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鏡田辰也

  • 鏡田辰也アナウンサー「独立後も福島で喋り続ける」

     ラジオ福島の名物アナウンサー・鏡田辰也さん(58)が9月末で退社し、フリーアナウンサーとして独立した。大きな節目を迎えたタイミングで、アナウンサー人生と独立の理由について語ってもらった。  かがみだ・たつや 1964年2月生まれ。広島県出身。東洋大卒。1988年にラジオ福島入社。2002年にギャラクシー賞DJパーソナリティー賞受賞。TUF「ふくしまSHOW」にも出演。9月末、ラジオ福島を退社し、フリーアナウンサーとなった。  「テレビ出演時、顔にメイクをしたら、お肌に異変を感じたんです。深刻な病気かと思い、すぐ皮膚科に相談したら、『老人性イボですね』と言われて終わりでした。ワハハ」  ラジオからにぎやかな笑い声が流れる。平日13時から16時、ラジオ福島で放送されている生ワイド番組「Radio de Show(ラジオでしょう)」の一幕だ。  マイクの前に座るのは水・木曜日担当の鏡田辰也さん。〝カガちゃん〟の愛称で知られ、同社で30年以上喋り続ける人気アナウンサーだ。  冒頭のようなエピソードを話しつつ、番組に訪れるゲストの話も引き出し、リスナーから寄せられたメールを逐一紹介して話を広げていく。  同社のスタジオはすべて一人で操作する「ワンマンコントロール」。生ワイドはやることが多いので、制作ディレクターが1人付いているが、CMまでの時間管理や放送機材操作は基本的に鏡田さんが担う。ほぼ1人で番組を進行しているわけ。  驚かされるのはトーク内容に関する台本すら全く用意していないということだ。 3時間の生ワイド放送中はトークしながら試食も担当し、放送機材(写真下)も操作するなど大忙し  「時間になったらマイクの前に座って話すだけ。典型的な『アドリブ派』です。昔から読書と映画が好きで、自宅には数百冊の蔵書と大量のブルーレイ・DVDがあります。それらの〝引き出し〟があるからよどみなく話せるのかもしれません」  その能力を生かし、ラジオDJのほか、講演会、イベント、結婚式のMC(司会)なども数多く務めてきた。2020年には、テレビユー福島で毎週水曜夜7時から放送されている地域情報バラエティー番組「ふくしまSHOW」のMCに起用された。他局ではニュースや人気バラエティー番組が放送されている時間帯だが、視聴率は好調で、「『いつもテレビ見ています』と声をかけてくれる方が多くなりました」と笑う。  1964(昭和39)年2月5日、広島県広島市生まれ。実家はJR広島駅前で宿泊業を営む。小さいころから一人で喋り続け、周りの大人からは「客商売向きだ」、「よしもと新喜劇に行け」と言われていた。  東京に行きたくて東洋大に進学。3年生のとき、大学生協の購買部で「東京アナウンスアカデミー」というアナウンス専門学校のチラシが目に入った。「家業を継ぐ前に、きれいな日本語を身に付けるのもいいかも」。気軽な気持ちで入校し、アナウンス技術を学ぶうち、「広島に帰る前に、何年かアナウンサーをやってみたい」と思うようになった。 4年目に迎えた転機  就職活動本番。全国のテレビ・ラジオ局を30社ぐらい受けたが全滅した。既卒となると採用のハードルがさらに上がるため、〝自主留年〟して、翌年も就職活動に再挑戦したが、すべて落ちた。  あきらめて他業種に就職するつもりだったが、2月になって、専門学校から「ラジオ福島で欠員募集が出た」と連絡が入った。ラジオ福島はは2年連続で入社試験に落ちていた。あきらめ半分で試験に臨んだところ、まさかの「内定」が出た。  〝滑り込み〟で始まったアナウンサー人生だったが、入社直後も苦難が続いた。  「先輩方から『暗い』、『笑い方が変』と毎日注意を受け、自社制作CMには『鏡田以外で』と指定が入ったほど。笑うこと、話すことがうまくできなくなり、いつも下を向いて歩いていました。任される仕事は時刻告知や列車情報を読み上げるぐらいで、中継や番組には使ってもらえませんでした」  転機となったのは入社4年目。JR福島駅前からの中継を任されたとき、スタジオにいる先輩アナウンサーから「そこで美空ひばりの曲を歌って」と〝無茶振り〟された。思い切って「真赤な太陽」を歌ったら、思いがけず観衆から拍手をもらった。  「たとえ自信が無くても一生懸命やる姿を見せることが大事なのか」。鏡田さんの中で何かが吹っ切れた。  「笑う門には福来る」をモットーに、気取らずに笑って話すことを心掛けた。しばらくすると、夜11時から放送されていた「rfcロックトーナメント」という若者向けの音楽番組を任されるようになった。  自分の好きなアーティストの応援ハガキを送り、その数でランキングが決まるシステムが売りだった。当初こそ前任の女性アナと比較されたが、気取らない鏡田さんのキャラはすぐリスナーに受け入れられた。何より音楽を好んで聞いていた鏡田さんに打ってつけの内容だった。番組には毎月5000通ものハガキが寄せられた。  音楽関係者も注目するようになり、ビッグアーティストが東北でPRキャンペーンを展開するとき、番組を訪れるようになった。  入社7年目の1995年4月には、鏡田さんをメーンMCとするお昼の生ワイド番組「かっとびワイド」がスタートした。  曜日ごとに選ばれた相手役のパーソナリティーはいずれも曲者ぞろい。思ったことは何でも口にする昭和2年生まれの「ハッピーチエちゃん」こと二宮チエさん。豪快なトークが持ち味の演歌歌手・紅晴美さん。鏡田さんの私生活も容赦なくネタにするお笑いコンビ・母心(ははごころ)。  そんなメンバーからの厳しい〝ツッコミ〟に対し、鏡田さんが変幻自在のトークで「笑い」にして返す。にぎやかで予測不能な掛け合いが評判を集め、同社の看板番組となった。その後タイトルを変えながら、25年以上にわたり放送され続けている。  「『鏡田さんの笑い声を聞くと元気が出る』というお便りをたくさんいただきました。私にとっては宝物で、いまも大切に保管してあります」  同番組でのトークが評価され、2002(平成14)年には、放送批評懇談会が主催するギャラクシー賞のDJパーソナリティー賞を、地方局のAMラジオアナウンサーとして初めて受賞した。  2005(平成17)年には、TBSをはじめとするJNN・JRN系列各局の優秀なアナウンサーに与えられる「アノンシスト賞」のラジオフリートーク部門で最優秀賞を受賞。就職活動も新人時代も〝落ちこぼれ〟だった鏡田さんが、全国に認められるアナウンサーとなった。 退社を決断した理由  一方で挫折もあった。東日本大震災・東京電力福島第一原発事故発生直後には、深刻な状況に直面して何も喋れなくなった。3・11から5日後、上司である大和田新アナウンサー(当時)に退職を申し出た。大和田さんにはこう励まされた。  「今はつらいかもしれないけれど、福島県が鏡田の声を必要とするときがきっと来る。それがいつなのか約束できないけど、いまは歯を食いしばって頑張ってくれ」  同社では発災時から350時間にわたりCMをカットして連続生放送を行った。鏡田さんもスタジオに入り、情報を伝え続けた。必死過ぎてそのときの記憶はほとんど残っていないという。  ただ同年5月、郡山市内のホテルで震災・原発事故後初めて開かれたイベントはよく覚えている。紅晴美さんや母心とのイベントに多くのリスナーが集まった。その姿を見て、イベント開始直後から涙が止まらなくなった。これからも自分にしかできない明るい放送をリスナーに届け続けよう――そう決意した。  そんな鏡田さんがこの秋、大きな決断をした。定年退職前にラジオ福島を退社し、フリーアナウンサーとなったのだ。  「4月に編成局長を任されたが、局長職業務を完璧にこなしながら、放送やイベントの仕事をいままで通り続けるのは、自分には難しいと感じました。しばらく考えた結果、アナウンサーとしての仕事を自分のペースで続けたい、という思いが勝った。そのため、会社と話し合って退職を決めました。おかげさまで独立後もラジオ・テレビのレギュラー番組は継続させていただいています」  卓越したMCスキルとアナウンス技術、30年以上の経験、幅広い人脈……これらを備えたアナウンサーは全国でもまれで、一層の活躍が期待されるが、鏡田さんはこう語る。  「ラジオは喋り手が身近な存在に感じられるし、スマホでも聞ける。さらには『ながら聞き』できるなど大きな可能性を秘めている。これからもラジオに関わり続けたいし、テレビでは地域密着型番組も担当しているので、明るい放送で福島県を盛り上げていきたい」  今日もスピーカーから明るい笑い声が流れてきた。太陽のような〝カガちゃん〟の存在が福島県を明るく照らし続ける。

  • 鏡田辰也アナウンサー「独立後も福島で喋り続ける」

     ラジオ福島の名物アナウンサー・鏡田辰也さん(58)が9月末で退社し、フリーアナウンサーとして独立した。大きな節目を迎えたタイミングで、アナウンサー人生と独立の理由について語ってもらった。  かがみだ・たつや 1964年2月生まれ。広島県出身。東洋大卒。1988年にラジオ福島入社。2002年にギャラクシー賞DJパーソナリティー賞受賞。TUF「ふくしまSHOW」にも出演。9月末、ラジオ福島を退社し、フリーアナウンサーとなった。  「テレビ出演時、顔にメイクをしたら、お肌に異変を感じたんです。深刻な病気かと思い、すぐ皮膚科に相談したら、『老人性イボですね』と言われて終わりでした。ワハハ」  ラジオからにぎやかな笑い声が流れる。平日13時から16時、ラジオ福島で放送されている生ワイド番組「Radio de Show(ラジオでしょう)」の一幕だ。  マイクの前に座るのは水・木曜日担当の鏡田辰也さん。〝カガちゃん〟の愛称で知られ、同社で30年以上喋り続ける人気アナウンサーだ。  冒頭のようなエピソードを話しつつ、番組に訪れるゲストの話も引き出し、リスナーから寄せられたメールを逐一紹介して話を広げていく。  同社のスタジオはすべて一人で操作する「ワンマンコントロール」。生ワイドはやることが多いので、制作ディレクターが1人付いているが、CMまでの時間管理や放送機材操作は基本的に鏡田さんが担う。ほぼ1人で番組を進行しているわけ。  驚かされるのはトーク内容に関する台本すら全く用意していないということだ。 3時間の生ワイド放送中はトークしながら試食も担当し、放送機材(写真下)も操作するなど大忙し  「時間になったらマイクの前に座って話すだけ。典型的な『アドリブ派』です。昔から読書と映画が好きで、自宅には数百冊の蔵書と大量のブルーレイ・DVDがあります。それらの〝引き出し〟があるからよどみなく話せるのかもしれません」  その能力を生かし、ラジオDJのほか、講演会、イベント、結婚式のMC(司会)なども数多く務めてきた。2020年には、テレビユー福島で毎週水曜夜7時から放送されている地域情報バラエティー番組「ふくしまSHOW」のMCに起用された。他局ではニュースや人気バラエティー番組が放送されている時間帯だが、視聴率は好調で、「『いつもテレビ見ています』と声をかけてくれる方が多くなりました」と笑う。  1964(昭和39)年2月5日、広島県広島市生まれ。実家はJR広島駅前で宿泊業を営む。小さいころから一人で喋り続け、周りの大人からは「客商売向きだ」、「よしもと新喜劇に行け」と言われていた。  東京に行きたくて東洋大に進学。3年生のとき、大学生協の購買部で「東京アナウンスアカデミー」というアナウンス専門学校のチラシが目に入った。「家業を継ぐ前に、きれいな日本語を身に付けるのもいいかも」。気軽な気持ちで入校し、アナウンス技術を学ぶうち、「広島に帰る前に、何年かアナウンサーをやってみたい」と思うようになった。 4年目に迎えた転機  就職活動本番。全国のテレビ・ラジオ局を30社ぐらい受けたが全滅した。既卒となると採用のハードルがさらに上がるため、〝自主留年〟して、翌年も就職活動に再挑戦したが、すべて落ちた。  あきらめて他業種に就職するつもりだったが、2月になって、専門学校から「ラジオ福島で欠員募集が出た」と連絡が入った。ラジオ福島はは2年連続で入社試験に落ちていた。あきらめ半分で試験に臨んだところ、まさかの「内定」が出た。  〝滑り込み〟で始まったアナウンサー人生だったが、入社直後も苦難が続いた。  「先輩方から『暗い』、『笑い方が変』と毎日注意を受け、自社制作CMには『鏡田以外で』と指定が入ったほど。笑うこと、話すことがうまくできなくなり、いつも下を向いて歩いていました。任される仕事は時刻告知や列車情報を読み上げるぐらいで、中継や番組には使ってもらえませんでした」  転機となったのは入社4年目。JR福島駅前からの中継を任されたとき、スタジオにいる先輩アナウンサーから「そこで美空ひばりの曲を歌って」と〝無茶振り〟された。思い切って「真赤な太陽」を歌ったら、思いがけず観衆から拍手をもらった。  「たとえ自信が無くても一生懸命やる姿を見せることが大事なのか」。鏡田さんの中で何かが吹っ切れた。  「笑う門には福来る」をモットーに、気取らずに笑って話すことを心掛けた。しばらくすると、夜11時から放送されていた「rfcロックトーナメント」という若者向けの音楽番組を任されるようになった。  自分の好きなアーティストの応援ハガキを送り、その数でランキングが決まるシステムが売りだった。当初こそ前任の女性アナと比較されたが、気取らない鏡田さんのキャラはすぐリスナーに受け入れられた。何より音楽を好んで聞いていた鏡田さんに打ってつけの内容だった。番組には毎月5000通ものハガキが寄せられた。  音楽関係者も注目するようになり、ビッグアーティストが東北でPRキャンペーンを展開するとき、番組を訪れるようになった。  入社7年目の1995年4月には、鏡田さんをメーンMCとするお昼の生ワイド番組「かっとびワイド」がスタートした。  曜日ごとに選ばれた相手役のパーソナリティーはいずれも曲者ぞろい。思ったことは何でも口にする昭和2年生まれの「ハッピーチエちゃん」こと二宮チエさん。豪快なトークが持ち味の演歌歌手・紅晴美さん。鏡田さんの私生活も容赦なくネタにするお笑いコンビ・母心(ははごころ)。  そんなメンバーからの厳しい〝ツッコミ〟に対し、鏡田さんが変幻自在のトークで「笑い」にして返す。にぎやかで予測不能な掛け合いが評判を集め、同社の看板番組となった。その後タイトルを変えながら、25年以上にわたり放送され続けている。  「『鏡田さんの笑い声を聞くと元気が出る』というお便りをたくさんいただきました。私にとっては宝物で、いまも大切に保管してあります」  同番組でのトークが評価され、2002(平成14)年には、放送批評懇談会が主催するギャラクシー賞のDJパーソナリティー賞を、地方局のAMラジオアナウンサーとして初めて受賞した。  2005(平成17)年には、TBSをはじめとするJNN・JRN系列各局の優秀なアナウンサーに与えられる「アノンシスト賞」のラジオフリートーク部門で最優秀賞を受賞。就職活動も新人時代も〝落ちこぼれ〟だった鏡田さんが、全国に認められるアナウンサーとなった。 退社を決断した理由  一方で挫折もあった。東日本大震災・東京電力福島第一原発事故発生直後には、深刻な状況に直面して何も喋れなくなった。3・11から5日後、上司である大和田新アナウンサー(当時)に退職を申し出た。大和田さんにはこう励まされた。  「今はつらいかもしれないけれど、福島県が鏡田の声を必要とするときがきっと来る。それがいつなのか約束できないけど、いまは歯を食いしばって頑張ってくれ」  同社では発災時から350時間にわたりCMをカットして連続生放送を行った。鏡田さんもスタジオに入り、情報を伝え続けた。必死過ぎてそのときの記憶はほとんど残っていないという。  ただ同年5月、郡山市内のホテルで震災・原発事故後初めて開かれたイベントはよく覚えている。紅晴美さんや母心とのイベントに多くのリスナーが集まった。その姿を見て、イベント開始直後から涙が止まらなくなった。これからも自分にしかできない明るい放送をリスナーに届け続けよう――そう決意した。  そんな鏡田さんがこの秋、大きな決断をした。定年退職前にラジオ福島を退社し、フリーアナウンサーとなったのだ。  「4月に編成局長を任されたが、局長職業務を完璧にこなしながら、放送やイベントの仕事をいままで通り続けるのは、自分には難しいと感じました。しばらく考えた結果、アナウンサーとしての仕事を自分のペースで続けたい、という思いが勝った。そのため、会社と話し合って退職を決めました。おかげさまで独立後もラジオ・テレビのレギュラー番組は継続させていただいています」  卓越したMCスキルとアナウンス技術、30年以上の経験、幅広い人脈……これらを備えたアナウンサーは全国でもまれで、一層の活躍が期待されるが、鏡田さんはこう語る。  「ラジオは喋り手が身近な存在に感じられるし、スマホでも聞ける。さらには『ながら聞き』できるなど大きな可能性を秘めている。これからもラジオに関わり続けたいし、テレビでは地域密着型番組も担当しているので、明るい放送で福島県を盛り上げていきたい」  今日もスピーカーから明るい笑い声が流れてきた。太陽のような〝カガちゃん〟の存在が福島県を明るく照らし続ける。