大義なき海洋放出【牧内昇平】

大義なき海洋放出【牧内昇平】福島第一原発のタンク群(今年1月、代表撮影)

 8月24日、政府と東京電力は福島第一原発にたまる汚染水の海洋放出を始めた。約束を守らず、急いで流す必要はなく、代替案を検討する余地もあった。筆者は「大義なき海洋放出」だと思っている。反対する人びとは直前まで街頭で声を上げ、中止や再検討を求め続けていた。直前1週間の取材日記を紹介する。

反対派の声でつづる直前1週間

 【8月17日】

 午後2時、国会の衆議院第一議員会館。国際環境NGOのFOEジャパンらが経済産業省や東電の担当者と面会した。同団体の事務局長、満田夏花氏が険しい表情で切り出す。

 「原子力市民委員会はかねてからモルタル固化処分を提案していますが、反論として挙げられている水和熱の発生は分割固化、水和熱抑制剤投入で容易に対応できると考えられますが、いかがですか」

 福島市内の自宅にいた筆者はオンラインでこの会合を視聴した。淡い期待を抱いていた。海洋放出の代替案が議題の一つだったからだ。汚染水を「すすんで海に捨てたい」と言う人はいないだろう。可能な限り他の選択肢を検討すべきだ。マスメディアはほとんど報じないが、海洋放出の他にも汚染水処分のアイデアはある。有力なのが大学教授やプラントエンジニアらが参加する「原子力市民委員会」による「モルタル固化による『半地下』埋設」案である。

 コンクリートやモルタルが固まる時には材料の水とセメントが反応して水和熱が生じる。発熱時に水分の蒸発が増え、水に含まれているトリチウムも大気中に出ていってしまう。経産省が汚染水の処分方法を検討した「ALPS処理水の取扱いに関する小委員会」では、水和熱が固化案の課題の一つとされた。「抑制剤を入れれば蒸発量は少ない」という満田氏の指摘に対し、東電はこう答えた。

 東電の担当者「固化時の水分蒸発のみが課題ではございません。また、ご指摘の水和熱の発生に対応できたとしても、水分の蒸発がなくなるわけではなく、ご提案のような方法が根本的な解決にはならないと考えています」

 この説明に対して原子力市民委員会に所属するプラント技術者、川井康郎氏が反論した。

 「たしかに水和熱は発生します。ただ、あくまでも混ぜ始めて数日間、20~30度の温度上昇です。抑制剤を使えば影響は些末です。水分の蒸発がゼロにはなりませんが、含まれるトリチウムは極めて少ないと断言できます。対して海洋放出というのは、タンクにたまる約800兆ベクレルのトリチウムを100%海に放出するんですよね。その際のトリチウムの量と、固化時の水分蒸発にわずかに溶け込んだトリチウムの量。これを比較することは全くできないと思います。それを同じ土俵で考えてモルタル固化案を否定するのは技術的な考え方ではありません」

 満田氏「水分の蒸発量を東電では試算しているのでしょうか?」

 東電の担当者「ちょっと今、その情報を持ち合わせていません。20年に小委員会報告書が出されていて、そこでは地下埋設という処分方法については《規制的、技術的、時間的な観点から課題が多い》と書かれていたと認識しております」

 筆者は驚いた。蒸発量のデータを持たないまま、「水分が蒸発するからダメ」と説明していたことが判明したからだ。市民側の追及は続く。

 満田氏「小委員会などで議論されていたのは『地下』埋設です。原子力市民委員会が提案しているのは『半地下』案です。モニタリングが難しいとか、費用がかかるとか、地下埋設の弱点を改善した案なんです。それについて一顧だにせず、公の場で議論してきませんでした。にもかかわらず『すでに議論したからいいんだ』という感じで却下されるというのはいかがなものかと思います」

 東電の担当者「我々としては報告書の結果を受けて海洋放出が政府の方針として決められて、それに基づいて行っているというところです」

 東電の言い分としては「政府の方針に従っているだけだ」ということ。これはこれで正しい。説明責任は日本政府にある。

 満田氏「経産省さんはいかがでしょうか」

 経産省の担当者「ええと……処分方法の決定にあたっては6年以上、トリチウム水タスクフォースやALPS小委員会で議論がなされていたところであります……」

 経産省からの回答はこれだけだった。これには市民委員会のメンバーで、かつて原発の設計にたずさわっていた後藤政志氏が怒った。

 後藤氏「小委員会で専門家が技術的な検討を重ねたと言いますが、皆さんからの疑問に対して正面から答えられないような、そんな委員会であるならば存在価値がない!」

 経産省からは何の反論もない。筆者はため息をついてパソコンを閉じた。真摯な議論が聞けると思ったのに期待を裏切られたからだ。この日の会合取材ではっきりしたのは、経産省も東電も代替案をまじめに考えていないことだ。FOEジャパンは事前に質問状を渡していたという。回答を準備する時間はあったはずだ。代替案が検討されないまま、海洋放出が唯一の選択肢であるかのように事態は進んでゆく。

 午後5時半、岸田首相は日米韓首脳会談に出席するため、政府専用機で米国に向かった。 

首相官邸前に市民が集結

海洋放出反対のボードを掲げる首相官邸前アクションの参加者(8月18日、牧内昇平撮影)
海洋放出反対のボードを掲げる首相官邸前アクションの参加者(8月18日、牧内昇平撮影)

 【8月18日】

 筆者は新幹線に乗って東京へ。午前10時、東京都千代田区の首相官邸前には200人を優に超える市民たちが集まっていた。うだるような暑さの中、横断幕やプラカードを掲げる。

 《約束を守れ!》《安全な陸上で保管できる》《福島は怒っている 汚染水ながすな》

 海洋放出に反対する市民グループ「これ以上海を汚すな!市民会議」(これ海)と「さようなら原発1000万人アクション実行委員会」が主催した首相官邸前アクションだ。三春町の武藤類子さんがマイクを握った。

 「今日岸田首相は日米韓首脳会談のためにアメリカに行っています。しかし、岸田首相が聞くべき声はバイデン大統領やユン大統領の意向ではありません。聞くべきは漁業者をはじめとする原発事故の被害者、国内の市民の声、そして海でつながる他の国々の市民の声だと思います」

 その通りだ。続いて「これ海」共同代表、いわき市の佐藤和良さんがスピーチを行う。

 「全国の漁業者が一丸となって反対し続けているではありませんか。そしてまた福島県民はじめ多くの原発事故被害者が、この放射性液体廃棄物の海洋投棄に反対しているんです。東日本大震災で塗炭の苦しみを味わって12年、ここまできました。沿岸漁業もようやく震災前2割の水揚げに至ったばかりです。ここで汚染水を流されたら生業が成り立ちません。会津には『什の掟(じゅうのおきて)』というものがあります。『ならぬことはならぬものです。嘘を言うことはなりませぬ』。岸田首相にこの言葉を贈ります!」

 参加者たちは炎天下の官邸前から参議院議員会館に移動し、集会を続けた。急に冷房が効いた場所へ入り、汗で濡れたシャツが冷たくなる。いわき市の米山努さんが話した。時折涙ぐんでいる。米山さんはかつて筆者に、「海洋放出は福島県民にとって末代への恥だ」と指摘していた。放出が間近に迫り、胸が締めつけられる気持ちなのだろう。

 「私は海産物が好きですから毎日のように近くの海で獲れたアイナメとか、いろいろな魚を食べています。トリチウムは有害であることをはっきりと言っておきたいと思います。政府は問題ないと宣伝していますが、資料を調べれば調べるほど有害性にどきっとします。たとえばトリチウムは人体の臓器の中では脳にとどまることが多いようです。また、有機物に結合したトリチウムが体内に取り込まれた場合、生物学的半減期(代謝や排せつで半分に減るまでの期間)は100~600日くらいだそうです。長く体内にとどまり、細胞のごく近くでトリチウムのベータ線を放出し続けるわけです」 

 「これ海」共同代表、いわき市の織田千代さんはこう話した。

 「海は世界につながる豊かな命のかたまりです。放射能を流し続けるという無謀なことを日本政府が行っていいはずがありません。事故を経験した大人の責任として、未来の子どもたちにきれいな海を手渡したい、約束を守ることの大切さを伝えていきたいと思うのです。海洋放出はやめてと叫び続けましょう」

 織田さんは叫び続けてきた。2年前の4月13日に政府が海洋放出方針を決めて以来、「これ海」は毎月13日に反対行動を続けてきた。伝わらないもどかしさを感じながら、それでも声を上げ続ける姿勢に筆者は敬意を抱く。この声はいつになったら政府に届くのか。岸田首相はこの日の午後、米ワシントン郊外のアンドルーズ空軍基地に到着。

岸田首相に向けて「反対」の声

【8月19日】

 福島に戻った筆者は朝からやる気が出ない。前日からこんなニュースばかりだからだ。

 《岸田首相は福島第一原発を20日にも訪問する方向で最終調整に入った。(中略)首相は近く関係閣僚会議を開き、月内にも放出開始の日程を判断する》(19日付福島民報)

 本誌編集部の志賀哲也記者から一報をもらった。「不確実な情報ですが、岸田首相は朝、新幹線でJR郡山駅に来て、帰りはいわき駅から特急に乗って帰るようです」。

 海洋放出に反対する人びとはこの情報をつかんでいるだろうか。心配が頭をかすめたが、間違っていたら悪いので、とりあえず経過を見守るしかない。志賀記者が郡山駅で写真をおさえ、私は原発付近に向かうことにした。

 【8月20日】

岸田首相に海洋放出反対を訴えた宍戸さん(8月20日、牧内昇平撮影)
岸田首相に海洋放出反対を訴えた宍戸さん(8月20日、牧内昇平撮影)

 午前9時半、岸田首相が郡山駅に到着。志賀記者の情報はビンゴだった。反対する人びとの集会は開かれていないという。やはり情報が入っていないのだ。首相は直接、反対の声を聞くべきだ。筆者は福島市に住む宍戸幸子さんに電話をかけた。連日のように街頭で放出反対を訴えている宍戸さんなら一緒に来てくれると思ったからだ。「情報が正確だと分かりました。宍戸さん、今から出られますか?」「もちろん!」。原発の近くから福島市に引き返し、宍戸さんと合流していわき駅へ向かった。

 正午すぎ、いわき駅に到着。警察官が歩き回っているなか、改札を出たところの広場で首相の到着をひたすら待つ。午後3時すぎ、特急ひたちのホームに降りようとする集団を発見。中央に首相の姿を認める。カメラを構えながら宍戸さんに「来た!」と叫んだ。宍戸さんは一瞬「どこ?」と戸惑ったが、気を引き締めて大きな声で叫んだ。

 「海洋放出は絶対反対ですから!反対ですから!」

 新聞紙で覆っていた手書きのポスターをかかげる。《反対してるのに! 海洋放出するな》

 首相の姿が見えたのはわずか数秒だった。宍戸さんの叫び声は届いただろうか?
 岸田首相はこの日、原発構内で東電の最高幹部たちと面会、報道対応を行った。しかし、福島の人びとと語り合う時間はつくらなかった。

【8月21日】

 午後2時、福島市内の杉妻会館で「福島円卓会議」が始まった。海洋放出や廃炉の問題を議論するために県内の有識者や市民が集まった会議だ。ホールには事務局長の林薫平・福島大准教授の声が響いた。

 「一、今夏の海洋放出スケジュールは凍結すべきである。二、地元の漁業復興のこれ以上の阻害は許容できない。三……」

 林氏が読み上げたのは「緊急アピール」の文案だった。円卓会議はこの夏に発足。7月11日と8月1日に会合を開き、この日が3回目だ。議論を重ねるにはまだ時間が必要だったと思うが、事態は急を要するため、緊急アピールを発出することになったという。参加した市民たちと約2時間にわたる意見交換を行い、その場でアピールの文面を固めた。

 この会議がもっと早く始まってくれればよかったのに、と筆者は思う。だが、内堀雅雄福島県知事が海洋放出に対する賛否を示さず、結果的に政府・東電の計画を追認してしまっているのが現状だ。地元福島の有識者・市民が自主的に集まり、意思表明することには大きな価値がある。

 誰でも会議に参加でき、挙手すれば意見を述べられるという進行方法もいいと思う。事務局は政府や東電にも会議への出席を求めてきたという。しかし、これまでの会議には誰も参加していないようだ。ここでも「丁寧に説明する」という政府・東電の言葉がいい加減なものだとわかる。

 午後4時、岸田首相は全国漁業協同組合連合会(全漁連)の坂本雅信会長を官邸に呼んだ。福島県漁連の専務理事も同席した。着々と地ならしが進んでいく印象。

決して賛否を示さない内堀知事

筆者の質問に答える内堀雅雄知事(写真中央、8月22日、牧内昇平撮影)
筆者の質問に答える内堀雅雄知事(写真中央、8月22日、牧内昇平撮影)

【8月22日】

 午前10時、関係閣僚等会議が開始。岸田首相が「具体的な放出時期は8月24日を見込む」と発表する。

 午後になって頼みの志賀記者から連絡が入った。2時半から西村康稔経産相が県庁を訪ね、内堀知事と吉田淳・大熊町長、伊澤史朗・双葉町長と面会するとのこと。県庁に取材を申し込んだら「経産省のほうで受け付けを行っています」とにべもない。しかも経産省はすでに申し込みを締め切ったという。

 西村氏に続いて東電ホールディングスの小早川智明社長が内堀知事ら3氏と面会した。終了後、報道陣への取材対応の時間があった。筆者と内堀氏のやりとりを再現する。

 筆者「フリーランスの牧内といいますが、何点かうかがいます」

 内堀氏「すみません。時間の関係があるので一点でお願いします」

 筆者「一点?」

 内堀氏「はい」

 筆者「これまで何度も聞かれていると思いますが、そもそも内堀さんは海洋放出に賛成なんでしょうか、反対なんでしょうか。理解を示しているのでしょうか、示していないのか。その点を明らかにしてもらいたいと思います」

 内堀氏「はい。今ですね、二つの中の選択肢で選んでくれというお話をしました。今日私が経済産業大臣そして東京電力の社長にお話した内容、非常に複雑多岐な内容を含んでいます。漁業者の皆さんの思いも含んでいます。また、処理水の海洋放出に反対の方の意見も入っています。一方でまさに立地自治体であったり、避難地域12市町村の復興を前に進めたい、あるいは福島県の風評というものをしっかりなくしていきたいという県民の皆さんの思いも入っています。二つの選択肢の中のどちらかを選ぶということは、原子力災害の問題では極めて困難だと考えています。そのうえで広域自治体である県としては、それぞれの立場の真剣な思いというものを福島県の意見の中に取り入れつつ、これまで政府高官に対する要請を21回、また、復興推進委員会、復興再生協議会等の場において26回、この2年4カ月の間にお話をしてきました。一言で結論を出すことが難しい。それがこの原子力災害の葛藤だと考えています」

 筆者「政治家としては決断を下すのが仕事だと……」

 内堀氏(再質問している筆者から目を背けてほかの新聞記者を指し)「お願いします」

 県庁の広報担当「一問限りでお願いいたします」

 筆者「ダメなんですか?」

 県庁の広報担当(無回答のまま)「じゃ、河北新報さん」

 内堀氏(河北の記者のほうを向いて)「どうぞ」

 この期に及んで内堀氏は海洋放出の是非について判断を示さなかった。「原子力災害の問題は二つの選択肢のどちらかを選ぶのが極めて困難だ」と言う。だが、いろいろな人と話し合ったうえで正解のない問題に決断を下すのが政治家の仕事だろう。福島県には原子力緊急事態宣言が出されている。まさに今、原子力災害は継続中である。「どちらかを選べない」人が行政トップの座に就いていて大丈夫だろうか(ちなみに複数質問した記者もいたことを付記しておく)。

注目される差し止め訴訟

【8月23日】

 「今年の5月から裁判を準備してきました。原告数は100人を超えることを目指しています」

 いわき市文化センターの会議室で、広田次男弁護士が海洋放出の差し止めを求める裁判を起こすと発表した。県内外の漁業者や市民が原告、国と東電ホールディングスが被告となる。海洋放出によって漁業者たちは生存の基礎となる生業を破壊される。一般の人びとも汚染されない環境で平穏に生活する権利を奪われる。漁業行使権、人格権(平穏生活権)が侵害されるとの主張だ。広田氏と共に弁護団の共同代表を務める河合弘之弁護士は海洋放出が倫理に反している点を強調した。

 「福島第一原発の敷地内外には広大な土地があります。国や東電は『燃料デブリの用地確保が必要だ』と言いますが、デブリはまだ数㌘しか取れていません。大量に取り出せるのは何十年も先です。そんな先のことのために、空き地を使わず放流するというのはインチキです。ひと言でいえば『不要不急の放流』です」

 9月8日に第一次提訴があるという。政治や行政の暴走を食い止めるのが司法の最大の役割だ。海洋放出をめぐる法廷闘争がいよいよ始まる。

 【8月24日】

大熊町で海洋放出直前に行われた抗議活動の様子(8月24日、牧内昇平撮影)
大熊町で海洋放出直前に行われた抗議活動の様子(8月24日、牧内昇平撮影)

 午前9時、筆者は大熊町夫沢付近にある国道6号の交差点に到着した。交差点から車を東に進めれば福島第一原発の敷地に至る。が、当然そこは封鎖され、一般車両は通行できない。数台のパトカーが停まり、制服の警察官が取り締まっている。海洋放出に反対する人びとが交差点に集まってきた。放出は午後1時の予定だと報じられていた。放出前最後の抗議になるだろう。

 人びとは横一列に並ぶ。歩道に沿って《海に流すな》と書かれた横断幕をかかげる。ここでもリレースピーチが行われた。このエリアを歩いている人はいない。主に報道陣へ語りかける。

 南相馬市の佐藤智子さんが話す。

 「海は誰のものでしょう。みんなのものです。決して政治のトップや官僚や大企業だけのものではありません。なのに、私たちが住む地球の美しい環境を汚すっていうことに私はすごく憤りを感じます。私たち大人はまだいいですよ。子どもや孫、次世代の人たち、動植物の命を侵すことになる。私は肌でそう感じています。主婦です。単なる主婦。主婦がそう思うんです。そういうほうが案外当たっていると思います。陸上保管! 海洋放出反対!」

 佐藤さんは「メディアの方々、きちんと報じてください」と語りかけた。だが、集まった報道陣はそれほど多くない。しかも半分ほどは海外メディアだった。筆者も韓国・京郷新聞のイ・ユンジョン記者から頼まれ、現地にお連れしていた。

 浪江町から福島市に避難し、今も同市に住む今野寿美雄さんが話した。

 「流したら福島県の恥だよ。福島も宮城も漁業は壊滅します。魚はもう食えなくなっちゃうよ。政府は全然科学的じゃないよ。原発のエンジニアとして言います。トリチウムは危険です。海はゴミ捨て場じゃないよ。それでなくても運転中の発電所からトリチウムが流れている。でも、今流そうとしているのは汚染水だよ。トリチウムだけじゃないよ。薄めて流すというけど、薄めたって総量は一緒なんです。生体濃縮した魚を食べたら人間の体にも入ってくるんです。水俣病で分かったことをまた同じことを繰り返そうとしているんです。馬鹿じゃないの?」

メディアの責任も問われている

 原発で働いてきた今野さんは、事故後は子どもたちを無用な被ばくから守るための裁判で原告団長も務めてきた。放射線の怖さを肌身で感じてきたからだろう。今野さんの顔が紅潮してきた。怒りが止まらない。

 「汚染水流すのやめろ。ここに爆弾あるんだったら爆弾を投げつけたいよ。ほんとに……ふざけんな!」

 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……。原発の方角へお経を唱えている人がいる。千葉県にある妙法寺の法尼、矢向由季さんだ。法尼の声は時に穏やかに、時に力強く、寄せては返す波のように延々と続く。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……。

 午後1時すぎ、予定通り海洋放出が始まった。NHKはヘリコプターを飛ばして上空からの映像を中継している。そのくせ報じている内容は政府の言い分がベースになっている。本当に安全であり、本当に不可避ならば、大げさに伝える必要があるのだろうか。経過は大きく報じるものの、肝心の「是非」についてはっきりした考えがわからない。そのうえ反対意見は丁寧に拾わない。結果として政府を後押しする役割を果たす。多くのマスメディアに対して筆者は同様の印象を抱いている(「風評被害」を強調するだけでは、じゃあ賠償しますという話にしかならない。本来必要なのは代替案などの検証だ)。

 一緒に取材したイ・ユンジョン記者は「なぜ日本では大規模な反対運動が起こらないのでしょうか」と不思議がっているが、声を上げている人は確かにいるのだ。それを伝えていないメディアの責任は大きい。報道陣の端くれである筆者も含めて。

 双葉町にある産業交流センターの屋上階にのぼった。正面に太平洋が見える。まさに今、30年、40年と続く汚染水の放出が始まった。海は、変わらず青い。しかし私たちは次世代まで責任をもてるだろうか。

 8月24日は、新たな負の記念日として記憶された。

まきうち・しょうへい。42歳。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。現在はフリー記者として福島を拠点に取材・執筆中。著書に『過労死 その仕事、命より大切ですか』『「れいわ現象」の正体』(ともにポプラ社)。

公式サイト「ウネリウネラ」

牧内昇平

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