ベストセラーとなったエッセー『九十歳。何がめでたい』(2016年)で知られる作家佐藤愛子さんが102歳で亡くなった。70年以上に及ぶ作家生活で、前半生に著した作品の多くは晩年の人気エッセーの後ろに陰る。その中に、二本松市が新興宗教団体を呼び込み、郷土のシンボル霞ヶ城に「エセ天守閣」を建造した騒動をユーモラスに描いた『あなない盛衰記』(1975年)がある。生前、同作を「自作の『好きな五篇』の一つ」に挙げていた佐藤さん。登場人物のモデルも作者も逝き、史実も創作物も忘れられる中で、作品の根底にある二本松への愛を探った。(小池航)
自選五篇に入る〝新興宗教 VS 共産市議〟ユーモア小説

佐藤愛子さんは二本松を舞台にしたユーモア小説『あなない盛衰記』(光文社、1975年)の「著者のことば」で執筆動機を語る。
《この物語は実録三分、フィクション七分で構成した。はじめこういう話が実際に二本松市であったということを聞いたとき、私は二本松の人々の、あまりに現代離れした素朴な騙されように笑いこけた。この話を書こうと思ったのは、それら素朴な人たちの、善意に満ちた損の物語に心惹かれたからである。私は得する人間よりも損する人間が好きなのである。
取材に当たって、二本松在住のいろいろな方にご協力いただいた。出来上がった作品に対して、それぞれご不満もあると思うが、私の二本松への愛情だけは受け取っていただけたと思う》
市内本町に実家がある杉澤秀明さん(63)は生前の父親からこの小説を紹介された。
「実家には佐藤愛子さんが二本松に来た時のサイン本があります。親父によると、登場人物には実在のモデルがいるそうです」
地元紙⑴や『二本松市史』⑵などを基に史実をたどる。
1957(昭和32)年11月、安積町(現郡山市安積町)の教育長が新興宗教「三五教」の信者たちを連れて菊人形開催中の霞ヶ城を視察した。教団は二本松町(当時)の有力者を通じて、石垣の上に天守閣の形をした天文台を建設したいと町に打診した。
三五教は、静岡県焼津市出身の中野與之助氏が1949(昭和24)年に開いた神道系の宗教。昭和30年代には、天の摂理、神の摂理を深く理解するために天体の神秘、宇宙の神秘を知ろうと全国各地に城付きの天文台を作ったが、各所で地域住民と摩擦を起こしていた⑶。
1957年はソビエト連邦が人類初の人工衛星打ち上げに成功したこともあり空前の天文ブームだった。城跡に見栄えする天守閣風の建物を造ることも流行していた。教団から打診を受けた二本松町の山田健二郎町長は、霞ヶ城公園に何か観光の目玉が欲しいという町民の世論を受けて、静岡県清水市にある教団本部を訪ねて天文台を視察。後に助役、市長となる石川信義総務課長も同行した。
天文台建設には問題が立ちはだかった。①宗教団体に自治体が財産を貸与する問題、②都市計画法による公園整備との関係、③霞ヶ城公園の史跡保存の関係、④町有財産である公園の管理問題など。これらの問題を解決するために、町は1957年12月2日の町議会臨時会に「町都市公園条例」案を提出し、議会は賛成多数で可決した。翌3日には中野教祖が二本松を訪れ、地鎮祭が行われるといった手の回しようだった。
議員たちも商工関係者も賛成し建設促進団体をつくった。ただ一人、共産党議員は反対。労働者からなる二本松地区労協をはじめ、若手商店主たちや仏教界も反対し町は二分した。
1958(昭和33)年1月、法律上の問題について国と折衝を重ねてきた山田町長は「天文台は教団が建てて町に寄付し、町が維持管理する」などの条件で諸問題が解決できるとの談話を発表。同年4月に完成したが、教団は町の寄付の求めにも応じず管理権も委譲しなかった。
二本松町は1958年10月1日に市制を施行した。初めて行われた翌年1月の市長選では、天文台問題が影響し、山田市長は告示日直前に立候補を表明した新人の宮下利一氏に7525票対8467票で敗れた。
同年、議会は「天文台対策特別委員会」を設置し、教団と山田前市長や石川助役を喚問した。教団側は「寄付約束は当時関係法規をくぐり抜けるための便法で、寄付する意思は最初からないし、約束しない」、市側は「寄付約束を文書化しなかったのは手落ちだが、中野教祖と山田前市長の間ではっきり寄付約束をした」と主張は平行線をたどった。
事態は進展せず、次頁年表のように市が1390万円で買い取って資料館にする形で解決を見た。天文台は1991(平成3)年に撤去された。
〝天守閣風〟天文台の記憶

霞ヶ城にほど近い宝泉院住職の中村俊明さん(65)は、小学生の時に父親に連れられて天文台の中に入った記憶があるという。
「がらんとして人はいなかった」
市内に住む70代男性は、小学生の時は城の石垣が遊び場だった。
「天文台には友達と何回か行きました。50円くらい入場料を取ったと思います。城内に三五教の道場もあったはず。近所に信者たちが住んでいたそうですが、自然消滅的にいなくなりました」
本宮市の遠藤嘉一さん(71)は小学生の時、家族や二本松の親戚と一緒に城内で行われる菊人形を見た際に天文台に寄った。
「小学生の弟を連れていたので私は10歳ほど、つまり1965年くらいでしょうか。お金を払って望遠鏡で太陽の黒点を見た記憶があります」
遠藤さんは土木業に従事し、文化財石垣保存技術協議会(事務局・兵庫県姫路市)所属の技能会員として霞ヶ城の石垣保存工事に携わった。若い時に仕事で市内の岳温泉を訪れた時、三五教の道場があることに気づいた。「城近くにいた信者が移ったのか」と考えたという。
騒動から約15年後、小説の題材にと構想したのが佐藤愛子さんだった。佐藤さんは、夫の会社が破産して多額の借金を背負い、返済のために奮闘した経験を基に「戦いすんで日が暮れて」を執筆して1969(昭和44)年に直木賞を受賞した。五十の坂を前に、流行作家としての実力を確かなものにしていた。1972(昭和47)年には、
「来年は福島県で取材した新興宗教と土地の人の間でおきるユーモラスなできごとを作品化する予定」であることを明かし、こう語った。
「結局、私の中にそうした素朴な姿を望むものがあるんですね。生活のチエのない人間だから、東京のような所にいると、無性にそういう素朴さにひかれ、近づきたくなるんですよ」⑷
二本松出身のタクシー運転手
佐藤さんは東京でよく利用していた二本松出身の個人タクシー運転手から聞いて騒動を知った。経緯は集英社文庫版『あなない盛衰記』(1982年)あとがきが詳しい。月刊小説誌『小説宝石』(光文社)の担当編集者に相談し、1974年ごろ、取材のため二本松に通った。作品にも登場する地元の新聞記者を足掛かりに、反対派の共産党市議、若手商店主たち、そして誘致に動いた元議長夫妻ら地元の有力者たちを訪ね交流を深めた。
小説は同誌1974年8~11月号に「霞ヶ城あなない合戦」の題名で4回に分けて連載された。市内の書店では発売直後にもかかわらず軒並み売り切れだったという⑸。
前出の住職中村さんは学生時代、発売されたばかりの文庫版を市内の書店で買って読んだ。
「騒動の時は生まれていなかったので、小説を読んで『そういうことがあったのか』と驚きました。推進派、反対派のやり取りが軽妙な筆致で面白おかしく描かれているので純粋に小説として楽しめました」
一方、前出の70代男性は、
「二本松が悪く描かれているので途中で読むのをやめました」
天文台騒動は外聞が悪く、小説にされて心穏やかではなかったのだろう。ただ一人議会で建設に猛反対し続けた共産党市議のモデルとなった人物は、自身がモデルだと公言していた。三浦喜久治さん(1921―2014)。同じく大正生まれの佐藤さんとの交流は長きに渡った。三浦さんの自伝には佐藤さんが序文を寄せている。
《その闊達な人柄に接した私は、帰路、はや三浦さんを主人公にしてこの小説を書くという構想をふくらませたのであった。
小説は「あなない盛衰記」というタイトルで発表した。私としては自作の「好きな五篇」のうちの一つである。三浦さんとのつき合いはその時に始まり今日に到っている》⑹
善意に満ちた損の物語
小説で「騙された側」として描かれている議員や商工関係者との交流も深かった。佐藤さんは二本松商工会議所婦人部結成の際に講演し、約100人が参加した。その折、死没していた元議長の自宅を訪ね霊前に線香を供えた。夫人は佐藤さんの手を握り涙を流して喜んだという。
同商工会議所会館設立10周年記念事業では、2回目となる講演を行い、約200人が聞いた。元議長夫人も鬼籍に入り、佐藤さんは墓前に手を合わせた。おそらく同時期と思われるが、1986(昭和61)年7月31日に霞ヶ城前のレストラン「かすみ」で三浦さんたち関係者が佐藤さんを囲む写真が残っている⑹。
生前のインタビューで佐藤さんは、「思えば、いつも分からないことだらけの人間の不可解さを描いていた。その根底には、人間を愛したいという願望があった気がする。もっと愛したいから深く掘っていくんです」と語っていた⑺。
自身も夫の借金を背負いこみ、憤怒と豪胆さでもって悲劇をユーモアあふれる小説にした。
「(あなない盛衰記を書いたのは)素朴な人たちの、善意に満ちた損の物語に心惹かれたからである。私は得する人間よりも損する人間が好きなのである」
どれだけ滑稽に描かれようが、佐藤さんが二本松の人々に抱いた愛情は嘘ではない。
◇
佐藤愛子さんは4月29日、102歳で亡くなりました。
脚注
⑴『福島中央新報』(1957年11月~1958年4月)
⑵『二本松市史第2巻 近代・現代 通史編』、佐藤友治「三五教天文台問題」(二本松市、2002年)
⑶上之郷利昭『教祖誕生』(新潮社、1987年)
⑷「朝日新聞」1972年10月30日付
⑸大野和興「特集ルポ 神様も工場も来たけれど ある農村都市の自治物語」、『地上』1974年10月号(家の光協会)
⑹三浦喜久治『アカ・国賊の家に育って いま革新の大道をゆく』(1995年)
⑺「産経新聞」2026年5月16日付『あなない盛衰記』(集英社文庫、1982年)表紙の著作権者に心当たりがある方は本誌までご連絡ください。
霞ヶ城の天文台騒動と小説『あなない盛衰記』を巡る経緯
1948(昭和23)年 霞ヶ城一帯が県立公園に指定
1955年(昭和30)年
1月1日 1町5村が合併し二本松町誕生
2月10日 町長選で山田健二郎氏が現職を破る
1957(昭和32)年 10月4日 ソ連が人類初の人工衛星「スプートニク1号」打ち上げに成功
10月15日 霞ヶ城一帯、都市公園法の指定区域に
11月13、14日 教団信者らが霞ヶ城を視察
11月23~27日 山田町長と石川信義総務課長が静岡県清水市の教団本部と天文台を視察
11月29日 町議会協議会で天文台誘致を説明
12月2日 町議会臨時会で天文台建設を可能とする町都市公園条例案を可決
12月3日 教祖ら15人が来町し霞ヶ城を視察。県内の信者約100人が参じる。天文台建設が突貫工事で開始
12月7日 二本松仏教和合会が反対決議
12月9日 反対する二本松地区労協、二本松青年会主催の「町政を聴く会」
12月16日 議員団が静岡県沼津市の教団天文台を視察
1958(昭和33)年
1月13日 都市公園法への抵触を巡り建設省と折衝していた山田町長が帰町し、町が天文台を管理する解決案を明かす
1月31日 ソ連の人工衛星に対抗して米国が初の人工衛星「エクスプローラー1号」打ち上げに成功
3月中旬 県文化財保護委員会が考証に耐えられない「天守閣風天文台」に反対意見
4月25日 天文台が完成し祝賀会
4月27日 町賛助の桜祭りに合わせて「三五教天文まつり」を開催
10月1日 市制施行
1959(昭和34)年
1月31日 市長選で山田市長が新人に敗れる
同年 議会が天文台対策特別委員会設置
1961(昭和36)年
12月 宮下利一市長が健康上の理由で辞任
1962(昭和37)年
1月26日 市長選で前助役の石川信義氏が3候補を退けて大勝
1965(昭和40)年
12月2日 市長と市議会に向けて「二本松現代問題研究会」が公開質問状
1966(昭和41)年
5月 議会が質問状に回答
1971(昭和47)年
11月 市長の諮問機関「天文台に関する審議会」が天文台の買収が適当と答申。12月末に契約
同年ごろ 佐藤愛子さんが騒動の小説化を構想
1974(昭和49)年
8~11月 『小説宝石』(光文社)に「霞ヶ城あなない合戦」連載。惹句は「構想3年」
1975(昭和50)年
7月20日 『あなない盛衰記』(光文社)刊行
1977(昭和52)年ごろ 佐藤愛子さんが二本松で講演会
1981(昭和56)年
8月10日 『あなない盛衰記』を光風社出版刊行
1982(昭和57)年
10月25日 集英社文庫『あなない盛衰記』刊行
1984(昭和59)年 市のアンケート調査で市民多数が「天文台を撤去すべき」と回答
1986(昭和61)年ごろ 佐藤愛子さん、二本松で2回目の講演
1987(昭和62)
1月 霞ヶ城公園総合整備計画策定懇話会が天文台の撤去方針を示す
1991(平成3)年
1月 天文台取り壊し、3月に全面撤去

























