り、鹿島地区へのSCの必要性を説いていったという。
実現のためには、熱意だけでなく資本、そして人の上に立てる人物が必要だと考えた陽田さん。下地作りをして、最後には平南開発の園部嘉男氏の自宅を訪ねた。
「園部さんは『私以外の人に頼んでほしい』と渋っていました。平南開発としては、人口増を見込んで団地の造成を考えていたそうです」
陽田さんは、園部社長の地域愛に訴えたという。
「園部さんは鹿島に生まれ、鹿島で育ち、この鹿島の地に骨をうずめる人で人望もあるし、力もある。鹿島のために血の通った事業をするにあたっては園部さんを置いて他にはいない」
陽田さんは、「鹿島街道沿いは、車で移動して買い物をする時代になると商業地域として魅力があった。出店希望者が多くいたために奥行きのない虫食いの開発をされることを心配していた」と振り返る。
園部社長は、しばらく考えてから、「分かった」と言ってくれた。
こうして、園部社長を会長にSC開業に当たり地元の受け皿となる団体「いわき市鹿島町地域振興会」ができた。事務局長には陽田さんが就いた。他に、かしま病院院長、家具店の丸ほんホームセンター社長、レストランのメヒコ社長をはじめ、農家の代表や地元行政区長、元市議会議員など約60人で会を運営した。
渡りに船だった江尻・ハニーズ社長
予想外に鹿島ショッピングセンターの話は進まなかった。渡りに船だったのが、当時39歳だったハニーズの江尻義久社長との出会いだったという。陽田さんの記憶では、鹿島町の陽田さんのもとへ、江尻さんが訪ねてきたこう言った。
「相談したいことがあるのですが、実はこの鹿島に大型ショッピングセンターを考えているのでぜひ協力をいただきたい」
陽田さんは江尻社長を園部社長に引き合わせ、小名浜ショッピングセンターと小名浜名店街も加わり、江尻社長が運営会社の社長に就くことになった。開業4年前の『大型店計画総覧平成3年版』には、鹿島ショッピングセンター=エブリアについて、いわき市の小名浜ショッピング協同組合(斉藤英夫理事長)と小名浜名店街協同組合(渡辺憲一理事長)らが中心となって進めているとある。
「地元主導型のショッピングセンターを出店しようというもので、当初核には大黒屋、藤越のほか、マルトの出店も予定されていたが、現在、核店舗にはダイエーの出店が見込まれている」
陽田さんによると、当初江尻社長は地元主導型で、大黒屋、藤越、マルトといった小売業に説明会を開いていたが、折り合いがつかなかったという。
ダイエーを核店舗に1995年10月に開業したエブリアは、業界誌からは次のように捉えられていた。
「鹿島ショッピングセンターエブリア 地元商業者の生き残りをかけた『ノアの方舟』」(『商業界』1996年4月号)。
《地元商業者が共同出資する鹿島ショッピングセンター(江尻義久社長)によって運営・管理されるエブリアは、テナント数97店のうち90店が地元企業という、全国でも類を見ない地元型SCである》
《それにしても、テナントのほとんどが地元商業者というこの“団結ぶり”は、全国に数多くある地元主導型SCの中でも突出している》
同記事では、立地が平、小名浜、常磐の核となる3地区のそれぞれから適度に離れている点をもって、「既存店と自社競合もなく、出店に都合がよかった」と分析している。陽田さんら地元住民からすると、「誰も出店したがらない土地だったため自分たちでSCをつくった」と言いたいだろう。
エブリアの“方舟”たるゆえんとして、営業保証金貸付制度を挙げる。
《運営・管理会社の鹿島ショッピングセンターが希望者に対して、出店に必要な営業保証金の貸し付けを制度として実施したという点も見逃せない。“方舟”への乗船を望む者に対して、地元商業者が協力して手を差し出したのである。ちなみに小名浜名店街、小名浜SCからは4割弱の店が出店している》
“方舟”と形容されたように、エブリアの状況は開業当初から厳しかった。同年9月に開業した「いわきサティ」、翌1996年3月開業の長崎屋を核とする「ラパークいわき」など大規模大型店と戦わねばならなかった。2005年には核テナントのダイエーが撤退。震災後は小名浜にイオンモールが開業し客足は移った。陽田さんが説き伏せた形で開業に乗り出した平南開発は、つばめグループに身売りし、現在新たな運営者がテナントを埋めようと交渉を続けている。陽田さんは
「血税を一切使わず、鹿島の住民が血と汗と涙で必死に作り上げてきた結晶です。今は寂しい状況が続いていますが、地元主導で進めてきたSCの価値を再認識してほしい」

























