根本良一元矢祭町長が5月21日に亡くなった。86歳だった。国が市町村合併を推し進めた中、議会が議決した「合併しない宣言」のもと、自立のまちづくりを進め、全国的にも名前が知られていた。公職を離れてからも、町政や近隣自治体の選挙などにも影響力を持ち続けた。その功績を振り返るとともに、根本氏死去の影響を探る。(末永)
今後の町政・近隣町村選挙に影響!?

根本氏は1937年生まれ。学法石川高校卒業後、家業の根本家具店に従事。1983年の町長選で初当選し、6期務めた。
その間、1999年に5期目に入ったころから、国の方針でいわゆる「平成の大合併」が推し進められた。しかし、矢祭町は2001年に議会が「合併しない宣言」を可決した。同町は県最南端の県境に位置するため、合併すれば〝どん詰まり感〟が増す。合併してもメリットは薄いと判断したのだ。町民の多くも「合併を望まない」との意向だった。
ただ、合併しないとなると、相応の自助努力が求められる。そのため、同宣言以降は、徹底した行財政改革を行い、自立のまちづくりに注力していった。その最初の部分を担ったのが根本氏だった。
同時期、国は住民基本台帳の情報などのネットワーク化を図り、全国共通で電子的に本人確認ができる「住民基本台帳ネットワーク」の構築を進めていたが、セキュリティー上の問題を理由に、全国初の「不参加」を表明した。
このほか、寄贈された本を蔵書にした「矢祭もったいない図書館」の開館、自動制御機器などを製造する「SMC矢祭工場」の誘致などを実現した。

2007年に6期目の任期満了をもって退任した。ただ、その後も「合併しない宣言」後の自立のまちづくりについての講演を行ったり、全国自治体が同町に視察に訪れた際の対応に当たったりと、役場(行政)絡みの職務も少なくなかった。役場に「根本氏の講演をお願いしたい」と連絡が入るため、役場でスケジュールを管理するような状況だったのである。
同時に町政にも大きな影響力を残した。その1つのエピソードとして、退任後、役場職員を呼びつけ、「そんな考え・やり方ではダメだ」と叱責することもあったという。「ワンマン町長」のもとで、自立のまちづくりを推し進め、退任後もその影響力を誇示したということだ。
なお、根本氏の死後、さまざまなメディアで「『合併しない宣言』で知られる根本良一元矢祭町長が死去した」と報じられたが、前述したように、「合併しない宣言」は議会の発案・決議によるもの。もっとも、当時の議会は根本氏を支持する議員が大部分を占めており、根本氏の意向もあって同宣言が可決されたのは間違いない。
もう1つ付け加えると、同町では2007年12月に全国初の議員報酬日当制を盛り込んだ「町議会議員の報酬及び費用弁償に関する条例」を可決した。2008年3月に町議選が行われ、新議員の任期スタートと同じ、同年3月31日から同条例が施行された。
その背景にあったのが「合併しない宣言」で、町の行財政改革に倣い、議会も「自立するための覚悟」を示したものだった。
日当は3万円で、町課長相当職の平均年収を平均出勤数で割り、それに7掛けして算出した。日当が支給されるのは本会議や委員会、全員協議会などに限られ、おおよそ年間40日が支給対象となる。年間の報酬支給額は約120万円。これにより、年間約2000万円超の節約になる。
ただ、導入からしばらくすると、議員報酬日当制のあり方を再検証する動きが出るようになった。2015年3月には、「議会議員の報酬に関する特別委員会」を設置して、そのあり方を議論した。議長を除く全議員(9人)が委員となり、議長はオブザーバーという形で参加したため、事実上、全議員が議論に加わったことになる。ただ、同委員会では日当制維持派と、月額制への変更派が拮抗したため、現状維持とされた。
その後、昨年10月に再議論の動きがあり、議会内に「議会議員の報酬に関する調査特別委員会」を立ち上げ、昨年10月から今年2月までに4回にわたって議論してきた。その結果、2008年以前の「町議会議員の報酬・期末手当及び費用弁償に関する条例」に倣い、月額制に戻すことが決まった(本誌4月号参照)。
その際、複数議員が根本氏のもとを訪れ、承諾を得て条例改正に至ったのだという。ただ、議員報酬日当制が導入されたのは根本氏の町長退任後のこと。そもそも、議会のことだから、執行部(町長)には直接的には関係ない。にもかかわらず、議員報酬の変更に当たり、根本氏の承諾を求めたというのだから、いかに影響力があったかがうかがえよう。
ともかく、こうして同町は根本氏のもとで、自立のまちづくりを進めてきたのである。
古張允前町長の回顧
もっとも、「合併しない宣言」後の大部分で舵取りを担ったのは、根本氏の後継者の古張允前町長。2007年から2019年まで3期12年務めた。根本氏と最も親交が深かった1人だが、古張前町長に根本氏への思いを聞くと、「根本さんは同志であり、師匠のような存在でもあった」と話した。そのうえで、こう続けた。
「一番に思い出されるのは、根本さんが町長になる前のこと。町長選で町が二分されるような激戦となり、町民有志で『次の町長選は、ぜひ根本さんに出てほしい』と説得し、一緒に町内各地区を回って支持を広げていきました。根本さんが町長に就任すると、反対派だった人を掌握していきました。根本さんは面倒見が良く、人を大事にする方でしたから、どんどん引き込んでいきましたね。そうして何期か重ねるうちに、根本さんの支持基盤は盤石になりました。根本さんが5期目の任期満了で辞めようとした際、町民有志が町長室に押しかけ、(退任表明しようとしていた)根本さんを議場に入れないようにしましたが、それはその象徴だと思います」
根本氏は5期目の任期が満了する2003年4月を前に、地元紙に引退の意向を明かしていた。地元紙でそのことが報じられたのは3月議会の最中で、議会最終日に引退表明する予定だったが、地元紙報道を見た町民有志が町長室に押しかけ、根本氏の議場入り(引退表明)を阻止したのだ。その際、町民有志から「もう1期続けてほしい」と懇願され、続投を決意した経緯がある。
当時は、前述した「合併しない宣言」が決議されて間もなかった。そのため、町民の多くは「同宣言に基づく自立のまちづくり、行財政改革などを進めるため、もう1期はやってもらわないと困る」との思いが強く、そうした行動に至ったのだ。
古張前町長によると、「合併しない宣言後の国とのやりとりも印象深い」という。
「合併しない宣言を出すと、すぐに総務省合併推進室の室長が飛んできました。同室長は合併のメリットを説いて何とか説得しようと試みたが、根本さんは『薄い水と薄い水を混ぜ合わせても濃くはならない。濃い水と薄い水を混ぜ合わせたら、濃い水が薄くなるだけだ』と応戦して譲らなかった」
根本氏の実績については次のように話した。
「やはり、役場をスリム化して行財政改革を進めたことが一番でしょうね。あとはSMC矢祭工場の誘致も、雇用の場や税収の面で大きかったと思います。SMCは私が在職中に第二工場が増設されました。そのころは、ある程度オートメーション化が進んでいましたが、最初の工場で1000人規模、第二工場新設後は千数百人規模の雇用が生まれましたから」(古張前町長)

さらに古張前町長はこう続けた。
「家業の家具店が茨城県大子町にも店舗があったことと関係しているのでしょうが、同県から選出されていた梶山静六元衆院議員と親交があり、そうした人脈を駆使していろいろな事業を進めました。例えば、『あゆのつり橋』は、本来は補助対象ではなかったんです。ただそれは法律に基づくものではなく、規約に基づくものだった。法律に基づくものは簡単には変えられませんが、規約や指導要領などに基づくものなら、交渉次第では何とかなる。実際、それで規約を書き換えて補助が受けられ、整備に至りました。梶山元衆院議員のような人脈もそうですし、国・県の補助事業やSMCなどの民間企業に対する交渉術にも長けていたと思います」
後継指名時のエピソード
一方で、「後継指名されたときはどうだったのか」と尋ねると、古張前町長は苦笑しながらこう明かした。
「当時、私は助役・副町長の立場で、もったいない図書館の整備のため、現地で寄贈された本の整理の指揮をしていました。すると、役場(根本町長)から電話が来て、すぐに戻ってこい、と。何だろうと思って役場に戻ると、新聞記者がいて、根本さんが『これがオレの後継だから。次はコイツにやらせるから』と言ったのです。その時点で、私は『やる』とは一言も言っていなかったのですが……」
その後、「根本氏引退、古張副町長を後継指名」といった形で新聞で報じられ、既成事実化されたことで引き受けざるを得ない状況になったようだ。
「根本さんの時代に行財政改革が行われ、必要な部分の投資も終わっていましたから、財政的にはそれほど厳しいということはなかった。ただ、あれだけの人の後任ですから、やはり大変でしたよ。どうしたって比べられますからね」(同)
一方で、佐川正一郎町長に話を聞くと次のように語った。
「通信社の配信だと思いますが、県外の新聞等でも、根本さんの実績とともに亡くなったことが伝えられていましたね。それだけ地方行政の分野では影響力のあった方だということです。昨年5月に『全国小さくても輝く自治体フォーラム』が千葉県一宮町で開催され、そこに根本さんと一緒に出席し、根本さんが記念講演を行いました。私自身、町長就任以降、コロナ禍で中止になった年を除いて毎年同フォーラムに出席していますが、いまでも全国各地の参加自治体関係者から『矢祭町の合併しない宣言には勇気をもらった』と声をかけられます。国が合併を推し進める中、真っ先にそうした方針を示したことはそれだけ大きなことだったんだと、あらためて感じさせられます。私自身も、根本さんにはいろいろと勉強させてもらいました。その思いを受け継いで、自立のまちづくり、町民の幸せのために努力していきたい」
「全国小さくても輝く自治体フォーラム」は、自律(自立)をめざす小規模自治体の維持と発展をはかることを目的とする交流の場。「平成の大合併」が叫ばれていた2003年に設立された。会員は全国49団体(町村会単位で参加しているところもあるため、実際の自治体数は会員団体数より多くなる)に上る。その中でも、矢祭町は旗手的存在と言えそうだ。
根本氏の後継者である古張前町長と、二度に渡って大接戦の町長選を演じた鈴木正美氏にも話を聞いた。
なお、古張前町長は最初の2007年の町長選は無投票で当選したが、2011年は鈴木氏との一騎打ちとなり、古張氏2360票、鈴木氏2314票の46票差、2015年は古張氏、鈴木氏を含む3人の争いとなり、古張氏2180票、鈴木氏2092票の88票差と、大接戦だった。言い換えると、根本氏の後継路線は盤石ではなかったのだ。
鈴木氏は農業生産法人「でんぱた」を経営している。2008年の町議選で初当選した後、前述した二度の町長選で落選。2016年に町議に返り咲き、2019年の町長選にも立候補したが、現職・佐川氏との新人同士の一騎打ちの末、僅差で敗れた。2020年の町議選で再度町議に復帰した。鈴木氏は根本氏の手法に疑問を持ったことから町議になり、その後、根本氏の後継候補と町長選を繰り広げたのだ。
「政敵」から見た根本氏
「私は根本さんとは考えが違うところがあって、おこがましいですが、それを正そうと思って町長選に立候補しました。といっても、根本さんと直接選挙で争ったことはありませんが、その後継候補を実質根本さんだと思って自分の考えを訴えました。合併しない宣言についても、それ自体は悪いとは思わないが、最初に『合併しない』という町長の考えがあって、そのあとで町民に意見を聞くようなスタンスだった。この小さな町で、町長が『合併しない』と言っているのに、『いや、それはおかしい』と言える人はなかなかいませんよ。要するに、『町民不在のワンマン行政』だった、と。ただ、いまにして思うと、そのくらいでないと国と真っ向からやり合うことはできなかったのかなとも思います。そういう意味では、尊敬できる部分もありましたし、いまは惜しむ気持ちの方が強いですかね」
根本氏と鈴木氏は、町内では長年「政敵」と見られていたフシがあるが、昨年末、酒席で一緒になり、それぞれの思いを語り合ったという。そのため、「鈴木氏は根本派に寝返った」と見る向きもあるようだが、鈴木氏の思いは前記コメントの通り。
根本氏(その後継者)と対峙していた人物だけに、「『町民不在のワンマン行政』だったのではないかと思う半面、そのくらいでないと国と真っ向からやり合うことはできなかったのかなとも思う」というのは妙に納得させられた。いまだったら、そうした手法は受け入れられなかったかもしれないが、当時はそれが求められていたということだろう。
一方で、「根本氏が亡くなったことで、今後の町政などへの影響はありそうか」との問いには、鈴木氏は次のような見解を示した。
「根本さんは町長退任後も大きな影響力を持っていたのは間違いありません。町民は根本さんのもとで、全国から注目されるようなまちづくりを進めてきたといった自負もあるでしょう。ある意味、刺激的だったのです。それが今後はちょっとしたことで、『根本さんが存命のときは、もっとこうだったのに……』という話が出てくるでしょうから、今後影響が出るとしたら、そういった部分でしょうね」
近隣町村選挙への影響

最後に、近隣町村への影響についても述べておこう。
根本氏は近隣町村の選挙にも大きな影響力を持っていたとされる。折しも、同じ東白川郡内で、6月には塙町長選が行われ、9月には棚倉町長選が控えている。
郡内の選挙通は「棚倉町長選では根本氏の影響はそれほどないが、塙町は根本氏の影響下にあったのは間違いない」という。
2004年から3期12年町長を務めた菊池基文氏は根本氏のバックアップを受けて町長に就き、事あるごとに根本氏に相談を持ちかけていたのだという。
その菊池氏が引退した2016年6月の町長選は、元町議の宮田秀利氏、元県議の白石卓三氏、元JA東西しらかわ組合長の鈴木昭雄氏、元教育長の藤田充氏の新人4人による争いとなり、宮田氏が次点以下に1000票以上の差をつけて大勝した。その際の宮田氏陣営の合言葉が「オレたちの町はオレたちで決める」というものだった。
これはすなわち、根本氏の影響を受けていた菊池町政から転換を図るという意味にほかならない。言い換えると、同町はそれだけ根本氏の影響下にあったということでもある。
実際、矢祭町の関係者によると、「宮田町長は矢祭町に対して、あまりいい感情を持っていないと感じることは多々ある」という。
その後、宮田氏は2020年に再選、今回の選挙で3選を果たした(※次頁に関連記事)。「脱・根本氏」の路線が奏功したと言えるが、根本氏が亡くなったことで、その名目も失うことになった。
「確かに、最初の選挙のときは、『自分たちの町のことは自分たちで決めよう』といった思いで一致団結し、選挙に勝利した経緯があります。ただ、近年は根本さんが体調を悪くされていたということもあるでしょうけど、よその町のことにアレコレ言うつもりはない、というスタンスでした。ですから、『自分たちの町のことは自分たちで』というのは、最初のころだけの話ですよ」(宮田氏陣営の関係者)
こうして聞くと、近隣町村の選挙への影響という点では、だいぶ薄れていたようだ。
いずれにしても、根本氏は町内、近隣自治体のみならず、全国の自治体にも多大の影響をもたらした人物であったのは間違いない。その功績を讃えるとともにご冥福をお祈りしたい。