
フェミニズムはわかりにくい?
ある日、男性の友人とご飯を食べている最中に「フェミニストの言説がわかりにくい」という言葉が飛び出しました。彼は知的好奇心が高く、日々調べものをしているのだそうです。その一環で、現在フェミニズムに興味を持っている。そこで、何冊かフェミニズムやジェンダーについての本を読んでみたものの、そこでの文章の「書かれ方」が「わかりにくい」と感じているようでした。ひるがえせばフェミニストたちが「わかりやすく」記述すれば、フェミニズムはもっと「理解される」可能性を秘めているのにもったいない、とも感じているようです。
確かにフェミニズムについて書かれた本には、私にも「わかりにくい」と感じるものが数多く存在します。特に理論書は難しい。理論書で引用されているのが、哲学における現象学や構造主義、倫理学、精神分析についての一節であり、それらの手つきが難解だからです。どうやったらこんなに難しい文章を書けるのか理解に苦しむと思ってしまうくらい難しい。
そこで、市場にはもっと簡単な「フェミニズム入門書」が刊行されています。しかし、上述の男性は読書に慣れており、平易な入門書なら私なんかよりもはるかに簡単に読みこなすことができそうです。それでもなお「わかりにくい」とはどのようなことでしょうか。
「論理的に」との注文
彼の話をより詳しく聞くと、女性がこうむる不平等について記述する際に具体的なデータなどを提示してほしい、ということでした。幸いそのようなアプローチで書かれた『存在しない女たち』(キャロライン・クリアド=ペレス(著)、神崎朗子 (訳)、河出書房新社)という本があるにはあるので紹介しておきましたが、その本は424ページもある大作であり、文体も決して読みやすいとはいえません。しかし、彼のニーズにはこの本がぴったりなように思えました。単純な「難易度」で比較すれば、彼が「わかりにくい」という入門書のほうが、はるかにとっつきやすいように思えます。
「わかりやすさ」とは何でしょう。冒頭の彼は慎重な人なので、そんな言い方はしなかったのですが、私がたびたび見聞きするのは「フェミニズムは論理的でない」という批判です。曰く、フェミニストたちの多くは自身の体験などの「あるある」を語っているだけで、その体験が普遍性を持つという証明を「論理的に」できていないのだと。なるほど論理的でないとすれば、わかりやすくもなさそうです。
興味深い本がありました。『「論理的思考」の文化的基盤』(渡邉雅子、岩波書店)というタイトルで、普遍的であるとみなされがちな「論理性」や「合理性」が、実は文化的に規定されているという驚きの事実を、アメリカ、フランス、イラン、日本の典型的な4つの思考・表現スタイルから分析しています。
例えば、アメリカでは「パラグラフ・ライティング」が求められます。まずは冒頭に結論を書き、次にその結論にいたった理由を書くという小論文の書き方です。日本でもビジネスの現場などでは「結論ファースト」が好まれる傾向があります。この「結論ファースト」の歴史は浅く、きっかけはベトナム戦争にあるんだとか。というのも、ベトナム戦争の帰還兵たちが大量に大学への入学を求めた時期があり、大量の小論文を捌く必要性から、採点の効率化のために「パラグラフ・ライティング」が推奨されたというのです。
女学生に向けられた嫌悪
では、これを男性と女性に置き換えてみたらどうでしょう。日本で女性に対する近代的な教育が導入されたのは、明治5年のことでした。『女ことばと日本語』(中村桃子、岩波書店)において指摘されているのは以下のことです。当時の女子学生たちは、男子学生たちと同じ袴をはき、同じ言葉(書生言葉)で話し、同じカリキュラムで学んでいました。
しかし、そのような女子学生たちに対して、新聞の投書などで嫌悪感を示す人が多発しました。わずか7年後には明治政府が行き過ぎた欧化政策を改め、儒教に基づく道徳教育の施行を宣言します。女子学生の袴の着用が禁止され、裁縫と家政が必須科目とされます。『学問のすすめ』の中で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と宣言した福沢諭吉ですら、「教育の進歩と共に、婦人が身柄にあるまじきことを饒舌り、甚だしきは奇怪千万なる語を用いて平気なる派、浅見自ら知らざるの罪にして、唯憐れむ可きのみ」(『女大学評論・新女大学』)と激しい言葉で非難していたというのです。
社会が女性に求めた情緒
長い間、男女の性的役割分業に基づき、男性は外での仕事、女性は家事や育児、介護に従事してきました。そこで求められる能力は大きく変わります。家事や育児、介護などの「ケア労働」は、個別のニーズを汲み取り、対象と情緒的なやりとりを継続することが求められます。一方で、女性が学問やビジネスの言葉で議論をすると「生意気だ」「はしたない」と批判されてきました。1990年代生まれの私も、小さい頃、「女のくせに勉強ばかりしているから生意気になるんだ」と親からたしなめられたことがあります。明治時代の女学生と言われていることは変わりません。
しかし、明治時代よりも男女同権の概念が人口に膾炙した現代において、多くの女性が社会に対する「違和感」を表明するようになっていきました。そうした「違和感」の表明は、研究者やキャリアウーマン、専業主婦、10代の若者に至るまで様々な属性の人が含まれますが、多くが女性です。そしてその多くは「男性のように」話すことをよしとされてこなかったのです。
現代では特にSNSが情報発信や社会運動において大きな力を持ちます。SNSは怒りや憎しみ、激しい言葉など「感情的」「情緒的」な言説が拡散されやすい傾向にあります。また、誰もが簡単にアカウントを取得することができる民主的な手段です。社会的不利な立場にある女性が、男性中心社会における権威勾配を転覆させるのに、このツールを使わない手はありません。しかし、感情的・情緒的な表現によって拡散された女性による言説は、「煽情的で説得力がない」「ヒステリックだ」という評価にさらされることになります。
論理的でも情緒的でも非難
女性が学問をしたり、「論理的」に喋ったりすると、「生意気だ」「はしたない」とされ、女性は情緒豊かであることが望ましいという時代が長くあり、現代になって女性が「感情的」に権威勾配を転覆させようとする言説を発すると、今度は「感情的で説得力がない」とされるダブルバインドが、今の社会にはあるのではないでしょうか。結果として、女性の担い手が多いフェミニズム的な言説が「わかりにくい」と評価されてしまう原因になっているように思います。
もちろんフェミニストがもっとビジネスや学問のことばで「わかりやすく」男性に語り掛ける努力は、今後も続けられることでしょう。一方で、男性たちにはなぜ女性の言葉が「わかりにくい」と感じるのか、「わかりにくい」と言う前に少し立ち止まって考えてみてほしいのです。

























