1974~75年に起きた連続企業爆破事件で指名手配中の過激派組織「東アジア反日武装戦線」メンバー、桐島聡(70)を名乗る男が突然現れ、1月29日に神奈川県鎌倉市の病院で死亡した。同一人物とみられ、49年に及ぶ逃亡の間、偽名をかたり工務店に住み込みで働いていた。
【桐島聡】の犯行に影響を与える!?
桐島と同じように過激派に加わり、「爆弾作りの名人」と言われ、いまも行方をくらましている男がいる。その名は梅内恒夫。生きていれば76歳ぐらい。県立福島医大の医学生だった。
青森県八戸市出身で、八戸高校卒業後、県立福島医大に進学し空手と学生運動にのめり込む。当時、全国の医学部では、研修医を無給でこき使うインターン制に反対する闘争が起こっており、県立福島医大にも波及。一部の学生が国家試験をボイコットした。
以下は山本徹美「爆弾魔・梅内恒夫のまぼろし」(『文芸春秋』1995年3月号)による。梅内は弘前大、東北大などの国立大医学部を受験したが失敗し、不本意ながら公立大に進まざるを得なかったという。
「自尊心の強い彼にしてみれば屈辱的な現実だったと思います。そのコンプレックスが、空手や学生運動に向かわせたのではないか。学生運動の闘士は時代の花形でしたから」(開業医をしている高校の同級生の話)
1968年10月21日の国際反戦デーに都内各地で学生と機動隊が衝突した「新宿騒乱事件」に参加した。梅内は当時赤坂にあった防衛庁本庁舎に突入、逮捕された214人の1人だった。凶器準備集合罪と公務執行妨害罪で起訴されたが、保釈中に逃亡したため時効は継続中。ただし、自首しても罰金程度だ。
保釈後、それまでの党派を離れ赤軍派に移る。赤軍派は連合赤軍となり、仲間内で死ぬまでリンチを繰り広げた「山岳ベース事件」や、人質を取り銃を撃って立てこもった「あさま山荘事件」を起こすが、梅内はそれ以前に離脱していた。
「爆弾魔」と注目されたのは二つの事件より前の1970年11月に赤軍派53人が山梨県の大菩薩峠で大量検挙された時だ。押収した鉄パイプ爆弾の製造ルートを洗っていくうちに梅内にたどり着いた。裁判記録によると、梅内は県立福島医大や弘前市で鉄パイプ爆弾を製造し、仲間を通じて都内に送っていた。
梅内は爆発物取締罰則違反(製造、所持)容疑で全国に指名手配される。爆弾の威力は弱く使える代物ではなかったが、警察やマスコミが梅内を過大評価し、爆弾魔の印象が付いた。桐島聡と同じようにポスターが至る所に張られた。同容疑は1978年1月9日に時効を迎え、公開手配から外れた。
桐島聡とみられる男は名乗り出て死んだ。梅内はいまどうしているのか。当時を知るジャーナリストは「赤軍派が毛沢東を信奉する京浜安保共闘と接近して連合赤軍となり、思想面で袂を分かったと聞いた。赤軍派が銀行強盗に手を染めたことで行動の上でも対立した。ブラジルに渡った説を聞いたが信憑性は分からない。桐島のようには名乗り出ないだろう」。
著述業の三木武司が『連合赤軍の時代』(彩流社、2021年)に記したところによると、2012年11月に三木が元連合赤軍の植垣康博から聞いた話として、梅内は大阪でひも暮らしをしているという。
前掲・山本の記事では「爆弾を赤軍派の一医学生が作ってみせた。性能はどうであれ、最初に作ったところに意義があるんです。それだけで梅内は偶像化され、崇拝される存在でした」と元活動家の声を紹介している。梅内の爆弾は、巡り巡って桐島聡が所属した組織の「爆弾闘争」につながる。8人が死亡し380人をけがさせた手段を生み出した罪は重い。(敬称略)