
「市場」と向き合う
前回、私が「女性編集者」として「女性論客」の役割を引き受けたネット番組への出演をきっかけに、フェミニズム・ジェンダーを語る文脈でいわれる「有徴化」という言葉について取り上げました。マイノリティは名付けられ、徴(しるし)づけられるのに対して、マジョリティは「普通」であるから、徴(しるし)づけられない(無徴化)。例えば、「女流作家」という言葉は、作家は男性であるという前提が反映された言葉であり、マイノリティである女性のみが「女」と名付けられます。
そう。有徴化されるのはもちろん編集者だけではありません。私たちのビジネスパートナーである書き手、作家こそ、その対象となってしまうことが多いと言うべきでしょう。
大型の本屋さんに行くと本のジャンルごとに棚が分けられています。その中には「女性エッセイ・ライトエッセイ」というラベルを頻繁に見かけることがあります。本来文学の担い手は男性であり、女性が書いたものは特殊、あるいは「ライトな(軽い)」ものだという前提が透けて見えるようです。男性である紀貫之が女性に仮託して「ライトな」仮名文字を使用し、『土佐日記』をしたためた平安時代から千年あまり、時が止まってしまっているかのようです。
もちろん、実際に「女性エッセイ・ライトエッセイ」とされるジャンルの本は女性が手に取ることが多く、このような区分けは書店に訪れるお客さんにとって本を探しやすいというメリットがあります。本屋さんも慈善事業ではありませんから難しい問題ではあるのですが、一方でこのような「実益」を重視し続けると、社会に埋め込まれた差別が事実上容認され、温存され続けることになります。
差別が埋め込まれているどころか、現代のビジネスというゲームは構造上、女性差別を欲し、必要としているとすら思われるところがあります。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』(カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社)という本があります。アダム・スミスは経済学の父として知られています。1776年、彼は現代の経済学を決定づける一文として、このように書きました。「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからである」と。では、肉屋から肉を得たとします。その夕飯のステーキは、誰が焼いたのでしょうか?
アダム・スミスは生涯独身だったそうですが、人生のほとんどの期間を同居の母親と過ごしたのだといいます。母親が身の回りの世話をし、いとこが金のやりくりをしました。アダム・スミスが『国富論』を執筆する時間と労力を確保するために、家を掃除し、服を洗濯し、食事を作った誰かの時間と労働は、一般的な経済活動からずっと無視され、価値を与えられず、「無償」であり続けたのだ、という鋭い問題提起をしたのが本書です。
コロナ渦による在宅勤務の広がりで、ちょっとした変化もあったとはいえ、コロナ渦が明けて以降、多くのホワイトカラーの企業で出社回帰が起きました。また、そもそも物流や飲食、介護や医療、工場での勤務などは人が、決まった時間に、家庭から離れて勤務場所に赴き、その場で8時間またはそれ以上の時間を拘束することで成り立っています。
人間はロボットではないので、疲れるし、ご飯を食べなければなりません。子育てや親の介護がある人もいるでしょう。仕事での愚痴を吐くのも、メンタルのケアのためには重要です。そうした家に帰ってから生じる労働は、「再生産労働」と呼ばれます。労働力を再び生み出すために必要不可欠だからです。大人がケアされなければ、子どもが産み育てられなければ、市場は未来の労働力を失います。しかし、繰り返しになりますが、再生産労働は長らくその価値を顧みられることがありませんでした。賃金が支払われることもありません。ゆえにこれらの活動は、影の労働(シャドウ・ワーク)とも呼ばれています。そして多くのシャドウ・ワークが女性たちによって担われてきました。
女性差別と性的役割分業が温存される限り、企業はこうしたシャドウ・ワークにコストを払う必要がありません。家庭で起こるケア労働を搾取しながら、労働力にタダ乗りし、生産活動を続けることができます。しかし、そうした企業活動のあり方は持続可能ではなくなりつつあります。日本を含む多くの先進国で、「再生産」、すなわち出産と育児から撤退する労働者が増加し、次世代の消費者と労働者が減少しました。企業は利益が上げられないからではなく、人手不足によって倒産するという危機に直面するようになりました。労働力を求めて経団連は移民政策の推進を提言し[*1]、外国人を迎え入れるための心づもりもノウハウも用意してこなかった国民は不安に駆られ、社会は分断されつつあります。
このような状況で、企業が取る選択肢が難しいのは、どこか一つの企業が「では私たちが再生産労働のコストを支払いましょう」という先進的な取り組みをしたところで、ほかの企業が「タダ乗り」を続ける限り、その企業はやるだけ損、という状況になってしまいやすいことです。実際に、知人の勤める女性社員比率の高い会社では、子どもの急な発熱などで社員の早退や時短勤務がどうしても増えてしまいがちだそうです。それはよくよく考えてみると、女性社員比率が低い、男性中心的な企業が、女性社員比率の高い企業に「タダ乗り」している構造ともいえます。国全体で男性の育児や介護、ケア労働への参加を促さない限り、企業からも先進的な取り組みがなされることは難しいといえそうです。
「売れる」だけではない本を
私が編集者として、本を作る、売るということを考える時にも、女性や子ども、性的少数者や病者、障害者に向けた本を作るよりも、健康で経済力のあるホワイトカラーの男性に向けた本を作るほうが、ビジネスとして圧倒的に有利であるということはひしひしと感じます。マイノリティは、人口が少なく、経済力にも課題があり、本という、読みこなすのに「教育」が必要とされる媒体を手に取ることにハードルがあるからです。しかし、そうやって従来の価値観や現状を肯定するような本ばかりが出ても、社会の変革には貢献できませんし、何より新規性に乏しいのでコンテンツとして面白くありません。
一方で、マイノリティのほうばかり向いて本を作ってしまうと、商業として成り立たないだけでなく、社会運動としても広がりを持ちません。日本は民主主義国家、多数決で物事が決まる国です。物事を動かそうと思ったらマジョリティを味方につける必要があります。全く正反対の意見を持つ人と対話しても徒労に終わることが多いですが、世の中にはたくさんの「どっちつかず」の人たちがいます。その人たちを巻き込んでムーブメントを作ることが大切です。
社会課題への目線を「面白い」ものを作る際の強みに変えつつ、弱点を補うために「市場」について勉強を続ける。それが「女性編集者」であり、ビジネスパーソンでもある私の課題であると考えています。
[*1]経団連会長、人口減社会「移民へのドア開けないと」(日本経済新聞、2015年7月23日、https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS23H3A_T20C15A7EE8000/)

























