【武塙麻衣子】ゆうべ、酒場で

【武塙麻衣子】ゆうべ、酒場で

武塙麻衣子 たけはな・まいこ

1980年神奈川県生まれ。作家。立教大文学部卒。2024年「酒場の君」(書肆侃侃房)で作家デビュー。「西高東低マンション」(講談社)発売中。2026年夏に「一角通り商店街のこと」(小学館)が発売予定。

※photo by Yusuke Nakanishi

一皿め 東京・墨田区八広「日の丸酒場」

春の夕方というのは、なんとなく外出したくなる。原稿を書き終えて窓の外を見るとまだ冷たそうな風が吹いてはいても、日が長くなりつつあることが日々わかる。

その日もそんなような午後で、原稿を済ませればあとは特に予定もなく、私はふと「肉豆腐が食べたい」と思った。思いついた瞬間、行き先まで決まってしまうことがある。今日こそ八広の日の丸酒場だ。今日こそ、というのには少しわけがあり、先日友人に八広の日の丸酒場へつれて行ってもらった時、私はどうも体調が芳しくなく、貧血をおこしてしまったのだ。瓶ビールをひとくち飲む度に顔が紙のように白くなっていって怖かった、と友人がのちに言っていた。その時注文した肉豆腐だけはなんとか食べ終えて、よろよろとお店をあとにしたのだが、肝心の味がちっともわからなかった。それで日の丸酒場には絶対にもう一度行きたいと思っていたのだった。

京成線の小さな駅を降りると、目の前には広い道路が通っている。高架下にコンビニが一軒とドラッグストアはあるけれど、その他に商店らしきものはあまりない。背の高いマンションがあちこちに建っているので、人はたくさん暮らしているのだろう。線香花火のような匂いがすんと微かに漂って消えた。古い家々、祭儀場、ピンクの建物の幼稚園。みんなどこで買い物をするんだろう。私は、少し歩いて道路と反対側を流れる荒川を見に行った。川の周りは整備されていて、犬たちがそれぞれの飼い主さんとのんびり歩いている。冬の終わりを彼らはきっとよくわかっているのだろう。どことなくみな顔つきが幸せそうだ。

私まで嬉しくなって階段を降り、駅の方へ戻ると、入り口にちょうど暖簾がかけられていた。

「いらっしゃい。どこでもどうぞ」

声をかけられ、コートを脱ぎながら、L字型カウンターの端に腰を下ろした。後ろの和室では、もとは女将さんで引退されたのであろう方が、畳の真ん中の座椅子に座ってチクチクと縫い物をされていた。

「こんにちは」

小さく頭を下げる。私がここに座ってしまうと、彼女の位置から壁の端に掛けられたテレビはきちんと見えるだろうか。そういえば今日は大相撲が始まって五日目だ。

「ボールと肉豆腐をください」

注文すると、すぐに焼酎ハイボールがカウンターの上に出てきた。炭酸の瓶を勢いよくグラスの上でひっくり返し、そこにジンロの瓶に入った秘伝のエキスが足される。レモンも氷も無しのさらりと薄い茶色の飲み物からはシュワシュワと泡が立ちのぼっていて最初のひとくちで喉と胃がさっと楽になる。本当はそうたくさん原稿が進んだわけではなかったけれど、それでも「よし!

今日は終わりだ!」と思えるようになる潔い飲み物だ。やがて、肉豆腐の皿がことんとおかれた。ここの肉豆腐は甘すぎず、醤油の香りがしていて、けれど出汁のせいなのか全体的にやわらかい。豆腐が味を含みすぎないのも牛肉がほろほろしていることもネギがしゃきしゃきなのもぜんぶ美味しい。置いてくださった七味唐辛子をさささと振って、前を見ると大小の鍋が置かれた銀色のコンロスペースの上にもラップでくるんだ短冊が並んでいる。ボールのお代わりをください、と言いかけると、

「カウンターに空いたグラスをおけばお代わりはすぐ注いじゃうからね」

とのこと。わんこそばみたいだ。

「あちらの短冊からも注文してもいいですか」

こくりと頷いてくださったので、春巻きをお願いします、と私も頭を下げた。揺らさないように集中してカウンターから持ち上げたグラスの表面張力でぷっくりしているボールに唇をつけてすすすっと吸い込むとき、吸血鬼のような気持ちが一瞬してにやりとしてしまう。にやりとすると張力がゆるまってぱしゃりとこぼれる。気を散らした罰だ。

「はい、春巻き」

こんと置かれたお皿には焦げ茶色にかりっと仕上がった春巻きが湯気を立てていて、熱いから気をつけてと一枚ふわりと手渡されたティッシュはレモンのためだ。からしをつけてさくりとかじると確かに熱い。それから美味しい。目を細めながら厨房を見ているとボールに使う炭酸の蓋をよこのゴミ箱にぽーいと捨ている感じが楽しかった。後ろの小上がりには男性が三人いて、しめ鯖もおさしみも唐揚げも肉豆腐も遠慮なくどんどんいく。人数が多いとたくさん食べることができていいなあ。テレビから降ってきた髙安関のインタビューにみんなそれぞれの飲み物を手にほうっとテレビを見た。お店の高い位置に置かれたテレビから流れてくる相撲の良さを私は酒場で知った。

肉豆腐を食べてみよう

しばらくしてグラスをカウンターに置くと、本当にもう一杯、ボールをたっぷり注いでもらえた。

「あと、焼きおにぎりと肉豆腐のお代わりをお願いします」

また食べるんだ、という顔はされなかったと思う。私もこれ以上ない澄まし顔で告げたし。網の上の焼きおにぎりをひっくり返した後にパンパンと手を打っていたのが良かった。一緒に出してくださったアサリのお味噌汁もお酒とは別の方法でじんわり体中にしみわたる。ふと見ると、カウンターの中で作業されているお二人は、お揃いのぱりっとした白衣を着ていて、その胸元には日の丸という字が色違いで刺繍されていた。ふたりの好きな色がそれぞれあるのだと思うと素敵だ。お代わりの肉豆腐を受け取って、食べながらふと思う。この料理は店によってどれくらいの違いがあるのだろう。煮込み料理というのは家ごとに味が違う。ならば、もちろん店ごとだって違うはずだ。甘いのか辛いのか、牛もあれば豚だってあるだろう。豆腐ひとつとっても木綿か絹でかなり変わるはず。そう考えたら面白くなってきて、そうだ、いろいろなお店でその店の肉豆腐を食べてみようという気持ちになった。その最初の一皿が八広だ。

そろそろ帰ろうと席を立って会計を済ませ、引き戸を開けると、すっかり夜が始まっていた。外に出ると、さっき少し歩いた道に街灯の色がぽつりぽつりと付き始めていた。行き交う車の量も増えて風は冷たいけれど、それでもまだ少し甘い春が漂っている。そんなことを思いながら、高架下の改札へ向かった。福島の肉豆腐もぜひ食べてみたい。

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『西高東低マンション』武塙麻衣子

連載「ゆうべ、酒場で」の著者・武塙麻衣子の最新作。家・街・人生の地形を、酒場の温度で書き写す。

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