東京電力福島第一原発にたまる汚染水をALPS(多核種除去設備)で処理した水を、海に放出することを差し止めるよう国や東電に求める訴訟が福島地裁で進行中だ。近隣住民や漁業関係者からなる原告は被告の国に放出認可の取り消しを求めるが、国は「個別に具体的な被害を受けていないので原告適格がない」と主張し、裁判の却下を求めている。10月1日に開かれた第3回口頭弁論では、海に親しみ、その恩恵を受けてきたいわき市民が意見陳述し、国の主張が成り立たないことを示した。
終わらない原発事故
訴訟は昨年8月に1回目の海洋放出が始まったことを受け、同9月に福島県近隣の1都5県に住む363人の住民と漁業関係者が放出の差し止めを求めて提訴した。東電は請求棄却を、国は海洋放出の違法性の議論を避けるかのように、裁判自体を門前払いする却下を求めている。
汚染水をアルプス処理しても、放射性トリチウムは取り除けない。他にも除去することになっているヨウ素129、ストロンチウム90などの放射性核種が残留する。東電は海水で希釈して基準値以下にし、海洋放出を強行しているが、汚染源に触れた水が発生し続ける限り、海に放射性物質が拡散し続け、水産物に濃縮する懸念がある。
汚染物質の海洋投棄はロンドン条約で禁じられている。アルプス処理汚染水の海洋放出は国民的な議論を経る必要があるにもかかわらず、県漁連が「賛成でも反対でもない」と態度を明確にしないのをいいことに、漁業者の一部と一般市民が反発する中で強行された。
10月1日に行われた第3回口頭弁論で原告側は、海洋放出で個別の被害を受ける当事者は漁業関係者にとどまらず、海に親しんできた一般市民も含まれることを示した。「海洋国家の日本に暮らし、海に慣れ親しんできた住民たちも、アルプス処理汚染水の海洋投棄によって生活を平穏に受ける権利を侵害された」という主張だ。いわき市在住の原告2人が意見陳述した。
原告団事務局長の丹治杉江さんは、海なし県の群馬県で生まれ育ったため、海への憧れが人一倍強い。ダイビングやシュノーケリングを趣味にし、海は汚してはならず、その豊かな生態系は守らなくてはならないと強く思う。結婚を機にいわき市に移り住んだ。小名浜の花火大会や漁港の祭り、海産物を使ったバーベキューなど、海は身近な存在だった。
国は2015年、アルプス処理汚染水について県漁連と「関係者の理解なしにいかなる処分も行わない」と約束したが、2021年には海洋放出を始めると決め、昨年8月に強行した。丹治さんが憤るのは、県漁連が反対しないことをもって、政府や東電が「合意が得られた」とみなしたことだ。
「『理解なしには』という文言の本来の意味は『同意なしには』という意味のはずです。政府が恣意的に解釈を変えてしまったことは、きわめて大きな問題です。また、理解させる関係者を漁業関係者としていますが、私たち国民・消費者も海洋国家の生活者として無関係ではないはずです。国や東電は、その理解への努力を敢えてしませんでした」
この日陳述したもう1人の原告は、いわき市常磐湯本町で生まれ育ち、菓子店を営む長岡裕子さん。長岡さんは、国からすると「原告適格」はないが、いわきの海で採れた塩を菓子に使っていた。海の恩恵を得て仕事にしているれっきとした当事者だ。
小中高と競泳選手だった長岡さんは、幼少期から自宅から10㌔ほどの海岸に泳ぎに出かけていたという。大人になり市外で生活しても、海は遊び場であり、海水浴を楽しんだ。実家では常磐沖で獲れたヤナギガレイの一夜干しを母が自作するのが恒例で、親戚や友人に振る舞うと喜ばれた。
長岡さんは漁業者ではないが、菓子職人の仕事には海の恩恵が欠かせない。いわき沖の海水から作った塩を使い、焼き菓子やファッジという飴菓子を作っていた。
ところが、原発事故後に製造業者が塩の製造をやめてしまう。製造所にストックしている塩をなんとか提供してもらっていたが、それも尽きた。製造所は製塩事業を諦め転業。長岡さんは、原発事故から長い時間が経てば、いずれは地元産の塩を使った商品が復活するはずと夢見ていたが、海洋放出が長期間続くことを知り、復活の可能性はなくなったと感じた。「いわき産の物を使っている」という菓子職人の自負は傷つけられた。
原発事故直後は魚介類から放射性物質が頻繁に検出され、報道も目にしたが、数年経つと落ち着いた。長岡さんも徐々に放射能汚染を恐れる気持ちが薄れ、両親がいわき沖の魚を恋しがるようになったこともあり、少しずつ地元の海産物を食卓に載せるようになった。ただ海洋放出が始まると知ると、放射性物質が濃縮されやすいとされる魚介類は食べるのを避けるようになったという。そこに至る事情は郷土愛と放射能汚染への恐れが入り交じり複雑だ。
「私にとって地元の海は、心身ともによりどころの一つでしたが、汚染水の海洋投棄が続く今は、私の言動が、誰かに被爆のリスクを負わせてしまうのではないかと気掛かりが拭えずにいます。実際に海洋投棄後には『汚染された食物を避けたい』という理由で、いわき市内での会食を断られたことがありました。福島の海を恐れる人を目の当たりにした時、安心・安全などと押し付けるのがどれほど酷かと思いました」
長岡さんは放射能への恐れと地元産の魚介類を恋しく思う狭間で、自分なりに判断して魚介類を選んで食べていた。会食を断られたエピソードは、海との関わりの中で得ていた故郷への肯定感を深く傷つけるものだったが、「こうした重苦しい気持ちや戸惑いを正確に表す言葉が探せていません」と吐露した。
「風評加害」と口封じ

閉廷後の集会で、長岡さんは、
「正直言って、原発事故とアルプス処理汚染水の海洋投棄に対する地元の人たちの反応は薄い。ただ、実際に会って話をすると、私と同じように不安を口にする方がいます。口をつぐまずに、一市民として声を上げ続けなければならない責任を感じています」
昨今は原発に批判的だったり、放射線を測定したりしていると「風評加害者」とやり玉にあげられ、素朴な不安を吐露することさえ封じられている。政府方針への異論を許さない状況は危険だ。アルプス処理汚染水差し止め訴訟は、異論を封じ込める情勢に抗し、言葉を取り戻す闘いでもある。
東電は9月26日に通算9回目となる海洋放出を開始し、10月14日までに約7800㌧を放出した。トリチウム濃度の最高値は13日採水の33㏃/L(放出基準は1500㏃/L)。これまで最も高かった5月3日の29㏃/Lを上回った。2023年8月の放出開始から、累計トリチウム総量は約12・4兆㏃(年間放出基準22兆㏃)。来年2~3月にはトリチウム濃度34万~40万㏃/Lの処理水約7800㌧を放出する予定。