東京電力福島第一原発のタンクにたまる汚染水(「ALPS処理水」)の海洋放出に理解を得ようと、政府が大々的なPR事業を展開している。昨年末に全国のお茶の間を騒がせたのは、大手広告代理店の電通が作ったテレビCMだった。そのほかにも多岐にわたる事業が行われていることを紹介したい。(ジャーナリスト 牧内昇平)
2月18日土曜日のお昼前、春の近さを確信させるような晴天の下、筆者はJRいわき駅からバスに乗っていわき市中央卸売市場に向かった。土曜日のためか人の姿がほとんどない駐車場を通り過ぎ、中央棟2階の研修室の扉を開けると、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。
「油がはねますから、気をつけてくださいねー」。三角巾にエプロン姿の子どもと保護者12組24名が見守る中、講師の先生がアンコウを揚げ焼きにしている。続いて薄切りにしたカツオと野菜をフライパンに入れ、バターやポン酢をからめて火を通す。さらにいい香りが部屋じゅうを包み込む。子どもたちがつばを飲む音が聞こえたかと思ったら、ファインダー越しに撮影を試みる筆者自身のつばの音だった。
講師の実演が終わるといよいよ子どもたちの出番である。それぞれの調理台に散らばり、クッキング、スタート!
なぜ筆者が楽しくにぎやかな料理教室を訪れたかと言うと……。
◇ ◇ ◇
CMだけでなかった海洋放出PR事業
本誌先月号に筆者が書いた記事のタイトルは「汚染水海洋放出 怒涛のPRが始まった」だった。大手広告代理店の電通がテレビCMを作り、昨年12月半ばから2週間にわたって全国で放映した。海洋放出には賛否両論あり、特に福島県内では反対意見が根強い。そんな中で政府の言い分のみをCM展開するのは一方的ではないか。これでは政府主導のプロパガンダ(宣伝活動)と言わざるを得ない、と筆者は書いた。
ただし政府が行っている海洋放出PR事業はこのテレビCMにとどまらない。経済産業省は2021年度の補正予算を使い、「海洋放出に伴う需要対策」という新たな目的の基金を創設。そこに300億円という大金を注ぎ込んだ。そのうち9割は水産業者支援のために使い、残りの約30億円を「風評影響の抑制」を目的とした広報事業に充てるという。これが筆者の言う「プロパガンダ」の原資だ(もちろん「海洋放出」に限定しなければ復興庁などがすでに様々なPR事業を行っている)。
現在基金のホームページに公開されている「広報事業」は別表の10件である。読売新聞東京本社が入り込んでいるのか!など、社名を眺めるだけでも興味深いものがある。
2022年度に始まった海洋放出PR事業の数々
事業名 | 予算の上限 | 公募時期 | 事業期間 | 落札企業 |
---|---|---|---|---|
廃炉・汚染水・処理水対策の理解醸成に向けた双方向のコミュニケーション機会創出等支援事業 | 2500万円 | 22年5月~6月 | 23年3月31日まで | JTB |
廃炉・汚染水・処理水対策に係るCM制作放送等事業 | 4300万円 | 22年5月~6月 | 23年3月31日まで | エフエム福島 |
被災地域における水産加工事業者を始めとする関係事業者等に対するALPS処理水の安全性等に関する理解醸成事業 | 8000万円 | 22年7月 | 23年3月31日まで | ユーメディア |
ALPS処理水の処分に伴う福島県及びその近隣県の水産物等の需要対策等事業 | 2億5千万円 | 22年6月~7月 | 23年3月31日まで(ただし延長の場合あり) | 読売新聞東京本社 |
ALPS処理水に係る国民理解醸成活動等事業 | 12億円 | 22年7月 | 23年3月31日まで | 電通 |
ALPS処理水による風評影響調査事業 | 5千万円 | 22年7月~8月 | 23年3月31日まで | 流通経済研究所 |
ALPS処理水並びに福島県及びその近隣県の水産物の安全性等に関する理解醸成に向けた出前食育活動等事業 | 1億円 | 22年9月 | 23年3月31日まで | 博報堂 |
三陸・常磐地域の水産品等の消費拡大等のための枠組みの構築・運営事業 | 8千万円 | 22年10月~11月 | 23年3月31日まで | ジェイアール東日本企画 |
廃炉・汚染水・処理水対策に係る若年層向け理解醸成事業 | 4400万円 | 22年10月~11月 | 23年3月31日まで | 博報堂 |
福島第一原発の廃炉・汚染水・処理水対策に係る広報コンテンツ制作事業 | 1950万円 | 23年1月~2月 | 23年5月31日まで | 読売広告社 |
https://www.alps-kikin.jp/PubRelation/index.html
※掲載後、新たな採択情報は下記の通り。
出前食育事業に怒りの声
別表のうち、テレビCMと並んで「物議」を醸したのが出前食育事業、正式には「ALPS処理水並びに福島県及びその近隣県の水産物の安全性等に関する理解醸成に向けた出前食育活動等事業」である。受注業者を募る際、基金は大雑把な内容を「公募要領」として公開した。そこにはこう書いてあった。
〈漁業者団体や地方公共団体の連携の下、小中学生等を対象にした「出前食育活動」を実施する。具体的には、小中学生等を対象に、福島県及びその近隣県の水産物の安全性等に関する理解醸成に向けて、漁業者等による出前授業や関連の資料提供・説明等を実施するとともに、そうした理解醸成活動の一環として、福島県及びその近隣県の水産物を学校給食用の食材として提供する〉
筆者が傍線を入れたあたりが、原発事故以来子育てに悩んできた福島の人びとの怒りに触れた。
《も~我慢できない!子どもを広告塔にするな!原発事故の加害側の悪だくみを止めてみせるぞ!》
原発事故後の福島の問題を考えるNPO「はっぴーあいらんど☆ネットワーク」は2月6日、オンラインのトークイベントでこの「出前食育事業」を取り上げた。出演したのは県内に住む千葉由美さん、鈴木真理さん、片岡輝美さんの3人。いわき市在住、原発事故当時子育ての真っ最中だった千葉由美さんが語る。
「原発事故の加害側である国が、自分たちに都合のいいように子どもを利用しようとしています。こんなことがあってはならないと思っています」
千葉さんは事故直後の経験を語った。自分の子に弁当を持たせて学校に通わせたこと。無用な被ばくから身を守るためだったが、まわりの子が給食を食べている中では精神的につらい思いをさせただろうこと。片岡さんも当時を振り返った。
「あの頃は大混乱だったじゃないですか。親も子どもも大変だったと思います。今回の『食育』は単発のイベントとは言え、子どもたちがまた切ない思いをするかと思うと……」
鈴木さんが思いを吐き出した。
「なんで子どもたちを利用するの? 勘弁してほしいですよ!」
3人のすごいところは、県内のすべての市町村に電話で問い合わせてしまったところだ。経産省から出前食育の知らせを受けているか、小中学校で実施する予定はあるか、を手分けして担当者に聞いたという。地道な取材力に脱帽である。トークイベントではその聞き取り結果も披露してくれた。
それによると、3人が調査した時点では県内の7自治体が事業案内を受け取ったが、いわき市などの教育委員会はすでに「実施しない」と回答した。現時点で「実施した」という例は一つもない――ということだった。
出前食育事業はどこへ?
トークイベントが終了し、パソコンの画面を閉じた筆者は腕を組んで考えた。出前食育の事業の期限は3月末である。2月の時点で県内の実施校が一つもないというのはどういうことなのか。これは自分でも調べねばなるまい。
まずは福島市と郡山市の教育委員会に聞いてみた。どちらの担当者も「案内は来ていません」。やはりそうか。次はいわき市だ。市教委学校支援課の担当者はこう話した。「出前講座の件は昨年秋、市の水産課と県の教育庁と、2つのルートから知らせをもらいました。市長部局とも相談した結果、お断りすることになりました」。
断った理由を聞いてみた。「市の学校給食の提供の考え方に合わないと判断したからです。安心・安全な食材の提供が大原則です。ふだんの給食でさえ、福島県産の食材に対して不安を感じる保護者の方もいます。そういう状況で、海洋放出と関連させて海産物の提供を行ったらどうなるのか。状況は不透明です」と担当者は話した。
ちなみにいわき市水産課に問い合わせたところ、「昨年の夏以降、経産省の職員の方と別件で会った時、『実はこんなことも考えているんです』という情報をもらいました。うちは担当ではないのですぐ教育委員会に転送しました」とのことだった。
今度はこの事業を取り仕切っている側に聞いてみよう。テレビCMや出前食育などの広報事業については「原子力安全研究協会」という公益財団法人が連絡窓口になっている。同協会の担当者に学校給食への出前講座の件を聞くと、「現段階で何件実施しているかなどは把握していません。教育委員会や学校の方からご理解をいただくのが難しい面はあると聞いておりますが……」と奥歯に物が挟まったような言い方である。
もしや「実施ゼロ」で終わるのでは? 確認のため、筆者は経産省(原子力発電所事故収束対応室)の担当者に電話した。
筆者「理解醸成に向けた出前食育事業の件はどうなっていますか?」
経産省「あれはですね。地元産品を使用した料理教室などを行う事業です」
筆者「えっ? 事業の公募要領には〈漁業者による出前授業〉や〈学校給食用の食材として提供〉と書いてありましたよね」
経産省「あれは公募時にあくまで事業の一例として挙げたものです。当初はそういうことも想定していましたが、受注業者(博報堂)などとの話し合いの結果、料理教室を開催する方向になりました」
筆者「いくつかの市町村には案内を出したんですよね」
経産省「経産省からの公式な案内といったものは出していないと認識しています。私自身はそういうことをしていませんが、事業内容を検討している段階で経産省の職員が話題にした、というくらいのことはあるかもしれません」
筆者「……」
「学校給食への食材提供」はいつの間にか「料理教室」に様変わりしていたようだ。「はっぴーあいらんど☆ネットワーク」の千葉さんたちだけでなく、いわき市教委や原子力安全研究協会もその変更を知らないのでは……といったモヤモヤを残しつつ、筆者はその料理教室の情報を調べてみた。
参加費無料。保護者と子どもがペアで参加。ただし子どもは小中学生に限定。開催場所は宮城県内の2か所(仙台・利府)といわき市の合計3会場。初日は2月18日土曜日の午前10時半……。
ということで筆者は先日、いわき市中央卸売市場を訪れたのだった。
◇ ◇ ◇
「皆さんはどんなお魚料理が好きですか?」「福島県の常磐ものは東京の築地や豊洲の市場でも新鮮でおいしいと評判ですよ!」
調理の前、料理教室の講師が約20分間のレクチャーを行った。常磐ものの魚の紹介や一般の魚介類に含まれる栄養素の説明が続く。
メモをとりながらやっぱりおかしいなと思ったのは、講師の説明の中には「ALPS処理水」や「海洋放出」という言葉が出てこないことだ。イベントの事務局によると、調理実習後に特段の説明は行わないそうなので、参加者が海洋放出について理解を深めるのはこのタイミングしかない。しかし、そんな話題は一切出てこなかった。念のため参加者たちへの配布物も確認してみた。福島の海産物の魅力の紹介はあっても、「ALPS処理水」や「海洋放出」には触れていない。
このことは事前に経産省(原発事故収束対応室)の担当者からも聞いていた。
経産省の担当者「海洋放出への理解醸成が目的ではありますが、放出に反対の方々にもご参加いただける企画にしたいと考えております。安全ですよと大々的に宣伝するというよりも、常磐もの、三陸ものの魅力自体をご理解いただければと思っています」
念のため書いておくが、料理教室自体はすばらしかった。ヒラメの炊き込みごはんやアンコウの沢煮椀、かつおのバターポン酢炒めはきっとおいしかったことだろう。調理台に立つ子どもたちの目は輝いていた。
とは言っても経産省の皆さん、そもそもこの事業のタイトルは「ALPS処理水並びに福島県及びその近隣県の水産物の安全性等に関する理解醸成に向けた出前食育活動等事業」ではなかったのですか? テレビCMでかかげたキャッチフレーズ、〈みんなで知ろう。考えよう。ALPS処理水のこと〉の精神はどこへ行ってしまったのですか?
経産省は地元福島の複雑さに理解を
ここまでの取材結果をまとめてみよう。
経産省は当初、学校給食への食材提供などを意図していた。しかし、いわき市など地元自治体が「実施しない」という意思を表明したからか、その計画は「料理教室」へとスライドしていった。料理教室の実施スケジュールは2月18日~3月19日の週末だ。ぎりぎり2022年度内に事業を終えることになる。
もちろん筆者は「もっと積極的に子どもたちに海洋放出をPRせよ」という意見ではない。ただ、〈ALPS処理水並びに水産物の安全性等に関する理解醸成〉と銘打っておきながら、単なる料理教室では筋が通らないのも明らかだ。これだったら経産省がやる仕事ではない。
原発事故以来、福島県内に住むたくさんの親たち、子どもたちが学校給食について悩んできたと聞く。筆者も側聞しているだけなので偉そうなことは言えないが、察するに経産省はこうした福島の人びとの切なさ、複雑さを十分に理解していなかったのではないか。
今回の「出前食育」事業を経てそうした点に気づいたならば、「今年の春から夏頃に開始する」としている海洋放出について、より一層の慎重さが必要なことにも思い至ってほしい。
ちなみに、実は料理教室のほかにもう一つ、「出前食育」の予算枠を使ったイベントがあるそうだ。
タイトルは「相馬海の幸まつり」(開催は2月25、26日と3月4、5日)。「浜の駅松川浦」などのイベント会場では地元の海産物やしらすご飯が振る舞われ、「小中学生限定」の浜焼き体験ではイカの焼き方を知ることができるという。
チラシには〈楽しく食育体験!〉と書いてあった。〈ALPS処理水〉や〈海洋放出〉という文字はなかった。
まきうち・しょうへい。41歳。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。現在はフリー記者として福島を拠点に取材・執筆中。著書に『過労死 その仕事、命より大切ですか』、『「れいわ現象」の正体』(ともにポプラ社)。