水産物卸売の老舗㈱福島丸公(福島市)は企業支援を手掛ける東京の上場会社の傘下に入った。M&Aはどのような経緯で行われたのか。そして業績回復に向けた展望は。創業家出身の新代表と同業他社から抜擢された新社長、そして代表取締役を退いた相談役にインタビューした。
【石本朗】相談役 & 【石本理恵】代表取締役 & 【吉田浩之】取締役社長

いしもと・りえ 1979年9月生まれ。福島市出身。桜の聖母短期大生活科学科卒業後、丸公食品㈱を経て、2013年に㈱福島丸公入社。16年に取締役、20年から副社長を務め、今年4月1日から現職。

よしだ・ひろゆき 1962年9月生まれ。仙台市出身。東北学院大経済学部卒。仙台魚類(仙台市)社長を務めた後、2025年9月に㈱福島丸公の執行役員社長代理に就任。今年4月1日から現職。

いしもと・あきら 1951年1月生まれ。福島市出身。専修大卒業後、㈱福島丸公入社。4月1日に代表取締役会長を退き相談役。福島市公設地方卸売市場協会会長を務める。
M&Aで大手の傘下入りを選ぶ企業は大別して2つある。業績が好調だが後継者が不在の企業。そして、業績が悪化し、再建に向けた支援を得るために傘下入りする企業。東日本大震災・福島第一原子力発電所事故により大きな影響を受けた水産物卸売の福島丸公(福島市)は後者だ。
買収したのは企業支援などを手掛ける東証スタンダード上場の「THE WHY HOW DO COMPANY(WHDC)」グループ。グループ会社㈱エバーオンワード(東京都・亀田信吾代表取締役社長)にほぼ100%の株式を譲渡する形でM&Aが成立した。
担当した創業家出身の石本理恵代表取締役(46)が経緯を明かす。

「金融機関など周囲に相談を重ねる中、WHDCに巡り合いました。同社は『人助けM&A』を掲げています。震災前、弊社の仕入れ先の6割はいわきでした。今の業績は震災と原発事故による水揚げ量減と風評被害の影響が大きいです。立ち行かなくなれば、仲卸、小売店を通じて食卓まで鮮魚を届ける福島市公設地方卸売市場への責任も果たせないという忸怩たる思いがありました。弊社を支援することはWHDCの方針に合うということで協議が始まりました」
今年2月、WHDCの田邊勝己代表取締役会長(65)と亀田信吾代表取締役社長が福島丸公本社を訪ね、石本代表、吉田浩之取締役社長(63)、現代表の父親である石本朗相談役(75)と協議した(※肩書は現在のもの)。吉田氏は昨年3月、水産物卸売の仙都魚類(仙台市)社長を辞任し、同9月に福島丸公の執行役員社長代理に就いていた。吉田氏は営業畑を歩んできた。
同時期には、仙都魚類から八巻英樹氏を迎えた。グループ会社・福島水産副社長を経て、今年4月に福島丸公取締役専務に就任した。吉田氏ら熟練を迎えての再建に、新たにWHDCのスポンサーが付いた形だ。
石本朗相談役がWHDC側との面談を振り返る。

「田邊会長と亀田社長には、経営が厳しい状態に陥った事情を理解していただきました。弊社の創業の歴史を評価してくださったようです。いわきの魚を主に取引していた弊社は、震災後にそれがゼロとなりました。現在は回復したとは言え、水揚げ量は震災・原発事故前の30%です。そのため地元いわきで消費し、福島市まで回ってくる量は少ないです。燃料高騰で、運送費が利益を上回ってしまいます」
「人助けM&A」とは言え、WHDCは営利企業、それも上場企業だ。支援する以上、最終的には株主に利益を還元しなければいけない。石本理恵代表は田邊会長たちに率直に、「なぜ福島丸公を支援しようと決めたのか」と聞いた。
「『判断の決め手となるのは結局人だ』と言われました。経験豊富な吉田社長と八巻専務がいることや経理担当者など細かく見て評価していただきました。福島市公設地方卸売市場の水産部に長年携わってきたことなど地域への影響を重要視してくれているのだと思っています。私は、福島丸公が業績を回復し、営業を続けることで市場を残さねばという気持ちでいます」(石本理恵代表)
業界を見渡すと、安定的な黒字化は厳しい。
「『業績回復まで時間はかかる』ということは大前提と共有しています。WHDCからは役員の派遣もなく、現経営陣の裁量でやらせてもらっています。こちらの自由を尊重してくれ、信頼されていると感じると同時に、地元企業としての責任、そしてグループ本社への責任を果たしていかねばならないと常々思っています」(同)
再建のために人員整理を行った。
「私たちはもちろん、田邊会長も断腸の思いでした。とても悩みましたが、やはり企業として黒字化していかなければならない目標があります」(同)
いわきの流通網で躍進
田邊会長からは「創業家がつないできた創業の精神を大事にしたい」と言われたという。
石本朗相談役が歴史を振り返る。
「亡き父から聞いた話です。石本家はいわきにルーツがあり、江戸時代に網元をしていたと聞いています。太平洋沿岸に流通ネットワークがあり、静岡の沼津で取れた魚の天日干しやシラス干し、ナマコなどを書状に記録し、見本をもって荷馬車を引いて、南は九十九里浜、北はいわきまで営業をしていたようです」
今のように損害保険や生命保険もない時代。漁船が難破して、夫や父親など働き手を失った家族を養う責任も負っていた。
「魚を商いにしてきたので目が利き、問屋に転身を図った。明治になると、いわきから県庁所在地の福島市に出てきて『大印』という屋号で今のパセオ通りの辺りに店を構えました」(石本相談役)
当時の最も速い交通機関は石炭で動く蒸気機関車。それでも漁港や加工地から身欠きニシンやマス、サケの塩蔵などが福島駅に届くのは、早くて午前9時ごろだったという。
「大印は好漁場があるいわきにネットワークを持っていたのでそこの鮮魚を自前で運んで福島市で売ることにしました。『世話になった恩を返そう』と、仲間たちがめいめい、いわきから福島市までの道に拠点を置いて、夜中に獲った魚を荷馬車のリレーでつなぎ、阿武隈高地を越えました」(同)
明治の終わりから大正の初め、いわきに流通網を持っていた大印は水揚げした魚を朝の5、6時には福島市に届け、8時には競りを行った。問屋、鮮魚店を通じ、昼の食卓にはその日に獲れた鮮魚が並んだ。当時、大印は新参者だったが勝ち残り、老舗の一つとなった。
戦時中は物価統制令の下、配給制に。丸公の「公」は「お上」を意味する公。各地の問屋が統合し、郡山、いわき、会津若松など主要都市に同名の「丸公海産物配給所」ができた。
戦後の混乱期を脱した1950年代には、物価統制令が解除され各店は分離し、元々の屋号で商売を始めたが、福島市の場合は「お上から与えられた名前。うちぐらいは丸公を継承しないわけにはいない」と「福島丸公」として、市内早稲町で営業した。1972(昭和47)年に福島中央卸売市場(現市公設地方卸売市場)に入場した。早稲町の事業所跡は商業施設や市営団地が入居した複合施設「ラヴィバレ一番丁」となり、福島丸公グループが所有・運営する。
石本朗氏は調整役に
日本の漁業、そして地方の卸売を取り巻く状況は厳しい。福島丸公の2023年3月期決算は売上高44億円に対し純利益2000万円の黒字を確保したものの、24年3月期純利益はマイナス3500万円、25年3月期純利益はマイナス1000万円と赤字が続いた。
石本朗相談役は、「魚の消費量が減っていることもあるが、弊社の場合、震災後に仕入れ量が減り、売る先がない問題もある」とする。
吉田社長は経営方針を語る。

「集荷と販売の両軸が盤石でないといけません。取引している小売店は多い。当社が培ってきた営業力を生かして、地元の鮮魚店やスーパーマーケットとの関係をより強固にし、再構築していきます」
消費者に向けて、取り揃える魚種の開拓も図る。
「集荷に関しては、どこでも扱っているようなメジャーなものだけを仕入れても埋没してしまいます。ただ、独自の仕入れルートで福島県内でも売れ筋になるコアな商品というのはあるんです。めぼしいものが複数あるので、地元から買うなり輸入するなりして質と数をそろえます。水道に例えるなら、蛇口の入り口を押さえることで、販売で優位に立っていきます」
力を入れる魚介類の種類については、例えば、魚食文化が発達している漁港近くでは美味で手頃な値段のため当たり前のように食べられているが、内陸地の福島市、県北地方ではあまり知られていない魚種が挙げられるという。
吉田社長は石本理恵代表との連携に期待を込める。
「相談役の背中を見て育ったためか、代表は的確な判断を下してくれ、『さすが創業家』と思う時があります。私は年も食っているし、何十年も社長を務められるわけではない。仕事の知恵と知識を代表と共有したい。それに続いて、若手も育っていくと思います」
「私も娘には負けていられないと張り合いが出る」と石本朗相談役。
石本朗相談役は、現在も福島市公設地方卸売市場協会の会長を務める。同市場は施設が老朽化し、再整備を控える。福島丸公の今後を新代表と新社長に託した今、公設市場再整備の調整に専念したいという。
「事業者や市民が将来こういう市場にしたいという思いを果たすために尽力していきたい」
状況は依然厳しいが業績回復の鍵はWHDCが見いだしたように、「人」と「公設地方卸売市場」にありそうだ。

























