東京電力福島第一原発にたまる「汚染水」の海洋放出が始まり、対抗措置として中国が日本産水産物の輸入を停止した。こうした状況で水産業の救済策として始まったのが「食べて応援」キャンペーンである。どこもかしこも「魚を食べよう」ばかり。挙句の果てには「魚を食べて中国に勝とう」という言説まで出てきた。「戦前回帰」したくないならば、問題の本質を冷静に見極めなければいけない。
「关于全面暂停进口日本水产品的公告(日本産水産物の輸入全面停止に関するお知らせ)」
汚染水(政府は「ALPS処理水」と呼ぶ)の海洋放出が始まった8月24日、中国の税関当局がこう発表した。放射能汚染のリスクを防ぎ、消費者の健康と食品の安全を確保するためだという。同様に香港も、福島や東京をはじめとした10都県からの水産物輸入を禁止した。 国・地域別の水産物輸出額(2022年)を見ると、第1位が中国の871億円、2位が香港の755億円だ。両者が輸出額全体の約4割を占める。そんなお得意様との取引が、この日を境に露と消えてしまった。
大方の予想通り(「想定外」などと語った閣僚もいたが)、海洋放出は国内の水産業に大きな痛手となった。
どこもかしこも 「食べて応援」ばかり
この状況を打開するため、日本政府が力を入れているのが「食べて応援」キャンペーンである。先頭を走るのは海洋放出について「全責任を持つ」と豪語した岸田文雄首相だ。8月31日には東京・豊洲市場を視察。仲卸業者らと話してこの問題に関心を持っていることをアピールした。また前日の30日にはX(旧ツイッター)の首相官邸アカウントからこんな動画を発信した(写真参照)。
――首相が西村康稔経産相や鈴木俊一財務相らと食卓を囲む。食膳に並ぶのは、ヒラメ、スズキ、タコなどの福島県産食材。刺身かなにかを口に入れた首相が、ややわざとらしく言う。「おいしいです!」
キャンペーンは全国的な広がりを見せている。野村哲郎農林水産相(当時)は各省庁の食堂に国産水産物のメニューを追加するよう要請。浜田靖一防衛相(同)は自衛隊の駐屯地や基地で国産の魚を使う方針を示した。東京の小池百合子氏、大阪の吉村洋文氏、愛知の大村秀章氏……。各地の知事たちも競って常磐ものを食べ、その姿をメディアに報じさせた。
経済界もこの流れに乗っている。「財界総理」とも言われる経団連会長の十倉雅和氏は、9月上旬の記者会見で「中国の対応は極めて遺憾だ」と発言。全会員企業に対して社員食堂や社内外での会合時に国産水産品を活用するよう呼びかけた(経団連ホームページから引用)。日本商工会議所も東京・帝国ホテルで開いた懇親会で福島の魚を使った料理を出し、消費拡大PRに一役買った。
官民合同の「食べて応援」キャンペーンは自然発生的なものではない。下地作りには国の予算が使われている。「魅力発見!三陸・常磐ものネットワーク」という事業がある。産業界や全国の自治体に同ネットワークへの参加を募り、社員食堂や社屋に出入りするキッチンカーなどで三陸・常磐ものの食材を扱うように促すものだ。
この事業、経産省が海洋放出に伴う需要対策基金を使ってJR東日本企画に委託している。2023年度の委託額上限は1億7000万円である。同ネットワークのホームページによると、参加企業・団体数は10月16日現在で1090者(うち一部を表に掲載した)。「原子力ムラ」ならぬ「海洋放出ムラ」が形成されたと感じるのは筆者だけだろうか。
【「魅力発見!三陸・常磐ものネットワーク」参加企業・団体の例】
・自治体 |
愛知県、青森県、茨城県、岩手県、大阪府、神奈川県、埼玉県、千葉県、東京都、長野県、兵庫県、福島県、宮城県、石巻市、いわき市、大阪市、桐生市、さいたま市、塩竃市、南あわじ市、宮古市、矢板市、女川町 |
・企業等 |
IHI、旭化成、ENEOS、沖縄電力、鹿島建設、関西電力、九州電力、共同通信社(一般社団法人)、産経新聞社、JTB、四国電力、セブン&アイ・ホールディングス、中国電力、中部電力、電気事業連合会、東レ、東京電力ホールディングス、東邦銀行、東北電力、トヨタ自動車、日本経団連、日本原子力研究開発機構(JAEA)、日本原子力産業協会、日本原子力発電、日本原燃、東日本旅客鉄道、福島イノベーション・コースト構想推進機構、福島県漁連、福島民報社、福島民友新聞社、北陸電力、北海道電力 |
・政府機関等 |
外務省、カジノ管理委員会事務局、環境省、金融庁、宮内庁、経済産業省、警察庁、原子力規制庁、原子力損害賠償・廃炉等支援機構(NDF)、公正取引委員会、厚生労働省、国土交通省、財務省、消費者庁、人事院、総務省、内閣官房、内閣府、農林水産省、復興庁、防衛省、法務省、文部科学省 |
言論統制の流れもできつつあるようだ。「汚染」という言葉を使うと大バッシングを受ける事態になっている。象徴的だったのは、水産業支援の前面に立つべき野村農水相による「失言」問題である。野村氏は8月末、「ALPS処理水」ではなく「汚染水」という言葉を使ったことが報じられた。直後に岸田首相が発言の撤回と謝罪を指示。野村氏はこれに従い、しかも翌月の内閣改造で大臣職を退任させられた。
海洋放出に反対している共産党でも気になる動きがあった。同党の元地方議員(広島県内)がXへの投稿で「汚染魚」という表現を使った。党もこれを問題視。この元議員は党公認での次期衆院選への立候補を取りやめた。確かによくない表現だが、やや過剰な反応のようにも思える。右を向いても左を向いても「食べて応援」ばかりの異様なムードになっている。
政府は9月4日、「水産業を守る政策パッケージ」と題した、中国の輸入規制への対抗策をまとめた。この中にも「食べて応援」が入っている。
政策の柱は、①「国内消費拡大・生産持続」、②「風評影響への対応」、③「輸出先の転換」、④「国内加工体制の強化」、⑤「迅速かつ丁寧な賠償」の5つだ。数字の順番から言えば①の「国内消費拡大・生産持続」が特に期待されていると考えていいだろう。その①の内容として最初に挙げられているのが、「国内消費拡大に向けた国民運動の展開」である。
要するに「食べて応援」を国民運動のレベルに高めようというものだ。具体策として挙げられているのは、「ふるさと納税」を活用した取り組みである。ふるさと納税で寄付を受けた自治体は、返礼として地域の特産品を贈る。海洋放出後、県内漁業の拠点であるいわき市にふるさと納税し、海の幸を返礼品としてもらう人が増えた。水産業の衰退を心配した市民一人一人の自発的な行為だったと考えられる。
日本政府はこうした市民の心情に便乗し、これを「国民運動」として推し進めようとしているのだ。
経産省によると、他には学校給食で国産の魚介類を使うことなどが「国民運動」に該当するという。
「魚を食べて中国に勝とう」
政府が「食べて応援」を「国民運動」に祭り上げたタイミングで世に出たのが、こんな新聞広告である。
《日本の魚を食べて中国に勝とう》
この意見広告を出したのは「国家基本問題研究所」という団体である。保守派の論客として知られるジャーナリストの櫻井よしこ氏が理事長を務めている。櫻井氏は中国脅威論を根拠として日本の軍事力強化などを主張している人物。同氏の写真の横には、こんな主張が書いてあった。
《おいしい日本の水産物を食べて、中国の横暴に打ち勝ちましょう。(中略)中国と香港への日本の水産物輸出は年間約1600億円です。私たち一人ひとりがいつもより1000円ちょっと多く福島や日本各地の魚や貝を食べれば、日本の人口約1億2000万人で当面の損害1600億円がカバーできます。安全で美味。沢山食べて、栄養をつけて、明るい笑顔で中国に打ち勝つ。早速今日からでも始めましょう》
苦境に陥った水産業者を支えたいという気持ちは理解できる。また、海洋放出の直後、原発とは関係ない公共施設などに対して、中国の国番号(86)から抗議の電話が殺到したという出来事もあった。県内の飲食店なども迷惑を被ったという。これらの行為はよくない。だが、そうしたことを考慮しても、隣国を過度に敵視する言説には全く賛同できない。
「新しい戦前」は海洋放出から?
思い出すのは日本がアジア太平洋戦争を起こした頃のことだ。1937年の日中戦争をきっかけに、国民の戦意高揚をはかり、最大限の国力を戦争に注ぎ込むための「国民精神総動員運動」が始まった。
街中には「ぜいたくは敵だ!」「欲しがりません。勝つまでは」などの標語が掲げられた。食料不足を防ぐため、「何がなんでもカボチャを作れ」というポスターまで作られた。戦争に反対する人や協力的でない人は「非国民」と呼ばれた。
同じようなことが今起きていると筆者は感じる。マスメディアの報道やSNSは「食べて応援!」「STOP風評被害」というメッセージであふれかえっている。一方、政府の言う「ALPS処理水」を「汚染水」と呼んだだけで「非国民だ!」と非難されるような現状もある。
大物芸能人のタモリ氏は昨年末、「来年はどんな年になるでしょう?」と問われた時に「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と答えた。海洋放出をめぐる中国とのやりとりや日本国内のムードを眺めた時、タモリ氏の言葉が急速に現実味を帯びてくる。
ここは原点に戻って考えたい。自主的な「買って応援」を否定するつもりはないが、大々的にやればやるほど本質を覆い隠してしまう。今回の水産業者の苦悩を引き起こしたのは一体誰だろうか? 魚の輸入を停止した中国政府だろうか? いや、違う。そもそもの原因を作ったのは、日本政府と東京電力だ。原発事故を起こし、その後、時の首相が「アンダーコントロール(制御されている)」などと言っておきながら汚染水の発生を食い止めることができず、挙句の果てに海洋放出してしまった。しかも隣国の理解を十分に得ないまま強行したため、国内の水産業に深刻な事態を招いた。
本来批判されるべきは日本政府と東電だ。私たち市民は問題の本質を冷静に見極めなければいけない。
まきうち・しょうへい。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。現在はフリー記者として福島を拠点に取材・執筆中。著書に『過労死 その仕事、命より大切ですか』、『「れいわ現象」の正体』(ともにポプラ社)。