会津若松市の老舗葬祭業「神保」が7月1日に「天恵苑ホールディングス」に社名変更した。同社は創業家体制を脱した2024年に社名変更を予定していたが、株式の権利を巡り、創業家で前取締役の神保直人氏(45)に訴訟を提起され保留。今年6月に現経営陣の勝訴が確定し、変更に至った。鈴木浩二社長(65)は、「創業家社長が経営再建のために株式を社内持株会に譲渡した経緯がある。業績が上向いた後に息子の直人氏は『会社を乗っ取られた』と言わんばかりに提訴した」と語り、法廷闘争に至った真相を打ち明けた。(小池航)
勝利した天恵苑HD社長が語った創業家子弟への怒り


㈱神保(現㈱天恵苑ホールディングス)の「お家騒動」が勃発したのは2024年11月のことだった。創業家出身の社長、故神保光一氏の長男直人氏が、神保の社内持株会が保有する株式の権利確認を求めて地裁会津若松支部に提訴した。もし、この権利が認められれば、現経営陣と対立する直人氏ら創業家が議決権の過半数を得ることになった。
直人氏は21年に取締役を解任されている。株式の権利を主張したのは次のような理由からだった。
①祖母のヨシノ氏が20年に社内持株会に株式を譲渡した手続きは認知機能が低下して意思能力を喪失している中で行われたため無効。息子で当時社長だった光一氏が不正に記名・押印していた。
②ヨシノ氏(23年10月に92歳で死亡)→長男・光一氏(同9月に68歳で死亡)→孫・直人氏と代を跨いで相続する権利があるので、ヨシノ氏が生前に持株会に譲渡した株式は自分のものだ。
25年7月、地裁会津若松支部(島崎卓二裁判官)は直人氏の訴えを認めたものの、二審仙台高裁は一審判決を取り消して請求を棄却。直人氏側は最高裁に上告したが今年6月に現経営陣の勝訴が確定した。
係争が終結したことを受け鈴木浩二代表取締役社長が取材に応じた。
「直人氏の提訴は、はっきり言って因縁でした。創業家の光一氏、ヨシノ氏から社内持株会への株式譲渡手続きは正当に行われたにもかかわらず、『創業家を追い出した乗っ取り』との噂が広まり、これを理由に関係を絶たれた取引先や顧客もあります。高裁判決は手続きには何ら問題がないと正当性を認め、『一審判決は失当』とまで断じています。最高裁で勝訴が確定しましたが、噂のせいで一度失った信頼はなかなか取り戻せません」
怒りは4月号で逆転勝訴を報じた本誌にも向いた。
「『経済人』と称する不確かな情報源に基づいて『鈴木浩二氏が裏ですべてを仕切っている』『実像が気になる』と含みを持たせて書いたことには抗議したい。憶測を呼び悪い印象を与えた。政経東北はえげつない」
「お家騒動」の真相は神保の経営再建と株式の相続問題が絡み合うという。
「発端は経営危機と当時社長だった光一氏の健康問題です。2019年時点で弊社は借入金12億円に対して運転資金が3000万円という倒産の危機に瀕していました。光一氏は大病を患って余命宣告を受けており、責任が持てなかった。金融機関に融資条件の変更を申し出るため、光一氏は私に、代わりに経営を担ってほしいと打診してきたのです」
会津信金「経営陣刷新を」
光一氏は経営再建に当たり、複数の金融機関からの借入金をメーンバンクの会津信用金庫の下に一本化し、借入期間を長期化することで毎月の返済を少なくしたいと申し出た。提示された条件が経営陣の刷新、つまり創業家からなる役員を入れ替えることだった。会津信金が経緯を文書にしたためている。
《神保光一社長の健康不安や社長の長男直人氏(同社取締役)の経営手腕などに懸念があり今後の経営改善策の検討を依頼、同社から経営陣の刷新により経営改善に取り組む決意であることが示され、同社の業績向上と今後の葬祭業の環境変化に対応できるものと判断し、借入金の一本化と借入期間の長期化の要請に応じました》(25年8月27日付報告書より)
光一氏は23年9月に死亡するまで代表取締役社長を務めたが、病床に臥せっている間、実質的に経営を担ったのは鈴木氏だった。19年10月に従業員ら4人と共に取締役に就任。役職は社外取締役兼最高執行責任者(COO)だった。鈴木氏は市内で会員制の割烹「若央」を経営する料理人として知られている(現在は閉業)。
「光一氏は月に1回程度来店するお客さんでした。店主と客の関係で相談を受けたと捉えられているかもしれませんが、そんな単純な話ではありません」
光一氏から後継指名があったとしても金融機関が融資する裏付けにはならない。鈴木氏の経歴に触れる必要がある。会津若松市出身の鈴木氏は、高校卒業後に東京・銀座の料亭で修業。師匠からさらに外食大手のすかいらーくグループに修行に出され、創業者の茅野亮社長の下で店舗経営のノウハウを学ぶ機会を得たと鈴木氏は語る。
「師匠は私を修行に行かせた後は手元に置きたかったようですが、自分としては料理人として早く店を持ちたい気持ちがありました」
知人の紹介で27歳の時、会津若松市に帰り若央を開店した。別に出汁パックの製造販売会社を立ち上げ、百貨店やカタログギフトに出品した。物流事業も行い、メーンバンクは東邦銀行だった。
「社外取締役に就任する前のことです。光一氏は私と事業でつながりを持ちたかったようで、出汁パックを葬儀の引き出物として納品してくれないかと頼まれました。味の助言を受け、製造を依頼している工場まで一緒に視察に行くこともありました。今思うと、私に神保の経営を相談してきたのは、割烹以外の事業も目にしていたことが大きかったのかもしれません」
光一氏から神保の決算資料を見せられ経営相談を受けた時は愕然としたという。
「私は『倒産しかない』と正直に話しましたが、それでも『会社を残したい』と言っていました。光一氏は生前、『直人に経営は任せられない。会社を残すのが大事だ』と口にしていました。光一氏は乱暴な物言いをするが憎めないところがあり、放っておけない人柄でした。10億円以上の借金がある会社ですが、乗りかかった船ということもあり、覚悟しました」
業績が改善するまでは無報酬で、むしろ鈴木氏が新たな負債を被るリスクがあった。自身のメーンバンクには取締役就任を止められた。
「東邦銀行の役員たちに相談したところ、『倒産するから絶対引き受けてはいけない』と釘を刺されました。私はというと楽観的でした。一般客を相手にする葬儀業という業態から現金の入金は絶えず、ダウンサイジングして支出を減らせばキャッシュフローが好転し再建に成功する確率は20%はあると見込みました。まずやるべきことは、赤字を垂れ流していたブライダル事業、馬飼育事業などからの撤退でした。教育施設『日新館』や市外に広げていた葬儀場も売却先を見つけダウンサイジングを図りました」
会津信金は創業家体制の刷新と鈴木氏の取締役就任を要件に借入条件変更に応じた。
「売上高は2億6000万円ほど縮小しましたが、適正規模で増益に転じています。倒産を警告していた東邦銀行からも融資を取り付けるまでに業績は回復しました。新型コロナ禍前に市内ではいち早く家族葬施設に設備投資できたことが大きかった。光一氏が亡くなった後、提訴された後と取締役・従業員が離れていくタイミングは何度かありましたが、残った社員と新たな社員で仕事に打ち込みました。金融機関の支援が途絶えなかった、融資で家族葬施設が整えられた、人材に恵まれた。業績を改善できたのはこの3つが揃ったからと言えます」
2020年には、死期が迫っていた光一氏と母ヨシノ氏が保有する株式を社内持株会に譲渡した。もし2人が大量の株式を持ったまま死亡した場合、直人氏が相続し、相続税は数億円単位になる試算だった。創業家が個人的に支払える額ではなく、会社の資産が流用される懸念があったという。
同社は株式の相続・贈与に対して課される税金を非課税にしたり低額にしたりできる利点がある「配当還元方式」を採用して、役員持株会と従業員持株会が光一氏とヨシノ氏から買い取る方針を決めた。鈴木氏によると、両持株会への株式譲渡は光一氏が主導し、証券会社も関与していたという。ヨシノ氏の説得も司法書士同席の下、光一氏が行っていた。
「ヨシノ氏に会って承諾を得たのは光一氏です。認知症があることは私も知らなかった。会社のトップと大株主である母親との間で行われたことであり、直人氏が相続税を負担するのを逃れる目的がありました。直人氏が『譲渡が創業家に損害を与えた』と言うのなら、主導した光一氏に責任を求めるのが筋です。『認知症に乗じて株式を不正に獲得した』という提訴理由も譲渡から4年後に言い出したことです」
長年従業員として勤めていた鈴木晃代表取締役専務(64)は、直人氏の勤務態度を振り返った。
「会社のお金と私的なお金の区別がついていませんでした。会社のクレジットカードを業務とは関係のないことに使い、毎月の限度額である100万円に達していました。夜に飲食店で使って超えた分はツケで処理し、超過分の領収書を会社に持ってくることもありました」
「株を買ってほしい」
直人氏は21年に取締役を解任された後も従業員として残った。鈴木社長の判断だったという。
「創業家体制を刷新し一族ではない新たな体制で経営を進めるのが会津信金から出された借入一本化の条件でした。解任は光一氏の意向を受けたものです。私は温情措置で病床の光一氏には伏せたまま直人氏を子会社の従業員に雇いました。給料を払い、それとは別に株式を担保にお金を貸していたので、毎月120万円は手にしていたはずです。ところがほとんど出勤することはなく、その間に訴訟を起こしてきたので解雇しました。光一氏の妻であった優子氏はブライダル事業を担当する取締役でした。赤字経営に改善が見られず、事業から撤退するに当たり方針の違いから解任に至りました」
直人氏が解任された21年9月ごろ、本人が会社を訪ね「持株会の株を買い取るので現経営陣を入れ替えたい」と申し出た。だが、株価や相続税など具体的な話をすると「そのような資金は用意できていない」と帰っていき、話は立ち消えになった。3年後、直人氏は逆に「自分が持っている株式を買い取ってほしい」と会社を訪ねてきたという。
「東京の弁護士を引き連れて24年2月に相談に来ました。以前会社と顧問契約を結んでいた弁護士です。先方には株価の算定を税理士に依頼する必要があるので額が決まってから返事すると伝えましたが、いざ買い取ろうと連絡しても返事がありません。ある日突然、弁護士から『争いになると思うので私はこれで手を引く』と連絡がありました。あとはご存じの通り裁判です」
勝訴で終結するまでには1年半を要したが失った機会は大きかった。
葬祭ホール建て替えが停滞

「業績が上向き、内部留保も積み上げさらなる設備投資に踏み切ろうと考えていた時の提訴でした。直人氏のことは許せません。葬儀場のセレモニーホール天恵苑を新しくする計画が滞りました。24年9月には着工して25年3月には完成の予定だったんです。今では資材高騰で倍の費用が掛かります」
24年中には天恵苑ホールディングスへの名称変更を考えていたがこれも保留となり、勝訴が確定した後の今年7月に社名変更した。
「1月に仙台高裁で逆転勝訴判決が出た時点で変えようとは決めていました。禍根を残した創業家が関与していないことを示し、イメージを払拭したい。何よりも神保という社名を変えたいと望んでいたのは社員たちです。約30年前にセレモニーホールに冠された天恵苑の名は、公募で市内の方が考案しました」
訴訟の影響で市内では「乗っ取り」の風評が広まり、社員への風当たりも強かったという。顧客対応や同業者の会合に出席する機会が多い鈴木晃専務が振り返った。
「知り合いは、すれ違うと無言で肩を叩いて去っていきました。『創業家を裏切って会社を乗っ取ったような者がやっている会社とは契約しない』という電話も来ました。同業他社も弊社の顧客を奪おうと喧伝して回っていたようです。訴訟を機に辞めていった社員もたくさんいます。私が辞めなかったのは、取締役として今さら逃げ出すことはできないという思いからでした。勤めた給料で子どもを育て上げ、親もここの斎場で見送りました。会社に恩を感じています」
鈴木浩二社長が最も大切にしているのは、従業員が幸せに働くことだという。
「自分の生活防衛ばかり考えるトップでは、従業員は付いてきません。従業員が一人一人幸せになれば、お客様へのサービスもより向上し、会社は必然的に良くなるはずです」
人口減少が進む地方都市において、描く生存戦略は明快だ。
「目の前のお客様を大切にし、地域で一番になれば生き残れる」
直葬の増加にも対応する構えで、既存の部屋を転用するなど、常に利用する側の視点で予測を立て、素早く展開を変えることを重視しているという。最後に、自身の今後について冷静に語った。
「再建を果たせたとは言え、私自身、これまでの経験に縛られて『老害』になる可能性がある。勘が狂いだしたら辞めるしかない。その時は若い人たちの新しい感覚が頼りです」
取材後記
取材動機を誤解する読者は一定数いる。今回も一連の記事(25年11月号、26年4月号)に「今の経営陣から書いてと頼まれたんだろう」と問い合わせが来たが違う。偶然出合ったニュースだった。きっかけは、昨年5月に地裁会津若松支部で会津若松市職員が公文書偽造に問われた裁判を傍聴した時だった。日程表に㈱神保を被告とする民事裁判があり創業家と係争中だと分かった。そもそも、天恵苑から頼まれて書いた記事だったら4月号記事は鈴木社長の怒りを買うことはなかっただろう。訴訟終結と社名変更を受けて鈴木社長にインタビューを申し込んだところ、記事について抗議を受けた。抗議は重く受け止める。一方で事前に原稿を見せてほしいという要求は断った。
一連の記事には創業家側からも物言いが付いた。昨年11月号で初報後、神保姓を名乗る女性から「誰の許可を得て報じているのか」と電話が掛かってきた。取材経緯を話し、誰の許可も必要ないことを説明し終えた後、「(前取締役の)優子氏か」と聞き返すと「違う」「私は当事者ではない」と言って電話は切れた。





















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