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2022年12月号

  • 【福島県ユーチューバー】車中泊×グルメで登録者数10万人【戦力外110kgおじさん】

    【櫻井・有吉THE夜会で紹介】車中泊×グルメで登録者数10万人【戦力外110kgおじさん】福島県ユーチューバー

     テレビ離れが進む昨今、ユーチューブの全世代の利用率は9割だ。本誌の読者層であるシニア世代も、パソコンやスマートフォンで毎日のようにユーチューブを見ている人は多いはず。数あるチャンネルの中には、県内で活動するユーチューバーも多数存在する。その中に、異色のジャンル「車中泊&グルメ」系で人気を誇る「戦力外110kgおじさん(43歳)」がいる。なぜ視聴者はこのチャンネルにハマるのか、本人へのインタビューをもとに、その謎に迫ってみたい。 【戦力外110kgおじさん】福島県内在住おじさんユーチューバーの素顔 https://www.youtube.com/watch?v=_SxScudMxQ8&t=23s  週末夜のキャンプ場。辺り一面、真っ暗の中、ポツンと明かりが灯る1台のプリウス。その車の後部座席で、一人焼肉をしながらチューハイ「ストロングゼロ」をキメる――。そんな様子をユーチューブに配信している男性がいる。男性の名は「戦力外110kgおじさん」(以下、戦力外さんと表記)。戦力外さんのユーチューブのチャンネル登録者数は10・5万人。1つの動画が配信されれば20万回再生するのは当たり前で、中にはミリオン(100万回再生)に届きそうな動画も複数ある。  「110kg」という名の通りの巨漢が、決して広いとは言えないセダンタイプのプリウスの後部座席で、好きなものをたらふく食べ、大酒を飲む。そんな動画がなぜ多くの人に見られ、そして見続けられるのか。  戦力外さんの動画はチャンネルを開設してすぐに〝バズった〟(人気が出た)わけではない。  戦力外さんがユーチューブに動画を配信し始めたのは2020年2月。当初は釣りの動画を配信していたが、再生回数は数十回程度で、チャンネル登録者数も伸びなかった。  浮上のきっかけとなったのは「顔出し」だった。   戦力外さんは「正直なところ、40代である自分らの世代ってネットで顔出しするなんて気が狂っているというか、抵抗があったんですよね」と話す。今の40代は、匿名性の高い「2ちゃんねる」などを見てきた世代であり、「インターネットでは絶対に顔を出すな」と言われてきた世代でもある。それでも、戦力外さんは再生回数を伸ばしたい一心で顔出しを決意した。  「顔出ししたら登録者が100人を超えたんですよ。ユーチューブには『チャンネル登録者数100人の壁』というのがあります。そこを自力で超えられると、収益化の条件である『チャンネル登録者数1000人・総再生時間4000時間』に近づくと言われています。大体の人はこの100人の壁を超えられず、やめてしまうみたいですね」  チャンネル登録者数100人に達するまで7カ月を要した戦力外さんだったが、そこから1000人になるまでは、わずか3カ月だった。  顔出しと前後して、現在の動画の原点となる「プリウスの快適車中泊キットを110kgおじさんがDIY」という動画を配信したことも追い風となった。  プリウスの後部座席で使う食卓テーブル兼ベッドを作る動画だ。プリウスは後部座席を倒してフラットにしても、普段座るときの足置きのスペースがぽっかり空いてしまう。寝袋を敷いて寝ていると、どうしても足の部分がはみ出てしまい快適に眠れない。それを解決するために作られたのがこの台だった(写真)。このときの動画が初めて再生回数1000回を超え、戦力外さんにとって初バズり動画となった。戦力外さんは「釣りではなく、車中泊に需要があるのか!」と気付き、動画の内容を車中泊系へと変更していく。 車内に設置された食卓テーブル兼ベッド  2度目のバズり動画は「車上生活者の休日シリーズ」。その後、このシリーズが戦力外さんの主力コンテンツとなっていく。 戦力外さんは「このシリーズの第1弾で、いきなり1万回再生いったんです」と言う。  「再生回数が伸びた理由は、当時チャンネル登録者数20万人のユーチューバーさんが動画にコメントをくれたからなんです」  コメントの内容は「あなたみたいな人が、もしかしたらユーチューブで成功するのかもしれませんね。収益化するまで是非続けてください。わたしも応援します」だった。  ユーチューブに限らずSNSではよく起こる現象だ。多くのフォロワーやファンを持つ配信者(発信者)が、無名ユーチューバーの動画を一言「面白い」と紹介しただけで、瞬く間にその動画が拡散されていく。これをきっかけに戦力外さんは、収益化の条件であるチャンネル登録者数1000人・総再生時間4000時間を達成した。 動画を通じて疑似体験  動画の冒頭は、戦力外さんが車中泊をする場所に向かう道中の運転席を映している。無言で運転する戦力外さんが映し出され、テロップでその日にあった出来事などが紹介される。動画の説明欄に「この動画は半分くらいフィクションです」とある通り、テロップの内容は現実世界で起きたことに、戦力外さんが少し〝アレンジ〟を加えたものとなっている。  名前にあるもう一つのテーマ「戦力外」。これは、戦力外さんが日々の生活において「社会に出ると全然自分が役に立たない」、「俺って会社や社会では戦力外だな」と、打ちひしがれた経験が基になっている。   視聴者のコメント欄を見ると「おっちゃん見てると他人事には思えないんだよな。職場のストレスはよく分かる! この動画を見てると頑張んなきゃって不思議と思える。おっちゃん頑張って!」などと書き込まれている。  「動画の前半部分によく出てくる職場での失敗エピソードは、視聴者が自分よりきつい環境にいる人を見て、自分はまだまだマシだなって安心したい思いがあると思います。社会の戦力外おじさんが、もがきながら、ささやかな楽しみを見つけて楽しんでいる姿を見てシンパシーを感じるのでしょうね」 取材に応じる戦力外さん  メーンである動画の後半部分は、戦力外さんが車中で一人、ひたすら飲み食いするシーンだ。これがまた「食べ物がとても美味しそうで、美味しそうに食べる」動画なのだ。  視聴者のコメント欄には「見てると幸せな気持ちになれる動画を、ありがとうございます!」、「毎回、元気いただいてます」などと寄せられている。  「自分の好きなユーチューバーを見ることによって、自分もキャンプした気持ちになる。健康上の理由で食べたいけど食べられない人にとっては、私の動画を見て食べた気になる。そうやって疑似体験したいのかもしれませんね」 動画の編集時間は5時間  戦力外さんは1979(昭和54)年生まれの43歳。出身は山形県だが、幼少期から30代半ばまで猪苗代町で過ごす。学生時代は漠然と「物書きになりたい」という夢を持っていた。専門学生時代にはサブカルチャー雑誌『BURST(バースト)』にハマり、石丸元章、見沢知廉、花村萬月など、破天荒だが自由を感じるライフスタイルに憧れた。何か行動に移すということはなかったが、創作活動をしたいという思いは学生時代から抱いていた。  高校卒業後、家業である川魚の養殖業に就き、6年半前に実家を出て中通りに引っ越すタイミングで、インフラ系の会社に転職した。20代に真剣に打ち込んだのはフルコンタクト空手という格闘技だった。しかし膝のじん帯を断裂し、選手生命を断たれてしまう。  人生の大きな目標を失い「もう一つ生きがいを見つけたい」と思い立った戦力外さんが表現活動の第一歩として始めたのが、LIVEコミュニケーションアプリ「Pococha(ポコチャ)」だった。しかし、ポコチャはリスナーと直接会話するスタイルで、高度なコミュニケーション能力が要求されるため数カ月で挫折してしまう。  戦力外さんは「誰かと直接コミュニケーションせず、自分のタイミングで動画を撮り、じっくり編集できる方がいいんじゃないか」と考え、ユーチューブを始めた。  平日は会社で働き、休日になると動画撮影のため出掛ける。撮り終わったら自宅に戻って編集する。1つの動画の編集作業は平均5時間を要するが、「スマホを使ってベッドに寝ころびながらリラックスして作業しているので、そんなに大変ではないですよ」。  台本は作らず、頭の中で動画の構成を練っている。仕事は車の移動時間が長いため、その時間を有効活用し、面白いワードが出てくるのをひたすら待つのだという。 「美しいマンネリ目指す」「理想は水戸黄門とか孤独のグルメ」  戦力外さんのチャンネルの視聴層は35~60歳までが多く、男女比では男性が9割を占める。  「理想は水戸黄門とか孤独のグルメなんです。視聴率トップは取れないけど、ずっと見てくれる人がいる。美しいマンネリっていうんですかね、そんな動画でありたいですね」  戦力外さんの動画が限られた層にしか見られていないと分かるエピソードがある。戦力外さんは自身のユーチューブチャンネルを母親に薦めたそうだが、母親が熱心に見るのは猫やフォークダンスの動画で、いくら薦めても自身の息子が配信している動画を全く見なかったという。戦力外さんは「興味がなければ肉親の動画でも見ないんですよ」と笑う。 プリウスと戦力外さん  ユーチューブはユーザー一人ひとりの趣味趣向に合った動画がトップ画面に表示されるような仕組みになっており、普段見ないジャンルの動画はそもそも表示もされない。これはユーチューブに限ったことではなく、買収騒動で話題のツイッターなどのSNS、ゾゾタウンなどの通販サイトも同様だ。  ただ、世の中の〝おじさん〟しか見ないニッチな動画を配信しているはずが、最近は少しずつファン層が拡大している様子。北海道に撮影に行った際、チャンネル登録しているファンの女性と奇跡的に出会い、お付き合いするまでに至ったという。  声をかけられる機会も増え、特にキャンピングカーで旅をしているシニア世代の夫婦からが多いようだ。 専業ユーチューバーへ  戦力外さんは6年半勤めた会社を辞め、12月から専業ユーチューバーとして活動を始めた。  「収入は不安定ですし、専業としてやっていくのに不安はありましたが、これからは創作活動一本で食っていくんだと決めました」  ユーチューブでの収入は「サラリーマンの月収の2倍くらい」だという。再生回数の変動などにより月の収入が100万円の時もあれば10万円の時もあるような世界だが、ユーチューブで最も広告収入を得やすいのは3月と12月なので、そのタイミングで退職を決意した。  ユーチューブは再生数によって広告収入が決まる。その単価についてはユーチューブの規約で公言しないよう定められている。戦力外さんも明かそうとしなかった。  しかし、さまざまなユーチューバーの書籍の情報によると、現在、ユーチューブの広告収入単価は1再生あたり0・05~0・7円と言われている。トップクラスの人気ユーチューバーは、1つの動画につき、サラリーマンの平均年収の3~4倍の広告収入が入る計算となる。  とは言っても、そこまで稼げるのはほんの一握りで、急に動画が見られなくなることだってあるのだ。  ただ、戦力外さんは「ユーチューブはプライベートすべてがネタになる」と前向きに捉える。  「仮にユーチューブで稼げなくなり、アルバイトをすることになっても、それを動画にすればいい。いいことも悪いこともネタにできるのがユーチューブなんです」  専業ユーチューバーになれば撮影回数を増やせるし、動画を配信する本数も増える。海外向けのチャンネル開設も目論んでいる。  「私のチャンネルは日本語のテロップを入れているので日本人しか見ません。次は世界に向けて、言葉なしでも伝わるような動画も作っていければと思っています」  戦力外さんは、テロップ無しに加え、ユーモアもプラスアルファしていきたいと考えている。  「チャップリンやミスタービーンみたいなコミカルな動きを入れていけば面白いかなと思っています」  一度見たら見続けてしまう中毒性。これがユーチューブの性質であり、作り手はそこを目指して動画を作成する。  「好きなことで、生きていく」  これはユーチューブのキャッチフレーズだが、専業ユーチューバーとして生き残っていくためには、そうも言っていられない。戦力外さんは「自分が好きなものも大事ですが、それ以上に、視聴者が求めているものを常に考え、再生回数が落ちないように維持していかなければなりません」と漏らす。  「死ぬ時、『なんであの時に専業ユーチューバーにならなかったんだ』と思いたくないんです。やった後悔よりもやらない後悔の方が悔いが残るって言うじゃないですか」  そう笑って話す戦力外さん。この先、どのようなチャンネルや動画を作り、ファンを拡大していくのか。〝おじさんユーチューバー〟の挑戦は始まったばかりだ。 追記【TBS 櫻井・有吉THE夜会で紹介】(2023年5月23日放送分)戦力外さんが紹介される! チュートリアル・徳井義実さんが、おすすめのユーチューブチャンネルを紹介するコーナーで戦力外さんを紹介!タイトルは「なぜか見てしまう!脱サラ親父の哀愁車内メシ」。23分30秒頃から。 Paravi(パラビ)で視聴する

  • 【Jパワー】更新工事進む鬼首地熱発電所

    【Jパワー(電源開発)】更新工事進む鬼首地熱発電所【宮城県大崎市】

     Jパワー(電源開発)が運営する鬼首地熱発電所(宮城県大崎市、1万5000㌔㍗)は40年以上にわたり電力を安定供給してきた。現在は更新工事の最終段階にあり、2023年4月の運転再開に向け、各種機器などの整備が進められている。 更新工事中の鬼首地熱発電所(手前が還元井、奥が冷却塔)  地熱発電は地下に溜まった蒸気や熱水を「生産井」でくみ上げ、気水分離器を経て蒸気でタービンを回す発電方法。使い終わった蒸気は冷却塔で冷やし、熱水とともに「還元井」で地下に戻す。 くみ上げた蒸気と熱水を分ける「気水分離器」  循環利用できれば長期間にわたり安定的な発電が可能となる。天候の影響を受けず、CO2排出量も少ない。設備利用率(フル稼働時の発電量に占める実際の発電量の割合)は風力約20%、太陽光約12%に対し、地熱発電は約80%だ。  同発電所は鳴子温泉郷から北西約20㌔の「鬼首カルデラ」内に位置し、「栗駒山国定公園」として第一種特別地域の指定を受けている。同社では戦後早くから地熱発電所の建設に着手した。1975(昭和50)年に出力9000㌔㍗で営業運転開始。以降、順次出力を増やし、2010年には1万5000㌔㍗に増強した。  その後、環境負荷の低減や安全性考慮の観点から新たな設備の導入が必要と判断し、17年に一時運転停止。19年から設備更新工事に入った。  生産井9坑、還元井8坑を埋め戻し、新たに掘削した生産井5坑、還元井5坑に集約。これでも出力は更新前とほぼ同水準を維持(1万4900万㌔㍗)。タービン棟を新設し発電機の効率が向上したことで、使用する熱水量・蒸気量が従前より減少するため、有毒な硫化水素の排出量が減少した。過去に生産井付近で発生した噴気災害を念頭に入れ、高温地帯に設備を設けないようにした。  すでに電気、建築設備は立ち上がり、生産井の噴気試験も終了。11月に試運転を開始した。更新工事には同社のほか、グループ会社や協力会社が連携して取り組んでおり、生産井などの掘削工事は主にJパワーハイテックが担った。  同発電所は地域振興の役割も担う。21年度には地元・大崎市の小学校や高校で授業を行い、鳴子温泉の特質や地元資源の独自性、地熱発電の仕組みなどを説明した。地元のお祭りや清掃活動にも積極的に参加しているほか、再生可能エネルギーを扱う東北大学の出前授業にも近々出講する予定となっている。  Jパワーでは50年までに国内発電事業のCO2排出量を実質ゼロにする目標を掲げている。同発電所の北約2㌔の地点にある高日向山地域(宮城県大崎市)では新たな地熱発電所の開発を目的とした資源量調査も進んでいる。  今後も同社ではエネルギーを不断に供給し続ける使命を念頭に、地域と信頼関係を築きながら事業を継続していく考えだ。

  • 追悼・渡部恒三元衆議院副議長11月6日にお別れの会開催

    追悼・渡部恒三元衆議院副議長 2022年11月6日にお別れの会開催

     元衆議院副議長で通商産業大臣、厚生大臣、自治大臣などを務め、2020年8月23日に死去した渡部恒三(わたなべ・こうぞう)氏の「お別れの会」が2022年11月6日、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで開かれた。コロナ禍のため延期になっていたもので、関係者をはじめ、政界・経済界から約350人が参列した。 同日には会津若松市城東町の自宅に「渡部恒三記念館」が開館した。館内には大臣就任時に受け取った任命書や叙勲などゆかりの品が展示されている。入場無料。開館は水、土、日曜日の10時から16時。 当日の様子と併せて、約30年前の誌面に載せた恒三氏の写真を再掲する。 在りし日の恒三氏(1992年10月撮影) 会津若松市で行われた「お別れの会」の様子 議員宿舎で晩酌する恒三氏(1992年10月撮影) 記念館前に建てられたブロンズ像 恒三氏を支えていた秘書たち。中央は佐藤雄平元知事。 会津若松市の自宅で家族と食事をとる(1992年10月撮影) 記念館に展示されている恒三氏ゆかりの品 恒三氏の長男・恒雄氏 「お別れの会」であいさつする佐藤雄平元知事

  • 鏡田辰也アナウンサー「独立後も福島で喋り続ける」

    鏡田辰也アナウンサー「独立後も福島で喋り続ける」

     ラジオ福島の名物アナウンサー・鏡田辰也さん(58)が9月末で退社し、フリーアナウンサーとして独立した。大きな節目を迎えたタイミングで、アナウンサー人生と独立の理由について語ってもらった。  かがみだ・たつや 1964年2月生まれ。広島県出身。東洋大卒。1988年にラジオ福島入社。2002年にギャラクシー賞DJパーソナリティー賞受賞。TUF「ふくしまSHOW」にも出演。9月末、ラジオ福島を退社し、フリーアナウンサーとなった。  「テレビ出演時、顔にメイクをしたら、お肌に異変を感じたんです。深刻な病気かと思い、すぐ皮膚科に相談したら、『老人性イボですね』と言われて終わりでした。ワハハ」  ラジオからにぎやかな笑い声が流れる。平日13時から16時、ラジオ福島で放送されている生ワイド番組「Radio de Show(ラジオでしょう)」の一幕だ。  マイクの前に座るのは水・木曜日担当の鏡田辰也さん。〝カガちゃん〟の愛称で知られ、同社で30年以上喋り続ける人気アナウンサーだ。  冒頭のようなエピソードを話しつつ、番組に訪れるゲストの話も引き出し、リスナーから寄せられたメールを逐一紹介して話を広げていく。  同社のスタジオはすべて一人で操作する「ワンマンコントロール」。生ワイドはやることが多いので、制作ディレクターが1人付いているが、CMまでの時間管理や放送機材操作は基本的に鏡田さんが担う。ほぼ1人で番組を進行しているわけ。  驚かされるのはトーク内容に関する台本すら全く用意していないということだ。 3時間の生ワイド放送中はトークしながら試食も担当し、放送機材(写真下)も操作するなど大忙し  「時間になったらマイクの前に座って話すだけ。典型的な『アドリブ派』です。昔から読書と映画が好きで、自宅には数百冊の蔵書と大量のブルーレイ・DVDがあります。それらの〝引き出し〟があるからよどみなく話せるのかもしれません」  その能力を生かし、ラジオDJのほか、講演会、イベント、結婚式のMC(司会)なども数多く務めてきた。2020年には、テレビユー福島で毎週水曜夜7時から放送されている地域情報バラエティー番組「ふくしまSHOW」のMCに起用された。他局ではニュースや人気バラエティー番組が放送されている時間帯だが、視聴率は好調で、「『いつもテレビ見ています』と声をかけてくれる方が多くなりました」と笑う。  1964(昭和39)年2月5日、広島県広島市生まれ。実家はJR広島駅前で宿泊業を営む。小さいころから一人で喋り続け、周りの大人からは「客商売向きだ」、「よしもと新喜劇に行け」と言われていた。  東京に行きたくて東洋大に進学。3年生のとき、大学生協の購買部で「東京アナウンスアカデミー」というアナウンス専門学校のチラシが目に入った。「家業を継ぐ前に、きれいな日本語を身に付けるのもいいかも」。気軽な気持ちで入校し、アナウンス技術を学ぶうち、「広島に帰る前に、何年かアナウンサーをやってみたい」と思うようになった。 4年目に迎えた転機  就職活動本番。全国のテレビ・ラジオ局を30社ぐらい受けたが全滅した。既卒となると採用のハードルがさらに上がるため、〝自主留年〟して、翌年も就職活動に再挑戦したが、すべて落ちた。  あきらめて他業種に就職するつもりだったが、2月になって、専門学校から「ラジオ福島で欠員募集が出た」と連絡が入った。ラジオ福島はは2年連続で入社試験に落ちていた。あきらめ半分で試験に臨んだところ、まさかの「内定」が出た。  〝滑り込み〟で始まったアナウンサー人生だったが、入社直後も苦難が続いた。  「先輩方から『暗い』、『笑い方が変』と毎日注意を受け、自社制作CMには『鏡田以外で』と指定が入ったほど。笑うこと、話すことがうまくできなくなり、いつも下を向いて歩いていました。任される仕事は時刻告知や列車情報を読み上げるぐらいで、中継や番組には使ってもらえませんでした」  転機となったのは入社4年目。JR福島駅前からの中継を任されたとき、スタジオにいる先輩アナウンサーから「そこで美空ひばりの曲を歌って」と〝無茶振り〟された。思い切って「真赤な太陽」を歌ったら、思いがけず観衆から拍手をもらった。  「たとえ自信が無くても一生懸命やる姿を見せることが大事なのか」。鏡田さんの中で何かが吹っ切れた。  「笑う門には福来る」をモットーに、気取らずに笑って話すことを心掛けた。しばらくすると、夜11時から放送されていた「rfcロックトーナメント」という若者向けの音楽番組を任されるようになった。  自分の好きなアーティストの応援ハガキを送り、その数でランキングが決まるシステムが売りだった。当初こそ前任の女性アナと比較されたが、気取らない鏡田さんのキャラはすぐリスナーに受け入れられた。何より音楽を好んで聞いていた鏡田さんに打ってつけの内容だった。番組には毎月5000通ものハガキが寄せられた。  音楽関係者も注目するようになり、ビッグアーティストが東北でPRキャンペーンを展開するとき、番組を訪れるようになった。  入社7年目の1995年4月には、鏡田さんをメーンMCとするお昼の生ワイド番組「かっとびワイド」がスタートした。  曜日ごとに選ばれた相手役のパーソナリティーはいずれも曲者ぞろい。思ったことは何でも口にする昭和2年生まれの「ハッピーチエちゃん」こと二宮チエさん。豪快なトークが持ち味の演歌歌手・紅晴美さん。鏡田さんの私生活も容赦なくネタにするお笑いコンビ・母心(ははごころ)。  そんなメンバーからの厳しい〝ツッコミ〟に対し、鏡田さんが変幻自在のトークで「笑い」にして返す。にぎやかで予測不能な掛け合いが評判を集め、同社の看板番組となった。その後タイトルを変えながら、25年以上にわたり放送され続けている。  「『鏡田さんの笑い声を聞くと元気が出る』というお便りをたくさんいただきました。私にとっては宝物で、いまも大切に保管してあります」  同番組でのトークが評価され、2002(平成14)年には、放送批評懇談会が主催するギャラクシー賞のDJパーソナリティー賞を、地方局のAMラジオアナウンサーとして初めて受賞した。  2005(平成17)年には、TBSをはじめとするJNN・JRN系列各局の優秀なアナウンサーに与えられる「アノンシスト賞」のラジオフリートーク部門で最優秀賞を受賞。就職活動も新人時代も〝落ちこぼれ〟だった鏡田さんが、全国に認められるアナウンサーとなった。 退社を決断した理由  一方で挫折もあった。東日本大震災・東京電力福島第一原発事故発生直後には、深刻な状況に直面して何も喋れなくなった。3・11から5日後、上司である大和田新アナウンサー(当時)に退職を申し出た。大和田さんにはこう励まされた。  「今はつらいかもしれないけれど、福島県が鏡田の声を必要とするときがきっと来る。それがいつなのか約束できないけど、いまは歯を食いしばって頑張ってくれ」  同社では発災時から350時間にわたりCMをカットして連続生放送を行った。鏡田さんもスタジオに入り、情報を伝え続けた。必死過ぎてそのときの記憶はほとんど残っていないという。  ただ同年5月、郡山市内のホテルで震災・原発事故後初めて開かれたイベントはよく覚えている。紅晴美さんや母心とのイベントに多くのリスナーが集まった。その姿を見て、イベント開始直後から涙が止まらなくなった。これからも自分にしかできない明るい放送をリスナーに届け続けよう――そう決意した。  そんな鏡田さんがこの秋、大きな決断をした。定年退職前にラジオ福島を退社し、フリーアナウンサーとなったのだ。  「4月に編成局長を任されたが、局長職業務を完璧にこなしながら、放送やイベントの仕事をいままで通り続けるのは、自分には難しいと感じました。しばらく考えた結果、アナウンサーとしての仕事を自分のペースで続けたい、という思いが勝った。そのため、会社と話し合って退職を決めました。おかげさまで独立後もラジオ・テレビのレギュラー番組は継続させていただいています」  卓越したMCスキルとアナウンス技術、30年以上の経験、幅広い人脈……これらを備えたアナウンサーは全国でもまれで、一層の活躍が期待されるが、鏡田さんはこう語る。  「ラジオは喋り手が身近な存在に感じられるし、スマホでも聞ける。さらには『ながら聞き』できるなど大きな可能性を秘めている。これからもラジオに関わり続けたいし、テレビでは地域密着型番組も担当しているので、明るい放送で福島県を盛り上げていきたい」  今日もスピーカーから明るい笑い声が流れてきた。太陽のような〝カガちゃん〟の存在が福島県を明るく照らし続ける。

  • 石川町長選で落選西牧氏の悪あがき

    石川町長選で落選【西牧立博】氏の悪あがき

     2022年8月28日投開票の石川町長選で落選した元職の西牧立博氏(76)が同10月19日、町選管に異議申し出を提出した。無効票に有効票が紛れている可能性や、開票立会人が票の点検を怠ったとして、投票用紙の再点検を求めたもの。町長選では8647人が投票し、有効票8310票、無効票337票。現職の塩田金次郎氏(74)が西牧氏に716票差で再選を果たした。  町選管が再点検を実施したところ、塩田氏の票が3票減って4510票となったが、西牧氏の3797票は変わらず、2022年10月27日に異議申し出が棄却された。正直〝悪あがき〟感は否めず、町民から呆れる声も聞かれる。ただ当の本人は、二度の事件で逮捕されながら、再び町長選に立候補する性格なので、全く気にしていないのかもしれない。  一方でそんな西牧氏に700票差まで迫られたということは、途中で断念した病院誘致をはじめ、塩田氏に不満がある人が少なくないということ。そのことを意識して町政運営を進める必要があろう。

  • 福島市いじめ問題で市側が被害者に謝罪

    福島市いじめ問題で市側が被害者に謝罪

    福島市内の男子中学生が市立小学校に通っていたときにいじめを受け、不登校になった問題について、本誌2022年4月号「【福島市いじめ問題】6つの深刻な失態」という記事で、詳細にリポートした。  記事掲載後、男子中学生と保護者は市や市教育委員会の対応を巡り、担任の教員や教育委員会などに謝罪を要求。県弁護士会示談あっせんセンターに示談のあっせんを申し立て、2022年10月末、市長と教育長が謝罪することで和解に至った。  福島市は2022年11月22日の記者会見で、木幡浩市長と佐藤秀美教育長が非公式の場で直接謝罪しことを明らかにした。和解の条件として、市が児童らに180万円の解決金を支払い、いじめ問題の関係者を今後処分する。  同日、被害者側も記者会見を開き、男子中学生は「心の傷は治らない」と語った。保護者は「こちらが求める謝罪ではなかった」としつつ、「今後は組織一体となっていじめ問題に対応してほしい」と訴えた。

  • 来春に迫った北塩原村議選2つの注目ポイント

    来春に迫った北塩原村議選2つの注目ポイント

     北塩原村議会議員の任期は2023年4月29日までで、同月中に選挙が行われる予定となっている。  いまの議員は「村として初めての無投票」(ある関係者)によって選ばれ、村民からは事あるごとに「無投票は良くない」といった声が聞かれていた。  そのため、1つポイントになるのは「2回連続の無投票は阻止しなければならない」といった動きだ。  「現職議員の中には、無投票なら出る、選挙になるなら出ない、といった考えの人もいるようです。正直、そういった発想は村民(有権者)を愚弄しているとしか思えない。そんな人がタダで議員になるのを防ぐ意味でも、何とか無投票は避けてほしい」(ある村民)  もう1つは、遠藤和夫村長に近い議員は伊藤敏英議員くらいで、遠藤村長が自派議員擁立に動くか、ということ。  本誌8月号に「北塩原村長辞職勧告決議の背景」という記事を掲載した。同村6月議会で、遠藤村長の辞職勧告決議案が提出され、賛成5、反対2、退席2の賛成多数で可決された。背景にあるのは、介護保険の高額介護サービス費の支給先に誤りがあったこと、支給事務手続きが遅延したことで、その責任を問われた際、遠藤村長からは「自分の責任ではない」旨の発言があった。そのため、議員から「村長の説明は自分に責任がないようなものになっている。この先、事務執行するに当たって誰が責任を取るのか、明確にしておかなければならい」として、村長の責任を追及する動議が出された。その後、辞職勧告決議案が提出されたという流れだ。  その際、遠藤村長は「重く受け止める」とのコメントを残したが、辞職は否定した。同決議に法的拘束力はない。 遠藤和夫村長  そのほか、同議会ではそれに付随するような形で、一般会計補正予算案も賛成3、反対6の賛成少数で否決された。  こうした例があったため、遠藤村長は自派議員擁立に動くのではないか、とみられている。  もっとも、前述したように、明確に遠藤村長派と言える議員は伊藤議員1人だけだが、この間、前段で紹介した辞職勧告決議、一般会計補正予算案の否決のほかに、議案を否決されたのは1、2回あった程度で、表向きは議会対策にものすごく苦心している、というわけではない。  ちなみに、遠藤村長は2020年8月の村長選で初当選し、現在1期目。遠藤村長の妹が菅家一郎衆院議員の妻で、2人は義理の兄弟に当たる。1期目の折り返しを過ぎ、より自分の「カラー」を打ち出すためにも、遠藤村長は自派議員を増やしたいと考えているようだ。  同村は、北山、大塩、檜原の旧3村(3地区)に分かれているが、「遠藤村長は各地区で候補者を立てたい意向のようです」(ある関係者)という。  もっとも、別の村民によると「早い段階で表立って動くと、潰されてしまうから、いまはまだ水面下での動きにとどまっているようです」とのこと。  遠藤村長派の議員の台頭はあるのか、2回連続の無投票を阻止できるのか、この2つが同村議選の注目ポイントになろう。

  • 渡辺義信県議会議長に「白河市長」待望論!?

    渡辺義信県議会議長に「白河市長」待望論!?

     白河市長4期目の鈴木和夫氏(73)が2023年7月28日に任期満了を迎える。市長選まで1年を切ったが、現職の動向を含め、まだ目立った動きは見えない。  鈴木氏は早稲田大卒。県商工労働部政策監、相双地方振興局長、県企業局長などを経て、2007年の市長選で初当選を果たした。  県職員時代の経験を生かし、財政再建や企業誘致、歴史まちづくり、中心市街地活性化を進めてきた行政手腕は高く評価されている。初当選時こそ次点の桜井和朋氏と約4000票差の約1万6000票だったが、2回目以降は2万票以上を獲得し、次点に1万票以上の差をつけ、当選を重ねてきた。  とはいえ、さすがに5選ともなると、「多選」のイメージが強くなり、弊害を懸念する声も出てくる。それを見越して、市内では〝後釜〟探しが水面下で進んでいるようだ。  市内の経済人によると、「『県議会議長の渡辺義信氏(59、4期、白河市・西白河郡、自民党)をぜひ次期市長に』という声が同県議の地元である旧東村で上がっている」という。 鈴木和夫氏(上)と渡辺義信氏  渡辺氏は日大東北高卒。自民党県連幹事長などを歴任し、2021年10月、県議会議長に就任した。白河青年会議所理事長、ひがし商工会副会長などを務めた経験から、応援する経済人も多いようだ。  2023年秋には県議の改選が控える。前回2019年の県議選での渡辺氏の得票数は1万0362票。現職・鈴木氏との一騎打ちとなれば勝ち目はなさそうだが、誰も成り手がいないのなら渡辺氏が適任ではないか――こうした〝待望論〟が支持者などから出てきているわけ。  もっとも、身内であるはずの自民党関係者は冷ややかな反応を示す。  「渡辺氏は国政選挙などがあっても真面目に応援してくれない。閣僚が応援演説に来た際も数人しか集められず、慌てて他地区から動員したことがあった。仮に市長選に出ても、(自民党支持者が)一丸となって応援する構図は考えづらい」  こうした声が出る背景には、白河市・西白河郡選挙から満山喜一氏(71、5期、自民党)も選出されており、市内の自民党支持者が二分されている事情もあるのだろう。  渡辺氏本人は周囲に「立候補はしない」と明言しているようだが、渡辺氏の動きを警戒する鈴木氏の後援会関係者からは「鈴木氏にもう1期頑張ってほしい」という声が上がっているようだ。鈴木氏本人も「多選批判」を意識しているだろうが、周囲から立候補を強く要請されれば状況が変わる可能性もある。  市内の選挙通は鈴木氏の立候補について、「市周辺の幹線道路を結ぶ『国道294号白河バイパス』が全線開通間近で、市役所隣接地には複合施設を整備する計画も進んでいる。筋道を立て、その完成を見届けてから引退したい思いが強いのではないか」と見立てを語る。  複合施設は鈴木氏が市長選の公約として掲げていた「旧市民会館跡地の活用」の一環として行われるもので、健康・子育て・防災・生きがいづくり・中央公民館などの機能を備える(本誌2021年6月号参照)。  現在基本設計に着手しているところで、2023年3月に策定し、2026(令和8)年度以降に工事完了予定だ。概算事業費は約35~45億円の見込み。前回市長選の公約に掲げるほど、事業にかける思いは強い。  一方で、同施設に関しては、資材高騰の影響から設計案の見直し(コンパクト化)が進められており、一部で先行きを心配する声も出ている。  そうした問題への対応も含め、鈴木氏の今後の動向が注目される。おそらく年明けに動きが本格化するのではないか。

  • 選挙を経て市政監視機能が復活した南相馬市議会

    選挙を経て市政監視機能が復活した南相馬市議会

     任期満了に伴う南相馬市議選(定数22)は2022年11月20日に投開票され、現職19人、元職2人、新人1人が当選した(開票結果は別掲の通り)。  注目は本誌2022年11月号で既報の通り、元市長の桜井勝延氏が立候補したことだった。市議を経て2010年から市長を2期務めたが、14、18年の市長選で現市長の門馬和夫氏に敗れた桜井氏。再び市議を目指すことに市民からは「どれくらい得票するのか」と注目が集まったが、結果は6061票と2位に4123票差をつける圧勝を飾った。  もっとも、当の桜井氏が意識したのは投票率だった。桜井氏は立候補の挨拶回りをする中で、市民が市議会に関心がないことを知り「市議会は市政のチェック機関だが、市議会に関心を持たないと市政に無関心な市民が増えてしまう」と危機感を露わにしていた。自分が立候補することで市民の関心を少しでも市議選に向けさせたいと選挙戦に臨んだが、結果は56・37%で前回(2018年)の55・91%から0・46㌽の上昇にとどまった。  これをどう受け止めるかだが、桜井氏は「思ったより伸びなかった」と評している。2014年の市議選の投票率は59・10%なので、低下に歯止めをかけたのは事実だが、桜井氏の立候補が市民の関心を向けさせるきっかけになったかというと、ゼロではないが起爆剤とはならなかったようだ。  とはいえ、有権者の投票行動には明らかな変化が見られた。  一つ目は、現職の当選者(19人)が全員、前回より得票数を減らしたことだ。少ない人で100票前後、多い人で1100票も減らした。  その分の全てが桜井氏に投じられたかというとそうではない。二つ目の変化は、桜井氏以外にもう1人、元職が当選したことだ。郡俊彦氏は旧鹿島町議も長く務めたベテランだが、2010年の市議選で落選し政界引退。ただ引退後も「わだい」という広報紙を発行し、門馬市政を厳しく批判していた。  実は、郡氏は現職時代、共産党議員として活動していたが、今回の市議選では公認申請せず無所属で立候補した。  「同市の共産党議員は今回6選を果たした渡部寛一氏と落選した栗村文夫氏だが、2人は門馬市政を支える与党のため、郡氏は『共産党として市政をチェックする役目を果たしていない』と不満だったのです。そこで、郡氏はあえて無所属で12年ぶりの市議選に挑み、1163票で返り咲いた。一方、渡部氏と栗村氏は前回より揃って600票以上減らした。2人の減らした分がそっくり郡氏に回ったことで、市内の共産党員が与党として活動する2人を評価していないことが明白になった」(選挙通)  そして三つ目の変化が、初当選した表信司氏の存在だ。表氏は市職員を退職して市議選に挑んだが、実際に門馬市長に仕えて「この市政はおかしい」と問題意識を持ったことが立候補の動機になった。  投票率の上昇はわずかだが、現職全員が得票数を減らす中、桜井氏、郡氏、表氏が当選したのは「今の市議会は門馬市政をチェックできていない」と市民が判断した証拠だ。改選後の市議会がどう変わっていくのか注目される。 南相馬市議会ホームページ

  • 郡山の補選で露呈した県議への無関心

    郡山の補選で露呈した福島県議への無関心

     郡山市の政界関係者の間で同市選挙区県議補選(欠員1)の投票結果に注目が集まっている。同補選には前市議の新人佐藤徹哉氏(自民党)と会社経営の新人髙橋翔氏(諸派)が立候補し、内堀雅雄知事が3選を果たした知事選と同じ10月30日に投開票された。  当6万5987 佐藤 徹哉54    1万9532 髙橋  翔34                  投票率34・72% 当選した佐藤徹哉氏(上)と髙橋翔氏  表面的な数字だけ見れば、自民党公認で公明党の支援を受けた佐藤氏の大勝は不思議ではない。注目されるのは高橋氏の得票数だ。  「正直、1万9500票も取るとは思わなかった。旧統一教会の問題など岸田内閣に対する反発が自民党公認の佐藤氏には逆風になった」(ある自民党員)  髙橋氏がここまで得票できた要因を、ある保守系の郡山市議は 「髙橋氏はもともと知事選に出ると言っていたのに、告示日(10月13日)になって急きょ県議補選に方針転換した。メディアはその間、知事選の立候補予定者として髙橋氏の顔と名前をずっと報じたからね」  と〝恨み節〟を語っていたが、立候補表明した以上、メディアはその事実を報じざるを得ない。ちなみに本誌も、8月号に「知事選立候補を前提」とした髙橋氏のインタビュー記事を掲載している。  選挙後、髙橋氏に県議補選に変更した理由を尋ねると、次のように説明した。  「知事選は当初、複数の候補者が手を挙げていたが、告示日時点で三つ巴(内堀氏、草野芳明氏、髙橋氏)になった。しかし対現職で考えた時、新人2人が挑むのは現職批判票の分散を招き、私が一つの指針にしている『対立候補の得票率10%』を超えるのは難しい。そこで、私が県議補選に回ることでどちらも一騎打ちの構図とすれば、無投票阻止と得票率10%を同時に目指せると考えた。そもそも市議をそそくさと辞めた人を県議に無投票で当選させることは、一郡山市民として納得できなかった。もちろん、共産党が知事選に候補者を立てていなければ私は確実に出馬しており、県議補選には子育て世代の若手を擁立する予定だった」  そんな県議補選をめぐっては、投票率や無効票にも注目が集まった。  例えば、知事選の郡山市だけの投票率は37・44%、投票総数は9万8614票だったが、県議補選は34・72%、8万5519票で、県議補選の方が投票率は2・72㌽低く、投票総数も1万3095票少なかった。  これは告示日の違いが影響している。すなわち知事選は10月13日、県議補選は同20日だったが、近年は期日前投票が増えているため、先行した知事選は投票したものの県議補選は投票しなかった人が1万3000人超もいたということだ。県議補選への関心の低さがうかがえる。  無効票の数も特筆される。知事選5816票に対し県議補選6910票と、投票総数が知事選より8分の1も少ない県議補選の方が1100票余も多かった。県議補選の投票用紙に「内堀雅雄」と書かかれたケースが散見されたという話もあるが、郡山市選管によると「無効票にそれだけの差がついた理由はよく分からない」という。  地元ジャーナリストはこんな危機感を示す。  「有権者にとって県議はいかに遠い存在であるかが明白になった。当選した佐藤氏は、髙橋氏の急な方針転換で選挙戦となり少しは知名度アップを果たせたかもしれないが、知事選と同日選になったことで、県議への無関心さが露呈した形です」  投票率低下は全国的な傾向だが、2023年秋に控える県議選の本選で有権者の関心をどこまで集められるか。 あわせて読みたい 【高額報酬】存在感が希薄な福島県議会 渡辺義信県議会議長に「白河市長」待望論!?

  • 【会津若松・喜多方・福島】市街地でクマ被害多発のワケ

    【会津若松・喜多方・福島】市街地でクマ被害多発のワケ

     2022年は市街地でのクマ出没やクマによる人的被害が目立った1年だった。会津若松市では大型連休初日、観光地の鶴ヶ城に出没し、関係部署が対応に追われた。クマは冬眠の時期に入りつつあるが、いまのうちに対策を講じておかないと、来春、再び深刻な被害を招きかねない。 専門家・マタギが語る「命の守り方」  会津若松市郊外部の門田町御山地区。中心市街地から南に4㌔ほど離れた山すそに位置し、周辺には果樹園や民家が並ぶ。そんな同地区に住む89歳の女性が7月27日正午ごろ、自宅近くの竹やぶで、頭に傷を負い倒れているところを家族に発見された。心肺停止状態で救急搬送されたが、その後死亡が確認された。クマに襲われたとみられる。  「畑に出かけて昼になっても帰ってこなかったので、家族が探しに行ったら、家の裏の竹やぶの真ん中で仰向けに倒れていた。額の皮がむけ、左目もやられ、帽子に爪の跡が残っていた。首のところに穴が空いており、警察からは出血性ショックで亡くなったのではないかと言われました」(女性の遺族) 女性が亡くなっていた竹やぶ  現場近くでは、親子とみられるクマ2頭の目撃情報があったほか、果物の食害が確認されていた。そのため、「食べ物を求めて人里に降りて来たものの戻れなくなり、竹やぶに潜んでいたタイミングで鉢合わせしたのではないか」というのが周辺住民の見立てだ。  8月27日早朝には、同市慶山の愛宕神社の参道で、散歩していた55歳の男性が2頭のクマと鉢合わせ。男性は親と思われるクマに襲われ、あごを骨折したほか、左腕をかまれるなどの大けがをした。以前からクマが出るエリアで、神社の社務所ではクマ除けのラジオが鳴り続けていた。 愛宕神社の参道  大型連休初日の4月29日早朝には、会津若松市の観光地・鶴ヶ城公園にクマが出没し、5時間にわたり立ち入り禁止となった。市や県、会津若松署、猟友会などが対応して緊急捕獲した。5月14日早朝には、同市城西町と、同市本町の諏訪神社でもクマが目撃され、同日正午過ぎに麻酔銃を使って緊急捕獲された。  市農林課によると、例年に比べ市街地でのクマ目撃情報が増えている。人的被害が発生したり、猟友会が緊急出動するケースは過去5~10年に1度ある程度だったが、2022年は少なくとも5件発生しているという。  鶴ヶ城に出没したクマの足取りを市農林課が検証したところ、千石バイパス(県道64号会津若松裏磐梯線)沿いの小田橋付近で目撃されていた。橋の下を流れる湯川の川底を調べたところ、足跡が残っていた。クマは姿を隠しながら移動する習性があり、草が多い川沿いを好む。  このことから、市中心部の東側に位置する東山温泉方面の山から、川伝いに街なかに降りてきた線が濃厚だ。複数の住民によると、東山温泉の奥の山にはクマの好物であるジダケの群落があり、クマが生息するエリアとして知られている。  市農林課は河川管理者である県と相談し、動きを感知して撮影する「センサーカメラ」を設置した。さらに光が点滅する「青色発光ダイオード」装置を取り付け、クマを威嚇。県に依頼して湯川の草刈りや緩衝帯作りなども進めてもらった。その結果、市街地でのクマ目撃情報はなくなったという。  それでも市は引き続き警戒しており、10月21日には県との共催により「市街地出没訓練」を初めて実施。関係機関が連携し、対応の手順を確認した。  市では2023年以降もクマによる農作物被害を減らし、人的被害をゼロにするために対策を継続する。具体的には、①深刻な農作物被害が発生したり、市街地近くで多くの目撃情報があった際、「箱わな」を設置して捕獲、②人が住むエリアをきれいにすることでゾーニング(区分け)を図り、山から出づらくする「環境整備」、③個人・団体が農地や集落に「電気柵」を設置する際の補助――という3つの対策だ。  さらに2023年からは、郊外部ばかりでなく市街地に住む人にも危機意識を持ってもらうべく、クマへの対応法に関するリーフレットなどを配布して周知に努めていく。これらの対策は実を結ぶのか、2023年以降の出没状況を注視していきたい。 一度入った農地は忘れない  本州に生息しているクマはツキノワグマだ。平均的な大きさは体長110~150㌢、体重50~150㌔。県が2016年に公表した生態調査によると、県内には2970頭いると推定される。  クマは狩猟により捕獲する場合を除き、原則として捕獲が禁じられている。鳥獣保護管理法に基づき、農林水産業などに被害を与える野生鳥獣の個体数が「適正な水準」になるように保護管理が行われている。  県自然保護課によると、9月までの事故件数は7件、目撃件数は364件。2021年は事故件数3件、目撃件数303件。2020年が事故件数9件、目撃件数558件。「件数的には例年並みだが、市街地に出没したり、事故に至るケースが短期間に集中した」(同課担当者)。  福島市西部地区の在庭坂・桜本地区では8月中旬から下旬にかけて、6日間で3回クマによる人的被害が続発した。9月7日早朝には、在庭坂地区で民家の勝手口から台所にクマが入り込み、キャットフードを食べる姿も目撃されている。  会津若松市に隣接する喜多方市でも10月18日昼ごろ、喜多方警察署やヨークベニマル喜多方店近くの市道でクマが目撃された。  河北新報オンライン9月23日配信記事によると、東北地方の8月までの人身被害数40件は過去最多だ。  クマの生態に詳しい福島大学食農学類の望月翔太准教授は「2021年はクマにとってエサ資源となるブナやミズナラが豊富で子どもが多く生まれたため、出歩くことが多かったのではないか」としたうえで、「2022年は2021年以上にエサ資源が豊富。2023年の春先は気を付けなければなりません」と警鐘を鳴らす。  「クマは基本的に憶病な動物ですが、人が近づくと驚いて咄嗟に攻撃します。また、一度農作物の味を覚えるとそれに執着するので、1回でも農地に入られたら、その農地を覚えていると思った方がいい」  今後取るべき対策としては「まず林や河川の周りの草木を伐採し、ゾーニングが図られるように見通しのいい環境をつくるべきです。また、収穫されずに放置しているモモやカキ、クリの木を伐採し、クマのエサをなくすことも重要。電気柵も有効ですが、イノシシ用の平面的な配置では乗り越えられてしまうので、クマ用に立体的に配置する必要があります」と指摘する。 近距離で遭遇したら頭を守れ クマと遭遇した時の対応を説明する猪俣さん  金山町で「マタギ」として活動し、小さいころからクマと対峙してきた猪俣昭夫さんは「そもそもクマの生態が変わってきている」と語る。 奥会津最後のマタギposted with ヨメレバ滝田 誠一郎 小学館 2021年04月20日頃 楽天ブックス楽天koboAmazonKindle  「里山に入り薪を取って生活していた時代はゾーニングが図られていたし、人間に危害を与えるクマは鉄砲で駆除されていました。だが、里山に入る人や猟師が少なくなると、山の奥にいたクマが、農作物や果物など手軽にエサが手に入る人家の近くに降りてくるようになった。代を重ねるうちに人や車に慣れているので、人間と会っても逃げないし、様子を見ずに襲う可能性が高いです」  山あいの地域では日常的にクマを見かけることが多いためか、「親子のクマにさえ会わなければ、危険な目に遭うことはない」と語る人もいたが、そういうクマばかりではなくなっていくかもしれない。  では、実際にクマに遭遇したときはどう対応すればいいのか。猪俣さんはこう説明した。  「5㍍ぐらい距離があるといきなり襲ってくることはないが、それより近いとクマもびっくりして立ち上がる。そのとき、大きな声を出すと追いかけられて襲われるので、思わず叫びたくなるのをグッと抑えなければなりません。クマが相手の強さを測るのは『目の高さ』。後ずさりしながら、クマより高いところに移動したり、近くの木を挟んで対峙し行動の選択肢を増やせるといい。少なくとも、私の場合そうやって襲われたことはありません」  一方、前出・望月准教授は次のように話す。  「頭に傷を負うと致命傷になる可能性が高い。近距離でばったり出会った場合はうずくまったり、うつ伏せになり、頭を守るべきです。そうすれば、仮に背中を爪で引っかかれてもリュックを引き裂かれるだけで済む可能性がある。研修会や小学校などで周知しており、広まってほしいと思っています」  県では、会津若松市のように対策を講じる市町村を補助する「野生鳥獣被害防止地域づくり事業」(予算5300万円)を展開している。ただ、高齢化や耕作放棄地などの問題もあり、環境整備や効果的な電気柵設置は容易にはいかないようだ。  来春以降の被害を最小限に防ぐためにも、問題点を共有し、地域住民を巻き込んで抜本的な対策を講じていくことが求められている。

  • 【FSGカレッジリーグ】仮想空間で授業を実施【実証事業の様子】

    郡山市の専門学校【FSGカレッジリーグ】仮想空間で授業を実施

     専門学校グループ「学校法人国際総合学園 FSGカレッジリーグ」(郡山市)は1984(昭和59)年の開校以来、38年間積み上げてきた指導ノウハウと、2万0900人以上の卒業生ネットワークによる学生支援体制を備え、若者の学び場の充実を図り続けてきた。同グループは5校57学科で構成されており、東北最大級の規模を誇る。  グループ校の一つ、国際アート&デザイン大学校では9月、米国発メタバース「Virbela(バーベラ)」の日本向けプラットフォーム「GIGA TOWN(ギガタウン)」を活用した実証授業を実施した。専門学校としては初の試み。  メタバースとはインターネットの中に構築された仮想空間のこと。自分自身の分身(アバター)を操作して他者と交流できる。ゲームなどで使われてきたが、近年はビジネスシーンでの利用も進んでおり、今後の成長が見込まれている。  同校は「ギガタウン」の日本公式販売代理店・㈱ガイアリンク(長野県)と連携。学生らはアバターを使って「ギガタウン」での授業に参加し、事例研究、ゲーム、ディスカッション、グループ発表などを行った。  参加した学生からは「実際にその場で授業を受けているような臨場感があり、楽しかった。テーブルごとに個別通話できたり、画面を複数に分けて資料を提示できるなど、さまざまな機能があり、使いやすかったです」との声が聞かれた。  実証授業は学生の夢や目標達成のためのスキル、コミュニケーション力を育む目的で行われたもの。同校では5月にも、ICT関連やデジタルコンテンツ分野の教育機関を運営するデジタルハリウッド㈱(東京都)と連携し、アバター生成・操作のアプリケーションを使用した実証授業を行っている。  同グループでは教育のICT化を進める「Ed―Tech推進室」が中心となって、ICT技術・デジタル化を活用した効果的な授業の在り方を検討しており、同校の授業に積極的に取り入れている。  例えば、同校コミックマスター科では県内で初めて、アニメーション制作ソフト「Live2D」を授業に導入した。同ソフトは低コストで原画の画風を保ったアニメーションが制作できることから、家庭用ゲームやスマートフォンアプリに多く使用されている。同校は「Live2D」モデル作成ソフトライセンス無償貸与の教育支援プログラム認定校に県内で唯一指定されているため、授業での使用が可能となった。  一方でアナログテクニックを身に付ける実習も充実させており、どんな現場にも対応できる即戦力のスペシャリストの養成に努める。  ICT関連の資格取得も全力で支援しており、「PhotoShop(フォトショップ)クリエイター能力認定試験」の合格率は100%を誇る。さらにCGクリエイター検定の文部科学大臣賞を全国で唯一3年連続受賞している。  同グループが目標として掲げているのは「ONLY1、No・1」の教育実績。今後もコロナ禍以降本格的に導入したICT教育を発展させる形で、メタバースを活用した授業を推進し、学生一人ひとりのニーズに沿った教育を行うことで、夢の実現をサポートしていく考えだ。 FSGカレッジリーグのホームページ FSGカレッジリーグのオープンキャンパス・保護者説明会に参加する

  • 京都・仁和寺で「カラー絵巻」一般公開

    京都・仁和寺で「カラー絵巻」一般公開【福島県双葉町出身学芸員が解説】

     京都を代表する古刹・仁和寺で、明治時代に作られた「戊辰戦争絵巻」のデジタル彩色版が12月8日まで一般公開されている。福島県と何かと関係が深い戊辰戦争だが、その絵巻がなぜいま京都の寺院でカラー化されて公開されたのか。双葉町出身の学芸員に、その背景や一般公開の見どころを解説してもらった。 デジタル技術で蘇る戊辰戦争の風景 仁和寺金堂  仁和寺は888(仁和4)年、宇多天皇が先帝の光孝天皇の遺志を継いで創建した寺院で、真言宗御室派の総本山。1994(平成6)年にユネスコの世界遺産に登録された。境内に咲く遅咲きの「御室桜」が有名で、和歌などにも詠まれている。  皇族や公家が出家して住職を務める門跡寺院で、歴代天皇の厚い帰依を受けたことから、優れた絵画・書籍・彫刻・工芸品が数多く所蔵されている。創建当時の本尊である「阿弥陀三尊像(国宝)」をはじめ、国宝12件、重要文化財48件、古文書数万点を保存・管理している。  そんな同寺院の所蔵物の一つである「戊辰戦争絵巻」をデジタル彩色するプロジェクトが進められている。  戊辰戦争の幕開けとなった1868(明治元)年の「鳥羽伏見の戦い」を描いた絵巻で、全39場面。幅31㌢、長さは上下巻合わせて約40㍍。  「歴史資料に光彩を与えたことで、情報がより写実的になりました。例えば紅蓮の炎や血色染まる兵士の姿は、視覚的に凄惨さを増しましたが、その痛ましさに想像力を持って向き合うことで、絵巻に描かれていることは『物語』ではなく『歴史』であるという気づきをもたらすのではないか、と思います」  デジタル彩色の狙いについて、こう解説するのは双葉町出身の仁和寺学芸員・朝川美幸さんだ。  1971(昭和46)年生まれ。双葉高校、東洋大文学部卒。立命館大学大学院文学研究科博士前期課程を修了。年数回開催される仁和寺霊宝館名宝展の企画・展示を担当。共著に『もっと知りたい仁和寺の歴史』(東京書籍)がある。小さいころに真言密教に興味を抱き、仏教のことを学び続けている専門家だ(本誌2018年1月号参照)。  朝川さんによると、仁和寺と戊辰戦争のつながりは深い。仁和寺第30世の純仁法親王は1867(慶応3)年に還俗(出家した人が俗人に戻ること)し、仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあきら)親王と名を改めた。その後、征夷大将軍に任命され、鳥羽伏見の戦いで新政府軍を率いた。出陣の際には仁和寺に仕えていた坊官や寺侍が警備に回った。  明治の世になってから、時代の転換点となった戦争を記録し、その事実を絵巻として残すことになった。戦争体験者の東久世通禧伯爵と林友幸子爵が計画し、1889(明治22)年に完成。明治天皇に献上された。1891(明治24)年には保勲会がモノクロ、木版画の複製品を若干部制作し、仁和寺などに寄贈した。  ただ、制作数が少なく事実を広く知ってもらうには至らなかったことから、絵巻の一部を新たに着色し、『錦の御旗』と改題して一般向けに刊行した。  今回のプロジェクトは、仁和寺に所蔵されていた絵巻(複製品)を超高精細スキャンによりデジタル化。『錦の御旗』や解説本の記述、専門家などの考証を参考に彩色し直して、原寸大で和紙に印刷するものだ。  デジタル彩色は「先端イメージング工学研究所」(京都市左京区)代表理事で、京都大学名誉教授の井手亜里さんが率いるプロジェクトチームが担当。10カ月かけて彩色を行い、ようやく完成した。 デジタル彩色のメリット  絵巻の撮影に同席し、一部の絵巻の解説文執筆も担当した朝川さんはこう説明する。  「超高精細デジタルスキャニング技術で撮影したことで、現物を何度も広げずに済み、画像を拡大してより細かい描写を読み解けるようになりました。保存・分析、両面でメリットがあったと思います。また、着色したことで、戊辰戦争の様子をイメージしやすくなり、幅広い方に興味を持っていただきやすくなったと思います」 仁和寺霊宝館で解説する朝川さん  完成したデジタル彩色絵巻は2022年12月3~8日まで「令和絵巻に見る仁和寺と戊辰戦争」特別展で一般公開される。デジタル彩色絵巻と元来の絵巻(複製)の比較展示のほか、デジタル彩色絵巻をタッチパネル式の画面で見ることができる。好きな場所を指定して拡大することで高精細な画像の閲覧が可能。またオリジナル映像を視聴するコーナーも設けられている。12月3日には、絵巻に合わせて講談師・神田京子さんが講談を行うライブも開かれた。 ジタル彩色された「戊辰戦争絵巻」の一部(上は「第二図会津藩伏見上陸」、下は「第十三図征討大將軍節刀拜受」=画像:先端イメージング工学研究所提供)  同プロジェクトは文化庁の「Livng History(生きた歴史体感プログラム)促進事業」に採択されている。文化庁は京都への移転準備を進めており、2023年3月27日にはいよいよ業務が開始される。移転の目的は東京一極集中の是正に加え、「文化の力による地方創生」、「地域の多様な文化の掘り起こし・磨き上げによる文化芸術の振興」というもの。デジタルの力を使い地方の寺院に眠る歴史的資料の価値を磨き上げる同プロジェクトは、象徴的な活動と言えよう。  一般公開は期間限定であり、福島から離れているので、気軽には行けないかもしれないが、仁和寺は何かと福島に縁のある場所。世界遺産の建物や所蔵物が展示されている霊宝館(期間限定公開)はもちろん、春は桜、秋は紅葉が美しい観光スポットでもある。機会があればぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。 仁和寺ホームページ 【エアトリ】で予約して仁和寺に旅行をする

  • 【田村市】新病院施工者を独断で覆した白石市長

    【田村市】新病院施工者を独断で覆した白石市長

     田村市が建設を計画している新病院の施工予定者が〝鶴の一声〟で変更された。市幹部などでつくる選定委員会は、公募型プロポーザルに参加した3社の中から鹿島建設を最優秀提案者に選んだが、白石高司市長の指示で次点者の安藤ハザマに覆ったのである。 〝本田派議員〟が疑惑追及の百条委設置 「新病院の施工予定者が白石市長の指示で変更されたらしい」 そんなウワサを田村市内の自民党関係者から聞いたのは、2022年7月に行われた参院選の前だった。  新病院とは、田村地方の医療を支えるたむら市民病院(病床数32)の後継施設を指す。公には6月30日に市のホームページで「新病院の施工予定者選定に係る公募型プロポーザルの最優秀提案者に安藤ハザマ、次点者は鹿島建設」と発表され、7月4日付の福島建設工業新聞にも「新病院の施工予定者に安藤ハザマ」という記事が掲載された。 造成工事を終えた新病院予定地  ところが実際の審査では、最優秀提案者に鹿島、次点者に安藤ハザマが選ばれていたというのだ。  「2022年6月、市幹部などでつくる選定委員会が白石市長に『審査の結果、鹿島に決まった』と報告した。しかし白石市長が納得せず、次点の安藤ハザマに変更するよう指示したというのです。選定委員会は『何のために審査したか分からない』と不満に思ったが、上から言われれば従うしかない」(市内の自民党関係者)  一度聞いただけではまさかとしか思えない話。だが、それはウワサでもまさかでもなく、事実だった。  市長の指示で施工予定者が突然覆される――そんなかつての〝天の声〟を彷彿とさせる出来事はなぜ起きたのか。  たむら市民病院は、同市船引町の国道288号沿いで診療を行っている。もともとは医療法人社団真仁会が大方病院という名称で運営していたが、院長が急死したため2019年7月に市が事業継承、公的医療機関として生まれ変わった。診療科目は内科、人工透析内科、外科など10科。運営は指定管理者制度で公益財団法人星総合病院(郡山市)に委託している。  市立病院の設置は、2005年に旧5町村が合併した田村市にとって悲願だった。しかし、事業継承した時点で建物の老朽化、必要な病床数の確保、救急受け入れなどの課題を抱えていた。そこで市は2020年3月に新病院建設基本計画を策定、現在地から北東1・3㌔の場所(船引町船引字屋頭清水地内)に新病院を建設する方針を打ち出した。  2020~21年度にかけて予定地の造成を行い、その後は22年度着工、24年度開院というスケジュールが組まれたが、21年4月の市長選で状況が変化した。当時現職の本田仁一氏を破り初当選した白石高司市長が、公約に本田市政のもとで始まった公共工事の見直し(事業検証)を掲げたことから、新病院建設も一時中断を余儀なくされたのである。  その後、関係部局の職員たちが4カ月にわたり事業検証を行い、最終的に「新病院は市民にとって必要」と判断されたため、計画は予定より1年遅れて再始動した。2022年3月には建設基本設計概要書が公表され、新病院の具体像が示された。  問題の公募型プロポーザルはこの後に行われるが、ここからは、本誌が情報開示請求で市から入手した公文書に基づいて書いていく。  新病院の概要は病床50床、鉄筋コンクリート造地上4階建て、建築面積2790平方㍍、延べ面積6420平方㍍。このほか厨房施設と付属棟、250台分の駐車場を整備し、工期は2023年7月から25年1月。想定事業費は36億円程度となっている。  市は建設コスト縮減と工期短縮を図るため、施工者が設計段階から技術協力を行うECI方式の採用を決定。4月19日にプロポーザルの公告を行い、清水建設、鹿島、安藤ハザマから参加申し込みがあった。同28日には一次審査が行われ、3社とも通過した。  続く二次審査は6月25日に行われ、各社のプレゼンテーションと選定委員会によるヒアリング、さらには各委員による採点で最優秀提案者と次点者が選定された。 最高評価を受けていた鹿島  まずは評価が一目で分かる採点から見ていく。別表は選定委員7人による評価シートの合計だ。  選定委員会は、委員長を石井孝道氏(市総務部長)が務め、委員には渡辺春信氏(市保健福祉部長)、佐藤健志氏(市建設部長)のほか4人が就いた。市は部長以外の名前を公表していないが、そのうちの3人は南相馬市立総合病院の及川友好院長、たむら市民病院の指定管理者である星総合病院の担当者、日大工学部教授だったことが判明している。残り1人は不明。  その7人による採点の合計を見ると(各自の採点結果は開示された公文書が黒塗りで不明)、A社は505点、B社は480点、C社は405点となっている(満点は700点)。アルファベット表記になっているが、公文書を読み進めるとA社は鹿島、B社は安藤ハザマ、C社は清水建設であることが分かり「評価シートに基づく順位は委員間で異なった」と書かれている。  では、各委員の評価ポイントはどうだったのか。公文書には当時の発言順に次のように記されていた。  「A社は丁寧な技術提案や書類のつくり込みで好感が持てた。ヒアリングでのやり取りからもネガティブな要素は感じられず、安心して任せられると感じた。C社にはA社と全く逆の印象を持った。書類のつくり込みが粗いばかりか、ヒアリングでも発注者・審査員に対し礼を失する発言が多く、誠実さが感じられなかった。B社は様々な提案を盛り込んでいるが、果たしてそれがうまく収まるのか不安を感じた。工期に余裕がない点もネガティブ要素だった」(黒塗りで発言者不明)  「地域貢献に関して、書類上の金額と現実性が乖離している提案が目立った。特にB社の発注予定額は経験的に実現不可能と受け止めている。技術力に関しては提案者ごとにかなり差があると感じた。順位付けをするならA社<B社<C社の順だが、メンテナンス体制も含めるとA社の有意性がより際立つと感じた」(同)  「技術面では3社とも特に問題ないだろうと感じた。その中でも、A社は一番丁寧に提案書がつくられていた。地域貢献に関しては、その是非や実現性を判断するための情報が不足している」(佐藤委員)  「技術的な優劣は判断できない。市の姿勢として地域貢献を前面に出していただく必要がある」(渡辺委員)  「ここまでの委員の発言に同意。地域貢献に関しては、B社提案はリップサービスが過ぎたように感じる」(黒塗りで発言者不明)  「技術的な優劣は判断できないが、A社の提案は書類・説明ともに好印象だった。しっかりとした病院を確実に建てることが第一で、地域貢献はその次に考えること。地域貢献の配点が大きいため、個人的な評価と点数が一致していない。B社が提示した五つの課題は市の感覚とずれているように感じた」(石井委員長)  総体的に、A社(鹿島)の評価が高く、C社(清水建設)は厳しい意見が多く聞かれた。B社(安藤ハザマ)の提案も各委員が半信半疑に捉えている様子がうかがえる。  ただ、採点結果と評価ポイントのすり合わせを行っても順位の一致に至らなかったため、規程に基づき多数決を行った結果、A社4人、B社1人、C社0人となり、最優秀提案者に鹿島、次点者に安藤ハザマが選定された。  この結果を選定委員会事務局が白石市長に報告し、決裁後、速やかに各社に通知、市のホームページでも公表する手筈だったが、公文書(6月30日付の発議書)には次のような驚きの記述があった。  《6月28日及び同30日に実施した市長報告において、市長から本件プロポーザルにおいては地域貢献と見積額が重要な判断基準であるため、当該提案において最も有利な条件を提示している㈱安藤・間東北支店が次点者という審査結果は妥当性を欠くため、該社を最優秀提案者として決定するよう指示がありました》  白石市長から安藤ハザマに変更するよう指示があったと明記されていたのだ。  最終的にこの変更は6月30日に了承され、安藤ハザマには《厳正に審査した結果、御社の提案が最も評価が高く、本事業の最優秀提案者として選定されましたので通知いたします》、鹿島には《御社の提案が2番目に評価が高く、本事業の次点者として選定されました》という通知が白石市長名で送られた。市のホームページでも同日中に公表された。「厳正に審査」が白々しく聞こえるのは本誌だけだろうか。 百条委設置の経緯  前述した建設工業新聞の記事はこの直後に書かれたが、当時は最優秀提案者が覆された事実は公になっていなかった。ただ市議会では、安藤ハザマを最優秀提案者に選定したことに「別の視点」から疑問の声が上がっていた。  「6月に市役所ホールの吹き抜けの窓から雨漏りしている個所が見つかったが、市役所を施工したのが安藤ハザマと地元業者によるJVだったため、議員から『そんな業者に新病院建設を任せて大丈夫か』という懸念が出たのです」(市内の事情通)  市役所は2014年12月に竣工したが、事情通によると落札金額は安く抑えられたものの、その後、追加工事が相次ぎ、結局、事業費が膨らんだ苦い経験があるため、  「議員の間には『今回も安藤ハザマは同様の手口で事業費を増やしていくのではないか』という疑いが根強くある」(同)  これ以外にも、安藤ハザマは「過去に指名停止を受けている」「市に除染費用を水増し請求した」などの不信感が持たれている。ただ同様のトラブルは、鹿島や清水建設など他のゼネコンでも見られるので、安藤ハザマだけを殊更問題視するのはバランスを欠く。  「そうこうしているうちに『最優秀提案者は、本当は鹿島だったらしい』という話が議員にも伝わり、9月定例会で選定経過に関する質問が行われたが、白石市長は『地域貢献度も含め適正に審査した』と曖昧な答弁に終始したため、過半数の議員が反発する事態となった」(同)  ウワサは次第に尾鰭をまとい「〇〇社が白石市長に頼んで安藤ハザマに変わったらしい」「実際の工事は白石市長と同級生の××社が請け負うようだ」「白石市長は安藤ハザマからいくらもらったんだ」等々、真偽不明の話まで囁かれるようになった。白石市長が明確な答弁を避けたことが「何か隠している」という印象を与えたわけ。  9月定例会が終わりに近付くころには、一部議員の間で「真相を究明するには地方自治法100条に基づく調査特別委員会(百条委員会)を設置するしかない」という話が持ち上がり、10月27日に開かれた臨時議会で議員発議による設置が正式決定された。  《市は安藤ハザマを最優秀提案者にした理由の説明を避けてきたため、一部議員が反発していた。白石市長は臨時議会開会前の議員全員協議会で鹿島が選定委員会で最も点数が高かったと認め、「積算工事費や地域貢献計画などを比較し、安藤ハザマにした」と説明したが、採決の結果、賛成9、反対8で百条委設置が決まった》(福島民報10月28日付)  田村市議会は定数18。採決に加わらなかった大橋幹一議長(4期)を除く賛成・反対の内訳は別掲の通りだが、賛成した9人のうち、半谷理孝議員を除く8人は2021年4月の市長選で白石市長に敗れた本田仁一氏を支援していた。  ちなみに百条委の委員も、賛成した9人から大和田議員を除いた8人全員が就き、反対した8人からは誰も就かなかった。そのため「市長選の私怨が絡んだ面々で正しい調査ができるのか」と言われているが、委員に就いた議員からは「反対した議員には『調査の公平・公正を担保するため、そちら(反対)の議員も百条委に加わるべきだ』と申し入れたが断わられた」という不満が漏れている。  反対した8人は白石市長と距離が近いが、話を聞くと「百条委設置に反対したのに委員に就くのは筋が通らないと思った」と言う。しかし筆者は、本気で真相を究明するなら設置の賛否にこだわらず、議会全体で疑惑の有無を探るべきと考える。そうでなければ、せっかくつくった百条委が「反白石派の腹いせに利用されている」とねじ曲がった見方をされかねないからだ。  市保健福祉部の担当者はこう話す。  「百条委が設置されたことは承知しているが、具体的な動きがない限り市側はアクションを起こせないので、今後どうなるかは全く想像がつかない」  最後に、白石市長が安藤ハザマに変更した際に重視したとされる工事費や地域貢献度については市から入手した公文書にこんな記述がある。  例えば安藤ハザマは▽直接工事費の60%相当・工事費18億円以上を市内業者に発注、▽事務用品その他も4000万円以上を市内企業から購入、▽市内における関係者個人消費は3000万円以上。さらに概算工事費は45億8700万円と提示している。  一方、鹿島については市内業者への発注額、市内企業からの建設資機材購入額、概算工事費とも黒塗りされ詳細は不明だが、白石市長に次点者に追いやられたということは、いずれの金額も安藤ハザマより劣っていたことが推察される。 開院遅れで市民に不利益  だが、プロポーザルへの参加者を公募した際の公文書(4月19日付)にはこのように書かれている。  《選定委員会において技術提案及びプレゼンテーション等を総合的に審査し、最も評価の高い提案者を最優秀提案者に選定する》  選定委員会が最も高く評価した提案者を、市長の〝鶴の一声〟で変更していいとは書かれていない。白石市長は「工事費や地元貢献度の観点から安藤ハザマの方が優れており、やましい理由で変更したわけではない」と言いたいのだろうが、ルールに無い変更を独断で行った結果、疑惑を招き、市政を混乱させたことは事実であり、真摯に反省しなければならない。  何より新病院建設は前述した事業見直しで一時中断しており、今回の百条委でさらに遅れる可能性が出ている。高齢者や持病のある人にとって新病院は待望の施設なのに、開院がどんどん後ろ倒しになるのは不利益以外の何ものでもない。白石市長はたとえやましいことが無かったとしても、安藤ハザマに変更した理由を明確に示さない限り、市議会(百条委)は納得しないし、市民からも理解を得られないだろう。  白石市長は百条委設置を受け「プロポーザルに参加した業者の技術に差はなく、市民の利益を十分検討し最終決定した。調査には真摯に対応したい」とコメントしたが、今後の百条委で何を語るのか、それを聞いて百条委がどのように判断するのか注目される。 田村市ホームページ この記事を掲載している政経東北【2022年12月号】をBASEで購入する あわせて読みたい 白石田村市長が新病院施工業者を安藤ハザマに変えた根拠

  • 【富岡町】山本育男町長インタビュー

    【富岡町】山本育男町長インタビュー

     1958年8月生まれ。原町高、東京農業大卒。町議を連続5期務め、副議長などを歴任。2021年7月の富岡町長選で初当選を果たした。  ――夜の森・大菅地区の特定復興再生拠点区域で、来春の避難指示解除に向けた準備が進められています。  「避難指示解除が現実的なものとなるまで長い年月を要しましたが、再び生活できる地域として生まれ変わろうとしているのは大変喜ばしいことです。本町では、故郷での生活を希望する方々が心地よく暮らしていける環境を整え、いつでも『おかえりなさい』と言える状況を築き上げていきます」  ――2021年、拠点区域外の地域に関しても「除染して希望するすべての住民が帰還できるよう2020年代をかけて避難指示の解除を進める」という政府方針が示されました。政府に求めることは。  「帰還困難区域を有する自治体の『再生を決してあきらめない』という気持ちと、団結した姿勢により実現した政府方針だと考えています。ただ、我々が求めているのはあくまで〝早期〟の帰還であり、町の全域除染です。現在の方針では帰還を望む人の家だけ除染されることになりますが、隣家の空間線量が高ければ意味がない。政府には住民の意向に沿った方針を示してほしいと思います」  ――「復興まちづくり」の見通しについて。  「将来を切り開くための基礎はできつつありますが、医療、福祉、教育、産業、絆の維持、住宅、移住促進など、取り組まなければならないことは多いです。希望と笑顔あふれるまちにするため、町民一人ひとりの声を丁寧に聞いて、着実に取り組んでいきます。今後はソフト事業に注力していく考えです。具体的には、元々住んでいた住民と、移住してきた方々をつなぐイベントを積極的に開き、交流を促していきます」  ――そのほか取り組んでいる重点事業は。  「短期的には、帰還者の多くが高齢者であることから、2022年開設した『共生型サポートセンター』を円滑に運営し、福祉の充実を図っていきます。一方で、子どもたちの健全育成を目的に造られた『富岡わんぱくパーク』を生かし、子どもの体力向上や運動不足の解消及び子育て世代の交流を促進していきます  中長期的には、人材育成・確保が重要になると考えているので、教育費用の無償化、移住者への住宅支援などに努めていきます」  ――今後の抱負。  「本町は全町避難した自治体なので、これから復興・再生していくにはかなりの労力・時間を要するものと考えています。それでも、将来を見据えた町政運営を進めていくのが我々の使命です。全国に避難している町民が少しでも早く故郷で生活したいと思える環境を整備していきます」 富岡町ホームページ 政経東北【2022年12月号】

  • 【福島商工会議所】渡邊博美会頭インタビュー

    【福島商工会議所】渡邊博美会頭インタビュー

     わたなべ・ひろみ 1946年生まれ。福島大学経済学部卒業後、福島ヤクルト販売入社。2012年に福島商工会議所副会頭。13年11月に会頭就任。現在4期目。  福島商工会議所は2022年11月、会頭に渡邊博美氏=福島ヤクルト販売会長=を再任し、新体制がスタートした。渡邊会頭は、企業や商店の足腰を強くするため力を注いでいくことを4期目の抱負に掲げる。人口減少とコロナ禍が重くのしかかる県内だが、県庁所在地の商工会議所として、駅前再開発をエンジンに街に賑わいを取り戻そうと模索している。  ――会頭4期目の任期が始まりました。抱負をお聞かせください。  「震災後の2013年に就任してから9年、無我夢中で取り組んできました。新型コロナの拡大は、ワクチンで一時は改善が進むも、変異株でまた感染が広がるといったように、影響がなくなったわけではありません。いかに拡大防止と経済を両立させていくかにかかっています。  新型コロナ禍で経済活性化には課題が残り、あらゆる取り組みを講じても効果は実感できるには至りませんでした。経済活性化のために引き続き自分が頑張らなければならないと会頭再任をお引き受けしました。  今期は一つ一つの企業や商店の足腰を強くしていくことに力を注ぎたいです。市、県、国は支援策を用意していますがそれは一過性に過ぎません。いずれは民間が自力で事業を継続し、地元に雇用を生むようにならないといけません。職員や会議所の議員らとこの意識を共有し、最大限の力を発揮していきます。  副会頭には、新たに東邦銀行専務の須藤英穂氏が加わりました。事業承継を控える企業もあり、足腰を強くするには金融が今まで以上に重要となります。東邦銀行さんにはコンサルタント役を期待しています。経済と金融機関が一体となり地元経済を支えることを意識した布陣です」  ――円安や物価高、燃料費高騰が深刻な問題となっています。  「企業は、材料費、光熱費、社用車の燃料代がかさみます。企業努力にも限界があります。何よりも人口減少が消費を冷え込ませています。  福島県はピーク時は約210万人の人口(1997年)でしたが、現在は約180万人で30万人ほど減っています。『人口が1人減ると食費だけで年間100万円減る』と言われます。30万人減ったということは3000億円減ったということです。あらゆる商売に影響しているでしょう。人口減少は地域の努力だけでは解決できません。お子さんが欲しい方々が子どもを産んで育てやすい社会にするために、行政は抜本的な対策を打ち出す必要があります」  ――福島県商工会議所連合会の会長も務めています。国、県に要望したいことは何ですか。併せて3選した内堀雅雄知事に求めることは。  「経済団体の重要な仕事は行政への要望活動です。市や議会と同じ価値観で結集し、省庁や与党に要望に赴きます。東北中央道開通や国道13号福島西道路延長でも要望を重ねてきました。まちづくりに要望は不可欠で、今後はより力を入れなくてはならないと思います。  福島県は女性の転出者数が全国で最も多く最下位ということに問題意識を持っています。2012~2021年の10年間にわたり、4万1283人に上ります。女性が働きたくなるような仕事や条件を用意できない企業にも責任があると思っています。このままではますます人口減が進んでしまう。  多くの信任を得て再選した内堀知事には、あらゆる課題に切り口を変えてチャレンジする姿勢を見せてほしいと思います。知事は国とのパイプがあり、堅実なのが評価されています。これだけ信任されているのだから、優先順位を付けて一歩進んでメリハリをつけてもいい。  原発からの処理水対応に関しては『簡単ではない』『白か黒かではない』と誰もが理解しています。ただし、県民の立場で国、東電に言うべきことは言ってもいいと思います。  我々民間業者が危惧するのは風評被害です。福島県産農産物はまだ一部の国で海外への輸出が規制されています。これは福島県だけの問題ではありません。東電だけでなく、国が責任を持って『漁業者、加工業者に対し一切責任を持つ』と言ってもらわないといけません」  ――3年ぶりにわらじまつりが街中で開催されるなどイベントが復活しつつあります。  「コロナ後は、わらじまつりはウェブで開きました。ただ祭りはリアルでないといけないとの声が根強かったです。2022年は参加団体と時間を制限してリアル開催ができました。  街中で短距離走をする『ももりんダッシュ』も3年ぶりに行いました。古関裕而記念音楽祭も開かれました。毎週末のように何かしらイベントが開かれていますが、一方で周知不足を課題に感じています。主催の市、商店街、民間団体が連携して情報発信をするのが重要と考えます。『週末に行けば何かやっている』『フラッといったら楽しかった』。小規模なイベントを重ねて街中をそのように認識してもらえればいいのかなと思っています」  ――福島駅前再開発事業が本格始動しました。「福島駅東西エリア一体化推進協議会」の会長を務めていますが、駅前再開発、中心市街地活性化はどうあるべきと考えますか。  「事業は2026年までかかります。国道13号福島西道路を南へ延ばし、福島市南部で国道4号とつながる時期と重なります。西道路を北へ延ばす計画も国交省に要望しています。実現すれば、市街地を通る国道の完全なバイパスになるでしょう。  現在、大型トラックも市街地を通ります。事故の危険性も高まり、歩行者にも優しくありません。何よりもパセオ通りと駅前が国道で分断されています。  西道路に交通を逃がせれば、街中が一体化しイベントも行いやすくなります。福島駅東口の再開発と併せて福島市のポテンシャルが上がります。駅前には福島学院大学、医大の保健科学部キャンパスがあるので、若者の活気を得て街づくりができるのではないかと期待しています。  2022年秋田市で行われた東北絆まつり(東北六魂祭)はヒントでした。感染対策のため会場はスタジアムで酒類の提供もありませんでした。ですが、売り上げは良かったそうです。祭りと一緒に集結した東北のグルメに皆さんが舌鼓を打ったそうで、『酒が出せないなら儲けがない』と出店しなかった事業者が悔やむほどの盛況ぶりだったようです。コロナ禍でも経済は両立できると実証してくれました。  東北と新潟を合わせた7県で、あるいは福島市と東北中央道でつながる相馬、米沢と連携した街づくりも効果的なのではないでしょうか。福島県が震災・原発事故で打撃を受けたのは確かですが、助けを求めるだけではもう通用しません。力強く立ち上がって魅力ある地域にしていかなければなりません」 福島商工会議所ホームページ 政経東北【2022年12月号】

  • 【喜多方市】未来に汚染のツケを回した昭和電工【公害】

    【第3弾】【喜多方市】未来に汚染のツケを回した昭和電工

     昭和電工は2023年1月に「レゾナック」に社名変更する。高品質のアルミニウム素材を生産する喜多方事業所は研究施設も備えることから、いまだ重要な位置を占めるが、グループ再編でアルミニウム部門は消え、イノベーション材料部門の一つになる。土壌・地下水汚染対策に起因する2021年12月期の特別損失約90億円がグループ全体の足を引っ張っている。井戸水を汚染された周辺住民は全有害物質の検査を望むが、費用がかさむからか応じてはくれない。だが、不誠実な対応は今に始まったことではない。事業所は約80年前から「水郷・喜多方」の湧水枯渇の要因になっていた。 社名変更しても消えない喜多方湧水枯渇の罪  「昭和電工」から「昭和」の名が消える。2023年1月に「レゾナック」に社名変更するからだ。2020年に日立製作所の主要子会社・日立化成を買収。世界での半導体事業と電気自動車の成長を見据え、エレクトロニクスとモビリティ部門を今後の中核事業に位置付けている。社名変更は事業再編に伴うものだ。  新社名レゾナック(RESONAC)の由来は、同社ホームページによると、英語の「RESONATE:共鳴する、響き渡る」と「CHEMISTRY:化学」の「C」を組み合せて生まれたという。「グループの先端材料技術と、パートナーの持つさまざまな技術力と発想が強くつながり大きな『共鳴』を起こし、その響きが広がることでさらに新しいパートナーと出会い、社会を変える大きな動きを創り出していきたいという強い想いを込めています」とのこと。  新会社は「化学の力で社会を変える」を存在意義としているが、少なくとも喜多方事業所周辺の環境は悪い方に変えている。現在問題となっている、主にフッ素による地下水汚染は1982(昭和57)年まで行っていたアルミニウム製錬で出た有害物質を含む残渣を敷地内に埋め、それが土壌から地下水に漏れ出したのが原因だ。  同事業所の正門前には球体に座った男の子の像が立つ=写真。名前は「アルミ太郎」。地元の彫刻家佐藤恒三氏がアルミで制作し、1954(昭和29)年6月1日に除幕式が行われた。式当日の写真を見ると、着物を着たおかっぱの女の子が白い布に付いた紐を引っ張りお披露目。工場長や従業員とその家族、来賓者約50人がアルミ太郎と一緒に笑顔で写真に納まっていた。アルミニウム産業の明るい未来を予想させる。 喜多方事業所正門に立つ像「アルミ太郎」  2018年の同事業所CSRサイトレポートによると「昭和電工のアルミニウムを世界に冠たるものにしたい」という当時の工場幹部及び従業員の熱い願いのもと制作されたという。「アルミ太郎が腰掛けているのは、上記の世界に冠たるものにしたいという思いから地球を模したものだといわれています」(同レポート)。  同事業所は操業開始から現在まで一貫してアルミニウム関連製品を生産している。それは戦前の軍需産業にさかのぼる。 誘致当初から住民と軋轢  1939(昭和14)年、会津地方を北流し、新潟県に流れる阿賀川のダムを利用した東信電気新郷発電所の電力を使うアルミニウム工場の建設計画が政府に提出された。時は日中戦争の最中で、軽量で加工しやすいアルミニウムは重要な軍需物資だった。発電所近くの喜多方町、若松市(現会津若松市)、高郷村(現喜多方市高郷町)、野沢町(現西会津町野沢)が誘致に手を挙げた。喜多方町議会は誘致を要望する意見書を町に提出。町は土地買収を進める工場建設委員会を設置し、運搬に便利な喜多方駅南側の一等地を用意したことから誘致に成功した。  喜多方市街地には当時、あちこちに湧水があり、住民は生活用水に利用していた。電気に加え大量の水を使うアルミニウム製錬業にとって、地下に巨大な水がめを抱える喜多方は魅力的な土地だった。  誘致過程で既に現在につながる昭和電工と地域住民との軋轢が生じていた。土地を提供する豊川村(現喜多方市豊川町)と農民に対し、事前の相談が一切なかったのだ。農民・地主らの反対で土地売買の交渉は思うように進まなかった。事態を重く見た県農務課は経済部長を喜多方町に派遣し、「国策上から憂慮に堪えないので、可及的にこれが工場の誘致を促進せしめ、国家の大方針に即応すべきであることを前提に」と喜多方町長や豊川村長らに伝え、県が土地買収の音頭を取った。  近隣の太郎丸集落には「小作農民の補償料は反当たり50円」「水田反当たり850~760円」払うことで折り合いをつけた。高吉集落の地主は補償の増額を要求し、決着した。(喜多方市史)。  現在の太郎丸・高吉第一行政区は同事業所の西から南に隣接する集落で、地下水汚染が最も深刻だ。汚染が判明した2020年から、いまだに同事業所からウオーターサーバーの補給を受けている世帯がある。さらには汚染水を封じ込める遮水壁設置工事に伴う騒音や振動にも悩まされてきた。ある住民男性は「昔からさまざまな我慢を強いられてきたのがこの集落です。ですが、希硫酸流出へのずさんな対応や後手後手の広報に接し、今回ばかりは我慢の限界だ」と憤る。  実は、公害を懸念する声は誘致時点からあった。耶麻郡内の農会長・町村会長(喜多方町、松山村、上三宮村、慶徳村、豊川村、姥堂村、岩月村。関柴村で構成)は完全なる防毒設備の施工や損害賠償の責任の明確化を求め陳情書を提出していた。だが、対策が講じられていたかは定かではない(喜多方市史)。 喜多方事業所を南側から撮った1995年の航空写真(出典:喜多方昭寿会「昭和電工喜多方工場六十年の歩み」)。中央①が正門。北側を東西にJR磐越西線が走り、市街地が広がる。駅北側の湧水は戦前から枯れ始めた。写真左端の⑰は太郎丸行政区。  記録では1944(昭和19)年に初めてアルミニウムを精製し、汲み出した。だが戦争の激化で原料となるボーキサイトが不足し、運転停止に。敗戦後は占領軍に操業中止命令を食らい、農園を試行した時期もあった。民需に転換する許可を得て、ようやく製錬が再開する。  同事業所OB会が記した『昭和電工喜多方工場六十年の歩み』(2000年)によると、アルミニウム生産量はピーク時の1970(昭和45)年には4万2900㌧。それに伴い従業員も増え、60(昭和35)~72(昭和47)年には650~780人を抱えた。地元の雇用に大きく貢献したわけだ。  喜多方市史は数ある企業の中で、昭和30年代の同事業所を以下のように記している。  《昭和電工(株)喜多方工場は、高度経済成長の中で着実な成長を遂げ、喜多方市における工場規模・労働者数・生産額ともに最大の企業となった。また喜多方工場が昭和電工㈱内においてもアルミニウム生産の主力工場にまで成長した》  JR喜多方駅の改札は北口しかないが、昭和電工社員は「通勤者用工場専用跨線橋」を渡って駅南隣の同事業所に直接行けるという「幻の南口」があった。喜多方はまさに昭和電工の企業城下町だった。  だが石油危機以降、アルミニウム製錬は斜陽になり、同事業所も規模を縮小し人員整理に入った。労働組合が雇用継続を求め、喜多方市も存続に向けて働きかけたことから、アルミニウム製品の加工場として再出発し、現在に至る。  同事業所が衰退した昭和40年代は、近代化の過程で見過ごされてきた企業活動の加害が可視化された「公害の時代」だ。チッソが引き起こした熊本県不知火海沿岸の水俣病。三井金属鉱業による富山県神通川流域のイタイイタイ病。石油コンビナートによる三重県の四日市ぜんそく。そして昭和電工鹿瀬工場が阿賀野川流域に流出させたメチル水銀が引き起こした新潟水俣病が「四大公害病」と呼ばれる。 ※『昭和電工喜多方工場六十年の歩み』と同社プレスリリースなどより作成  同じ昭和電工でも、喜多方事業所は無機化学を扱う。同事業所でまず発覚した公害は、製錬過程で出るフッ化水素ガスが農作物を枯らす「煙害」だった。フッ化水素ガスに汚染された桑葉を食べた蚕は繭を結ばなくなり、明治以来盛んだった養蚕業は昭和20年代後半には壊滅したという。  もっとも、養蚕は時代の流れで消えゆく定めだった。同事業所が地元に雇用を生んだという意味では、プラスの面に目を向けるとしよう。それでも煙害は、米どころでもある喜多方の水稲栽培に影響を与えた。周辺の米農家は補償をめぐり訴訟を繰り返してきた。前述・アルミ太郎が披露された1954年には「昭電喜多方煙害対策特別委員会」が発足。希望に満ちた記念撮影の陰には、長年にわたる住民の怒りがあった。 地下水を大量消費  フッ化水素ガスによる農産物への被害だけでなく、同事業所は地下水を大量に汲み上げ、湧水枯渇の一因にもなっていた。「きたかた清水の再生によるまちづくりに関する調査研究報告書」(NPO法人超学際的研究機構、2007年)は、喜多方駅北側の菅原町地区で「戦前から枯渇が始まり、市の中心部へ広がり、清水の枯渇が外縁部へと拡大していった」と指摘している。06年10月に同機構の研究チームが行ったワークショップでは、住民が「菅原町を中心とした南部の清水も駅南のアルミ製錬工場の影響で枯渇した」と証言している。同事業所を指している。  研究チームの座長を務めた福島大の柴﨑直明教授(地下水盆管理学)はこう話す。  「調査では喜多方の街なかに住む古老から『昭和電工の工場が水を汲み過ぎて湧水が枯れた』という話をよく聞きました。アルミニウム製錬という業種上、戦前から大量の水を使っていたのは事実です。豊川町には同事業所の社宅があり、ここの住人に聞き取りを行いましたが、口止めされているのか、勤め先の不利益になることは言えないのか、証言する人はいませんでした」  地下水の水位低下にはさまざまな要因がある。柴﨑教授によると、特に昭和40年代から冬季の消雪に利用するため地下水を汲み上げ、水位が低下したという。農業用水への利用も一因とされ、これらが湧水枯渇に大きな影響を与えたとみられる。   ただし、戦前から湧水が消滅していたという証言があることから、喜多方でいち早く稼働した同事業所が長期にわたって枯渇の要因になっていた可能性は否めない。ワークショップでは「地下水汚染、土壌汚染も念頭に置いて調査研究を進めてほしい」との声もあった。  この調査は、地下水・湧水が減少傾向の中、「水郷・喜多方」を再認識し、湧水復活の契機にするプロジェクトの一環だった。喜多方市も水郷のイメージを生かした「まちおこし」には熱心なようだ。  2022年10月には、市内で「第14回全国水源の里シンポジウム」が開かれた。同市での開催は2008年以来2度目。実行委員長の遠藤忠一市長は「水源の里の価値を再確認し、水源の里を持続可能なものとする活動を広げ、次世代に未来をつないでいきたい」とあいさつした(福島民友10月28日付)。参加者は、かつて湧水が多数あった旧市内のほか、熱塩加納、山都、高郷の各地区を視察した。 「水源の里」を名乗るなら 昭和電工(現レゾナック)  昭和電工は戦時中の国策に乗じて喜多方に進出し、アルミニウム製錬で出た有害物質を含む残渣を地中に埋めていた。「法律が未整備だった」「環境への意識が希薄だった」と言い訳はできる。だが「喜多方の水を利用させてもらっている」という謙虚な気持ちがあれば、周辺住民の「湧水が枯れた」との訴えに耳を傾けたはずで、長期間残り続ける有害物質を埋めることはなかっただろう。喜多方の水の恩恵を受けてきた事業者は、酒蔵だろうが、地元の農家だろうが、東京に本社がある大企業だろうが、水を守る責任がある。昭和電工は奪うだけ奪って未来に汚染のツケを回したわけだ。  喜多方市も水源を守る意識が薄い。遠藤市長は「水源の里を持続可能なものとする活動を広げる」と宣言した。PRに励むのは結構だが、それは役所の本分ではないし得意とすることではない。市が「水源の里」を本当に守るつもりなら、果たすべきは公害問題の解決のために必要な措置を講じることだ。   住民は、事業所で使用履歴のない有害物質が基準値を超えて検出されていることから、土壌汚染対策法に基づいた地下水基準全項目の調査を求めている。だが、汚染源の昭和電工は応じようとしない。膠着状態が続く中、住民は市に対し昭和電工との調整を求めている。市長と市議会は選挙で住民の負託を受けている。企業の財産や営業の自由は守られてしかるべきだが、それよりも大切なのは市民の健康と生活を守ることではないか。 あわせて読みたい 【第1弾】親世代から続く喜多方昭和電工の公害問題 【第2弾】【喜多方市】昭和電工の不誠実な汚染対策 【第4弾】【喜多方市】処理水排出を強行する昭和電工 【第5弾】土壌汚染の矮小化を図る昭和電工【喜多方市】

  • 【櫻井・有吉THE夜会で紹介】車中泊×グルメで登録者数10万人【戦力外110kgおじさん】福島県ユーチューバー

     テレビ離れが進む昨今、ユーチューブの全世代の利用率は9割だ。本誌の読者層であるシニア世代も、パソコンやスマートフォンで毎日のようにユーチューブを見ている人は多いはず。数あるチャンネルの中には、県内で活動するユーチューバーも多数存在する。その中に、異色のジャンル「車中泊&グルメ」系で人気を誇る「戦力外110kgおじさん(43歳)」がいる。なぜ視聴者はこのチャンネルにハマるのか、本人へのインタビューをもとに、その謎に迫ってみたい。 【戦力外110kgおじさん】福島県内在住おじさんユーチューバーの素顔 https://www.youtube.com/watch?v=_SxScudMxQ8&t=23s  週末夜のキャンプ場。辺り一面、真っ暗の中、ポツンと明かりが灯る1台のプリウス。その車の後部座席で、一人焼肉をしながらチューハイ「ストロングゼロ」をキメる――。そんな様子をユーチューブに配信している男性がいる。男性の名は「戦力外110kgおじさん」(以下、戦力外さんと表記)。戦力外さんのユーチューブのチャンネル登録者数は10・5万人。1つの動画が配信されれば20万回再生するのは当たり前で、中にはミリオン(100万回再生)に届きそうな動画も複数ある。  「110kg」という名の通りの巨漢が、決して広いとは言えないセダンタイプのプリウスの後部座席で、好きなものをたらふく食べ、大酒を飲む。そんな動画がなぜ多くの人に見られ、そして見続けられるのか。  戦力外さんの動画はチャンネルを開設してすぐに〝バズった〟(人気が出た)わけではない。  戦力外さんがユーチューブに動画を配信し始めたのは2020年2月。当初は釣りの動画を配信していたが、再生回数は数十回程度で、チャンネル登録者数も伸びなかった。  浮上のきっかけとなったのは「顔出し」だった。   戦力外さんは「正直なところ、40代である自分らの世代ってネットで顔出しするなんて気が狂っているというか、抵抗があったんですよね」と話す。今の40代は、匿名性の高い「2ちゃんねる」などを見てきた世代であり、「インターネットでは絶対に顔を出すな」と言われてきた世代でもある。それでも、戦力外さんは再生回数を伸ばしたい一心で顔出しを決意した。  「顔出ししたら登録者が100人を超えたんですよ。ユーチューブには『チャンネル登録者数100人の壁』というのがあります。そこを自力で超えられると、収益化の条件である『チャンネル登録者数1000人・総再生時間4000時間』に近づくと言われています。大体の人はこの100人の壁を超えられず、やめてしまうみたいですね」  チャンネル登録者数100人に達するまで7カ月を要した戦力外さんだったが、そこから1000人になるまでは、わずか3カ月だった。  顔出しと前後して、現在の動画の原点となる「プリウスの快適車中泊キットを110kgおじさんがDIY」という動画を配信したことも追い風となった。  プリウスの後部座席で使う食卓テーブル兼ベッドを作る動画だ。プリウスは後部座席を倒してフラットにしても、普段座るときの足置きのスペースがぽっかり空いてしまう。寝袋を敷いて寝ていると、どうしても足の部分がはみ出てしまい快適に眠れない。それを解決するために作られたのがこの台だった(写真)。このときの動画が初めて再生回数1000回を超え、戦力外さんにとって初バズり動画となった。戦力外さんは「釣りではなく、車中泊に需要があるのか!」と気付き、動画の内容を車中泊系へと変更していく。 車内に設置された食卓テーブル兼ベッド  2度目のバズり動画は「車上生活者の休日シリーズ」。その後、このシリーズが戦力外さんの主力コンテンツとなっていく。 戦力外さんは「このシリーズの第1弾で、いきなり1万回再生いったんです」と言う。  「再生回数が伸びた理由は、当時チャンネル登録者数20万人のユーチューバーさんが動画にコメントをくれたからなんです」  コメントの内容は「あなたみたいな人が、もしかしたらユーチューブで成功するのかもしれませんね。収益化するまで是非続けてください。わたしも応援します」だった。  ユーチューブに限らずSNSではよく起こる現象だ。多くのフォロワーやファンを持つ配信者(発信者)が、無名ユーチューバーの動画を一言「面白い」と紹介しただけで、瞬く間にその動画が拡散されていく。これをきっかけに戦力外さんは、収益化の条件であるチャンネル登録者数1000人・総再生時間4000時間を達成した。 動画を通じて疑似体験  動画の冒頭は、戦力外さんが車中泊をする場所に向かう道中の運転席を映している。無言で運転する戦力外さんが映し出され、テロップでその日にあった出来事などが紹介される。動画の説明欄に「この動画は半分くらいフィクションです」とある通り、テロップの内容は現実世界で起きたことに、戦力外さんが少し〝アレンジ〟を加えたものとなっている。  名前にあるもう一つのテーマ「戦力外」。これは、戦力外さんが日々の生活において「社会に出ると全然自分が役に立たない」、「俺って会社や社会では戦力外だな」と、打ちひしがれた経験が基になっている。   視聴者のコメント欄を見ると「おっちゃん見てると他人事には思えないんだよな。職場のストレスはよく分かる! この動画を見てると頑張んなきゃって不思議と思える。おっちゃん頑張って!」などと書き込まれている。  「動画の前半部分によく出てくる職場での失敗エピソードは、視聴者が自分よりきつい環境にいる人を見て、自分はまだまだマシだなって安心したい思いがあると思います。社会の戦力外おじさんが、もがきながら、ささやかな楽しみを見つけて楽しんでいる姿を見てシンパシーを感じるのでしょうね」 取材に応じる戦力外さん  メーンである動画の後半部分は、戦力外さんが車中で一人、ひたすら飲み食いするシーンだ。これがまた「食べ物がとても美味しそうで、美味しそうに食べる」動画なのだ。  視聴者のコメント欄には「見てると幸せな気持ちになれる動画を、ありがとうございます!」、「毎回、元気いただいてます」などと寄せられている。  「自分の好きなユーチューバーを見ることによって、自分もキャンプした気持ちになる。健康上の理由で食べたいけど食べられない人にとっては、私の動画を見て食べた気になる。そうやって疑似体験したいのかもしれませんね」 動画の編集時間は5時間  戦力外さんは1979(昭和54)年生まれの43歳。出身は山形県だが、幼少期から30代半ばまで猪苗代町で過ごす。学生時代は漠然と「物書きになりたい」という夢を持っていた。専門学生時代にはサブカルチャー雑誌『BURST(バースト)』にハマり、石丸元章、見沢知廉、花村萬月など、破天荒だが自由を感じるライフスタイルに憧れた。何か行動に移すということはなかったが、創作活動をしたいという思いは学生時代から抱いていた。  高校卒業後、家業である川魚の養殖業に就き、6年半前に実家を出て中通りに引っ越すタイミングで、インフラ系の会社に転職した。20代に真剣に打ち込んだのはフルコンタクト空手という格闘技だった。しかし膝のじん帯を断裂し、選手生命を断たれてしまう。  人生の大きな目標を失い「もう一つ生きがいを見つけたい」と思い立った戦力外さんが表現活動の第一歩として始めたのが、LIVEコミュニケーションアプリ「Pococha(ポコチャ)」だった。しかし、ポコチャはリスナーと直接会話するスタイルで、高度なコミュニケーション能力が要求されるため数カ月で挫折してしまう。  戦力外さんは「誰かと直接コミュニケーションせず、自分のタイミングで動画を撮り、じっくり編集できる方がいいんじゃないか」と考え、ユーチューブを始めた。  平日は会社で働き、休日になると動画撮影のため出掛ける。撮り終わったら自宅に戻って編集する。1つの動画の編集作業は平均5時間を要するが、「スマホを使ってベッドに寝ころびながらリラックスして作業しているので、そんなに大変ではないですよ」。  台本は作らず、頭の中で動画の構成を練っている。仕事は車の移動時間が長いため、その時間を有効活用し、面白いワードが出てくるのをひたすら待つのだという。 「美しいマンネリ目指す」「理想は水戸黄門とか孤独のグルメ」  戦力外さんのチャンネルの視聴層は35~60歳までが多く、男女比では男性が9割を占める。  「理想は水戸黄門とか孤独のグルメなんです。視聴率トップは取れないけど、ずっと見てくれる人がいる。美しいマンネリっていうんですかね、そんな動画でありたいですね」  戦力外さんの動画が限られた層にしか見られていないと分かるエピソードがある。戦力外さんは自身のユーチューブチャンネルを母親に薦めたそうだが、母親が熱心に見るのは猫やフォークダンスの動画で、いくら薦めても自身の息子が配信している動画を全く見なかったという。戦力外さんは「興味がなければ肉親の動画でも見ないんですよ」と笑う。 プリウスと戦力外さん  ユーチューブはユーザー一人ひとりの趣味趣向に合った動画がトップ画面に表示されるような仕組みになっており、普段見ないジャンルの動画はそもそも表示もされない。これはユーチューブに限ったことではなく、買収騒動で話題のツイッターなどのSNS、ゾゾタウンなどの通販サイトも同様だ。  ただ、世の中の〝おじさん〟しか見ないニッチな動画を配信しているはずが、最近は少しずつファン層が拡大している様子。北海道に撮影に行った際、チャンネル登録しているファンの女性と奇跡的に出会い、お付き合いするまでに至ったという。  声をかけられる機会も増え、特にキャンピングカーで旅をしているシニア世代の夫婦からが多いようだ。 専業ユーチューバーへ  戦力外さんは6年半勤めた会社を辞め、12月から専業ユーチューバーとして活動を始めた。  「収入は不安定ですし、専業としてやっていくのに不安はありましたが、これからは創作活動一本で食っていくんだと決めました」  ユーチューブでの収入は「サラリーマンの月収の2倍くらい」だという。再生回数の変動などにより月の収入が100万円の時もあれば10万円の時もあるような世界だが、ユーチューブで最も広告収入を得やすいのは3月と12月なので、そのタイミングで退職を決意した。  ユーチューブは再生数によって広告収入が決まる。その単価についてはユーチューブの規約で公言しないよう定められている。戦力外さんも明かそうとしなかった。  しかし、さまざまなユーチューバーの書籍の情報によると、現在、ユーチューブの広告収入単価は1再生あたり0・05~0・7円と言われている。トップクラスの人気ユーチューバーは、1つの動画につき、サラリーマンの平均年収の3~4倍の広告収入が入る計算となる。  とは言っても、そこまで稼げるのはほんの一握りで、急に動画が見られなくなることだってあるのだ。  ただ、戦力外さんは「ユーチューブはプライベートすべてがネタになる」と前向きに捉える。  「仮にユーチューブで稼げなくなり、アルバイトをすることになっても、それを動画にすればいい。いいことも悪いこともネタにできるのがユーチューブなんです」  専業ユーチューバーになれば撮影回数を増やせるし、動画を配信する本数も増える。海外向けのチャンネル開設も目論んでいる。  「私のチャンネルは日本語のテロップを入れているので日本人しか見ません。次は世界に向けて、言葉なしでも伝わるような動画も作っていければと思っています」  戦力外さんは、テロップ無しに加え、ユーモアもプラスアルファしていきたいと考えている。  「チャップリンやミスタービーンみたいなコミカルな動きを入れていけば面白いかなと思っています」  一度見たら見続けてしまう中毒性。これがユーチューブの性質であり、作り手はそこを目指して動画を作成する。  「好きなことで、生きていく」  これはユーチューブのキャッチフレーズだが、専業ユーチューバーとして生き残っていくためには、そうも言っていられない。戦力外さんは「自分が好きなものも大事ですが、それ以上に、視聴者が求めているものを常に考え、再生回数が落ちないように維持していかなければなりません」と漏らす。  「死ぬ時、『なんであの時に専業ユーチューバーにならなかったんだ』と思いたくないんです。やった後悔よりもやらない後悔の方が悔いが残るって言うじゃないですか」  そう笑って話す戦力外さん。この先、どのようなチャンネルや動画を作り、ファンを拡大していくのか。〝おじさんユーチューバー〟の挑戦は始まったばかりだ。 追記【TBS 櫻井・有吉THE夜会で紹介】(2023年5月23日放送分)戦力外さんが紹介される! チュートリアル・徳井義実さんが、おすすめのユーチューブチャンネルを紹介するコーナーで戦力外さんを紹介!タイトルは「なぜか見てしまう!脱サラ親父の哀愁車内メシ」。23分30秒頃から。 Paravi(パラビ)で視聴する

  • 【Jパワー(電源開発)】更新工事進む鬼首地熱発電所【宮城県大崎市】

     Jパワー(電源開発)が運営する鬼首地熱発電所(宮城県大崎市、1万5000㌔㍗)は40年以上にわたり電力を安定供給してきた。現在は更新工事の最終段階にあり、2023年4月の運転再開に向け、各種機器などの整備が進められている。 更新工事中の鬼首地熱発電所(手前が還元井、奥が冷却塔)  地熱発電は地下に溜まった蒸気や熱水を「生産井」でくみ上げ、気水分離器を経て蒸気でタービンを回す発電方法。使い終わった蒸気は冷却塔で冷やし、熱水とともに「還元井」で地下に戻す。 くみ上げた蒸気と熱水を分ける「気水分離器」  循環利用できれば長期間にわたり安定的な発電が可能となる。天候の影響を受けず、CO2排出量も少ない。設備利用率(フル稼働時の発電量に占める実際の発電量の割合)は風力約20%、太陽光約12%に対し、地熱発電は約80%だ。  同発電所は鳴子温泉郷から北西約20㌔の「鬼首カルデラ」内に位置し、「栗駒山国定公園」として第一種特別地域の指定を受けている。同社では戦後早くから地熱発電所の建設に着手した。1975(昭和50)年に出力9000㌔㍗で営業運転開始。以降、順次出力を増やし、2010年には1万5000㌔㍗に増強した。  その後、環境負荷の低減や安全性考慮の観点から新たな設備の導入が必要と判断し、17年に一時運転停止。19年から設備更新工事に入った。  生産井9坑、還元井8坑を埋め戻し、新たに掘削した生産井5坑、還元井5坑に集約。これでも出力は更新前とほぼ同水準を維持(1万4900万㌔㍗)。タービン棟を新設し発電機の効率が向上したことで、使用する熱水量・蒸気量が従前より減少するため、有毒な硫化水素の排出量が減少した。過去に生産井付近で発生した噴気災害を念頭に入れ、高温地帯に設備を設けないようにした。  すでに電気、建築設備は立ち上がり、生産井の噴気試験も終了。11月に試運転を開始した。更新工事には同社のほか、グループ会社や協力会社が連携して取り組んでおり、生産井などの掘削工事は主にJパワーハイテックが担った。  同発電所は地域振興の役割も担う。21年度には地元・大崎市の小学校や高校で授業を行い、鳴子温泉の特質や地元資源の独自性、地熱発電の仕組みなどを説明した。地元のお祭りや清掃活動にも積極的に参加しているほか、再生可能エネルギーを扱う東北大学の出前授業にも近々出講する予定となっている。  Jパワーでは50年までに国内発電事業のCO2排出量を実質ゼロにする目標を掲げている。同発電所の北約2㌔の地点にある高日向山地域(宮城県大崎市)では新たな地熱発電所の開発を目的とした資源量調査も進んでいる。  今後も同社ではエネルギーを不断に供給し続ける使命を念頭に、地域と信頼関係を築きながら事業を継続していく考えだ。

  • 追悼・渡部恒三元衆議院副議長 2022年11月6日にお別れの会開催

     元衆議院副議長で通商産業大臣、厚生大臣、自治大臣などを務め、2020年8月23日に死去した渡部恒三(わたなべ・こうぞう)氏の「お別れの会」が2022年11月6日、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで開かれた。コロナ禍のため延期になっていたもので、関係者をはじめ、政界・経済界から約350人が参列した。 同日には会津若松市城東町の自宅に「渡部恒三記念館」が開館した。館内には大臣就任時に受け取った任命書や叙勲などゆかりの品が展示されている。入場無料。開館は水、土、日曜日の10時から16時。 当日の様子と併せて、約30年前の誌面に載せた恒三氏の写真を再掲する。 在りし日の恒三氏(1992年10月撮影) 会津若松市で行われた「お別れの会」の様子 議員宿舎で晩酌する恒三氏(1992年10月撮影) 記念館前に建てられたブロンズ像 恒三氏を支えていた秘書たち。中央は佐藤雄平元知事。 会津若松市の自宅で家族と食事をとる(1992年10月撮影) 記念館に展示されている恒三氏ゆかりの品 恒三氏の長男・恒雄氏 「お別れの会」であいさつする佐藤雄平元知事

  • 鏡田辰也アナウンサー「独立後も福島で喋り続ける」

     ラジオ福島の名物アナウンサー・鏡田辰也さん(58)が9月末で退社し、フリーアナウンサーとして独立した。大きな節目を迎えたタイミングで、アナウンサー人生と独立の理由について語ってもらった。  かがみだ・たつや 1964年2月生まれ。広島県出身。東洋大卒。1988年にラジオ福島入社。2002年にギャラクシー賞DJパーソナリティー賞受賞。TUF「ふくしまSHOW」にも出演。9月末、ラジオ福島を退社し、フリーアナウンサーとなった。  「テレビ出演時、顔にメイクをしたら、お肌に異変を感じたんです。深刻な病気かと思い、すぐ皮膚科に相談したら、『老人性イボですね』と言われて終わりでした。ワハハ」  ラジオからにぎやかな笑い声が流れる。平日13時から16時、ラジオ福島で放送されている生ワイド番組「Radio de Show(ラジオでしょう)」の一幕だ。  マイクの前に座るのは水・木曜日担当の鏡田辰也さん。〝カガちゃん〟の愛称で知られ、同社で30年以上喋り続ける人気アナウンサーだ。  冒頭のようなエピソードを話しつつ、番組に訪れるゲストの話も引き出し、リスナーから寄せられたメールを逐一紹介して話を広げていく。  同社のスタジオはすべて一人で操作する「ワンマンコントロール」。生ワイドはやることが多いので、制作ディレクターが1人付いているが、CMまでの時間管理や放送機材操作は基本的に鏡田さんが担う。ほぼ1人で番組を進行しているわけ。  驚かされるのはトーク内容に関する台本すら全く用意していないということだ。 3時間の生ワイド放送中はトークしながら試食も担当し、放送機材(写真下)も操作するなど大忙し  「時間になったらマイクの前に座って話すだけ。典型的な『アドリブ派』です。昔から読書と映画が好きで、自宅には数百冊の蔵書と大量のブルーレイ・DVDがあります。それらの〝引き出し〟があるからよどみなく話せるのかもしれません」  その能力を生かし、ラジオDJのほか、講演会、イベント、結婚式のMC(司会)なども数多く務めてきた。2020年には、テレビユー福島で毎週水曜夜7時から放送されている地域情報バラエティー番組「ふくしまSHOW」のMCに起用された。他局ではニュースや人気バラエティー番組が放送されている時間帯だが、視聴率は好調で、「『いつもテレビ見ています』と声をかけてくれる方が多くなりました」と笑う。  1964(昭和39)年2月5日、広島県広島市生まれ。実家はJR広島駅前で宿泊業を営む。小さいころから一人で喋り続け、周りの大人からは「客商売向きだ」、「よしもと新喜劇に行け」と言われていた。  東京に行きたくて東洋大に進学。3年生のとき、大学生協の購買部で「東京アナウンスアカデミー」というアナウンス専門学校のチラシが目に入った。「家業を継ぐ前に、きれいな日本語を身に付けるのもいいかも」。気軽な気持ちで入校し、アナウンス技術を学ぶうち、「広島に帰る前に、何年かアナウンサーをやってみたい」と思うようになった。 4年目に迎えた転機  就職活動本番。全国のテレビ・ラジオ局を30社ぐらい受けたが全滅した。既卒となると採用のハードルがさらに上がるため、〝自主留年〟して、翌年も就職活動に再挑戦したが、すべて落ちた。  あきらめて他業種に就職するつもりだったが、2月になって、専門学校から「ラジオ福島で欠員募集が出た」と連絡が入った。ラジオ福島はは2年連続で入社試験に落ちていた。あきらめ半分で試験に臨んだところ、まさかの「内定」が出た。  〝滑り込み〟で始まったアナウンサー人生だったが、入社直後も苦難が続いた。  「先輩方から『暗い』、『笑い方が変』と毎日注意を受け、自社制作CMには『鏡田以外で』と指定が入ったほど。笑うこと、話すことがうまくできなくなり、いつも下を向いて歩いていました。任される仕事は時刻告知や列車情報を読み上げるぐらいで、中継や番組には使ってもらえませんでした」  転機となったのは入社4年目。JR福島駅前からの中継を任されたとき、スタジオにいる先輩アナウンサーから「そこで美空ひばりの曲を歌って」と〝無茶振り〟された。思い切って「真赤な太陽」を歌ったら、思いがけず観衆から拍手をもらった。  「たとえ自信が無くても一生懸命やる姿を見せることが大事なのか」。鏡田さんの中で何かが吹っ切れた。  「笑う門には福来る」をモットーに、気取らずに笑って話すことを心掛けた。しばらくすると、夜11時から放送されていた「rfcロックトーナメント」という若者向けの音楽番組を任されるようになった。  自分の好きなアーティストの応援ハガキを送り、その数でランキングが決まるシステムが売りだった。当初こそ前任の女性アナと比較されたが、気取らない鏡田さんのキャラはすぐリスナーに受け入れられた。何より音楽を好んで聞いていた鏡田さんに打ってつけの内容だった。番組には毎月5000通ものハガキが寄せられた。  音楽関係者も注目するようになり、ビッグアーティストが東北でPRキャンペーンを展開するとき、番組を訪れるようになった。  入社7年目の1995年4月には、鏡田さんをメーンMCとするお昼の生ワイド番組「かっとびワイド」がスタートした。  曜日ごとに選ばれた相手役のパーソナリティーはいずれも曲者ぞろい。思ったことは何でも口にする昭和2年生まれの「ハッピーチエちゃん」こと二宮チエさん。豪快なトークが持ち味の演歌歌手・紅晴美さん。鏡田さんの私生活も容赦なくネタにするお笑いコンビ・母心(ははごころ)。  そんなメンバーからの厳しい〝ツッコミ〟に対し、鏡田さんが変幻自在のトークで「笑い」にして返す。にぎやかで予測不能な掛け合いが評判を集め、同社の看板番組となった。その後タイトルを変えながら、25年以上にわたり放送され続けている。  「『鏡田さんの笑い声を聞くと元気が出る』というお便りをたくさんいただきました。私にとっては宝物で、いまも大切に保管してあります」  同番組でのトークが評価され、2002(平成14)年には、放送批評懇談会が主催するギャラクシー賞のDJパーソナリティー賞を、地方局のAMラジオアナウンサーとして初めて受賞した。  2005(平成17)年には、TBSをはじめとするJNN・JRN系列各局の優秀なアナウンサーに与えられる「アノンシスト賞」のラジオフリートーク部門で最優秀賞を受賞。就職活動も新人時代も〝落ちこぼれ〟だった鏡田さんが、全国に認められるアナウンサーとなった。 退社を決断した理由  一方で挫折もあった。東日本大震災・東京電力福島第一原発事故発生直後には、深刻な状況に直面して何も喋れなくなった。3・11から5日後、上司である大和田新アナウンサー(当時)に退職を申し出た。大和田さんにはこう励まされた。  「今はつらいかもしれないけれど、福島県が鏡田の声を必要とするときがきっと来る。それがいつなのか約束できないけど、いまは歯を食いしばって頑張ってくれ」  同社では発災時から350時間にわたりCMをカットして連続生放送を行った。鏡田さんもスタジオに入り、情報を伝え続けた。必死過ぎてそのときの記憶はほとんど残っていないという。  ただ同年5月、郡山市内のホテルで震災・原発事故後初めて開かれたイベントはよく覚えている。紅晴美さんや母心とのイベントに多くのリスナーが集まった。その姿を見て、イベント開始直後から涙が止まらなくなった。これからも自分にしかできない明るい放送をリスナーに届け続けよう――そう決意した。  そんな鏡田さんがこの秋、大きな決断をした。定年退職前にラジオ福島を退社し、フリーアナウンサーとなったのだ。  「4月に編成局長を任されたが、局長職業務を完璧にこなしながら、放送やイベントの仕事をいままで通り続けるのは、自分には難しいと感じました。しばらく考えた結果、アナウンサーとしての仕事を自分のペースで続けたい、という思いが勝った。そのため、会社と話し合って退職を決めました。おかげさまで独立後もラジオ・テレビのレギュラー番組は継続させていただいています」  卓越したMCスキルとアナウンス技術、30年以上の経験、幅広い人脈……これらを備えたアナウンサーは全国でもまれで、一層の活躍が期待されるが、鏡田さんはこう語る。  「ラジオは喋り手が身近な存在に感じられるし、スマホでも聞ける。さらには『ながら聞き』できるなど大きな可能性を秘めている。これからもラジオに関わり続けたいし、テレビでは地域密着型番組も担当しているので、明るい放送で福島県を盛り上げていきたい」  今日もスピーカーから明るい笑い声が流れてきた。太陽のような〝カガちゃん〟の存在が福島県を明るく照らし続ける。

  • 石川町長選で落選【西牧立博】氏の悪あがき

     2022年8月28日投開票の石川町長選で落選した元職の西牧立博氏(76)が同10月19日、町選管に異議申し出を提出した。無効票に有効票が紛れている可能性や、開票立会人が票の点検を怠ったとして、投票用紙の再点検を求めたもの。町長選では8647人が投票し、有効票8310票、無効票337票。現職の塩田金次郎氏(74)が西牧氏に716票差で再選を果たした。  町選管が再点検を実施したところ、塩田氏の票が3票減って4510票となったが、西牧氏の3797票は変わらず、2022年10月27日に異議申し出が棄却された。正直〝悪あがき〟感は否めず、町民から呆れる声も聞かれる。ただ当の本人は、二度の事件で逮捕されながら、再び町長選に立候補する性格なので、全く気にしていないのかもしれない。  一方でそんな西牧氏に700票差まで迫られたということは、途中で断念した病院誘致をはじめ、塩田氏に不満がある人が少なくないということ。そのことを意識して町政運営を進める必要があろう。

  • 福島市いじめ問題で市側が被害者に謝罪

    福島市内の男子中学生が市立小学校に通っていたときにいじめを受け、不登校になった問題について、本誌2022年4月号「【福島市いじめ問題】6つの深刻な失態」という記事で、詳細にリポートした。  記事掲載後、男子中学生と保護者は市や市教育委員会の対応を巡り、担任の教員や教育委員会などに謝罪を要求。県弁護士会示談あっせんセンターに示談のあっせんを申し立て、2022年10月末、市長と教育長が謝罪することで和解に至った。  福島市は2022年11月22日の記者会見で、木幡浩市長と佐藤秀美教育長が非公式の場で直接謝罪しことを明らかにした。和解の条件として、市が児童らに180万円の解決金を支払い、いじめ問題の関係者を今後処分する。  同日、被害者側も記者会見を開き、男子中学生は「心の傷は治らない」と語った。保護者は「こちらが求める謝罪ではなかった」としつつ、「今後は組織一体となっていじめ問題に対応してほしい」と訴えた。

  • 来春に迫った北塩原村議選2つの注目ポイント

     北塩原村議会議員の任期は2023年4月29日までで、同月中に選挙が行われる予定となっている。  いまの議員は「村として初めての無投票」(ある関係者)によって選ばれ、村民からは事あるごとに「無投票は良くない」といった声が聞かれていた。  そのため、1つポイントになるのは「2回連続の無投票は阻止しなければならない」といった動きだ。  「現職議員の中には、無投票なら出る、選挙になるなら出ない、といった考えの人もいるようです。正直、そういった発想は村民(有権者)を愚弄しているとしか思えない。そんな人がタダで議員になるのを防ぐ意味でも、何とか無投票は避けてほしい」(ある村民)  もう1つは、遠藤和夫村長に近い議員は伊藤敏英議員くらいで、遠藤村長が自派議員擁立に動くか、ということ。  本誌8月号に「北塩原村長辞職勧告決議の背景」という記事を掲載した。同村6月議会で、遠藤村長の辞職勧告決議案が提出され、賛成5、反対2、退席2の賛成多数で可決された。背景にあるのは、介護保険の高額介護サービス費の支給先に誤りがあったこと、支給事務手続きが遅延したことで、その責任を問われた際、遠藤村長からは「自分の責任ではない」旨の発言があった。そのため、議員から「村長の説明は自分に責任がないようなものになっている。この先、事務執行するに当たって誰が責任を取るのか、明確にしておかなければならい」として、村長の責任を追及する動議が出された。その後、辞職勧告決議案が提出されたという流れだ。  その際、遠藤村長は「重く受け止める」とのコメントを残したが、辞職は否定した。同決議に法的拘束力はない。 遠藤和夫村長  そのほか、同議会ではそれに付随するような形で、一般会計補正予算案も賛成3、反対6の賛成少数で否決された。  こうした例があったため、遠藤村長は自派議員擁立に動くのではないか、とみられている。  もっとも、前述したように、明確に遠藤村長派と言える議員は伊藤議員1人だけだが、この間、前段で紹介した辞職勧告決議、一般会計補正予算案の否決のほかに、議案を否決されたのは1、2回あった程度で、表向きは議会対策にものすごく苦心している、というわけではない。  ちなみに、遠藤村長は2020年8月の村長選で初当選し、現在1期目。遠藤村長の妹が菅家一郎衆院議員の妻で、2人は義理の兄弟に当たる。1期目の折り返しを過ぎ、より自分の「カラー」を打ち出すためにも、遠藤村長は自派議員を増やしたいと考えているようだ。  同村は、北山、大塩、檜原の旧3村(3地区)に分かれているが、「遠藤村長は各地区で候補者を立てたい意向のようです」(ある関係者)という。  もっとも、別の村民によると「早い段階で表立って動くと、潰されてしまうから、いまはまだ水面下での動きにとどまっているようです」とのこと。  遠藤村長派の議員の台頭はあるのか、2回連続の無投票を阻止できるのか、この2つが同村議選の注目ポイントになろう。

  • 渡辺義信県議会議長に「白河市長」待望論!?

     白河市長4期目の鈴木和夫氏(73)が2023年7月28日に任期満了を迎える。市長選まで1年を切ったが、現職の動向を含め、まだ目立った動きは見えない。  鈴木氏は早稲田大卒。県商工労働部政策監、相双地方振興局長、県企業局長などを経て、2007年の市長選で初当選を果たした。  県職員時代の経験を生かし、財政再建や企業誘致、歴史まちづくり、中心市街地活性化を進めてきた行政手腕は高く評価されている。初当選時こそ次点の桜井和朋氏と約4000票差の約1万6000票だったが、2回目以降は2万票以上を獲得し、次点に1万票以上の差をつけ、当選を重ねてきた。  とはいえ、さすがに5選ともなると、「多選」のイメージが強くなり、弊害を懸念する声も出てくる。それを見越して、市内では〝後釜〟探しが水面下で進んでいるようだ。  市内の経済人によると、「『県議会議長の渡辺義信氏(59、4期、白河市・西白河郡、自民党)をぜひ次期市長に』という声が同県議の地元である旧東村で上がっている」という。 鈴木和夫氏(上)と渡辺義信氏  渡辺氏は日大東北高卒。自民党県連幹事長などを歴任し、2021年10月、県議会議長に就任した。白河青年会議所理事長、ひがし商工会副会長などを務めた経験から、応援する経済人も多いようだ。  2023年秋には県議の改選が控える。前回2019年の県議選での渡辺氏の得票数は1万0362票。現職・鈴木氏との一騎打ちとなれば勝ち目はなさそうだが、誰も成り手がいないのなら渡辺氏が適任ではないか――こうした〝待望論〟が支持者などから出てきているわけ。  もっとも、身内であるはずの自民党関係者は冷ややかな反応を示す。  「渡辺氏は国政選挙などがあっても真面目に応援してくれない。閣僚が応援演説に来た際も数人しか集められず、慌てて他地区から動員したことがあった。仮に市長選に出ても、(自民党支持者が)一丸となって応援する構図は考えづらい」  こうした声が出る背景には、白河市・西白河郡選挙から満山喜一氏(71、5期、自民党)も選出されており、市内の自民党支持者が二分されている事情もあるのだろう。  渡辺氏本人は周囲に「立候補はしない」と明言しているようだが、渡辺氏の動きを警戒する鈴木氏の後援会関係者からは「鈴木氏にもう1期頑張ってほしい」という声が上がっているようだ。鈴木氏本人も「多選批判」を意識しているだろうが、周囲から立候補を強く要請されれば状況が変わる可能性もある。  市内の選挙通は鈴木氏の立候補について、「市周辺の幹線道路を結ぶ『国道294号白河バイパス』が全線開通間近で、市役所隣接地には複合施設を整備する計画も進んでいる。筋道を立て、その完成を見届けてから引退したい思いが強いのではないか」と見立てを語る。  複合施設は鈴木氏が市長選の公約として掲げていた「旧市民会館跡地の活用」の一環として行われるもので、健康・子育て・防災・生きがいづくり・中央公民館などの機能を備える(本誌2021年6月号参照)。  現在基本設計に着手しているところで、2023年3月に策定し、2026(令和8)年度以降に工事完了予定だ。概算事業費は約35~45億円の見込み。前回市長選の公約に掲げるほど、事業にかける思いは強い。  一方で、同施設に関しては、資材高騰の影響から設計案の見直し(コンパクト化)が進められており、一部で先行きを心配する声も出ている。  そうした問題への対応も含め、鈴木氏の今後の動向が注目される。おそらく年明けに動きが本格化するのではないか。

  • 選挙を経て市政監視機能が復活した南相馬市議会

     任期満了に伴う南相馬市議選(定数22)は2022年11月20日に投開票され、現職19人、元職2人、新人1人が当選した(開票結果は別掲の通り)。  注目は本誌2022年11月号で既報の通り、元市長の桜井勝延氏が立候補したことだった。市議を経て2010年から市長を2期務めたが、14、18年の市長選で現市長の門馬和夫氏に敗れた桜井氏。再び市議を目指すことに市民からは「どれくらい得票するのか」と注目が集まったが、結果は6061票と2位に4123票差をつける圧勝を飾った。  もっとも、当の桜井氏が意識したのは投票率だった。桜井氏は立候補の挨拶回りをする中で、市民が市議会に関心がないことを知り「市議会は市政のチェック機関だが、市議会に関心を持たないと市政に無関心な市民が増えてしまう」と危機感を露わにしていた。自分が立候補することで市民の関心を少しでも市議選に向けさせたいと選挙戦に臨んだが、結果は56・37%で前回(2018年)の55・91%から0・46㌽の上昇にとどまった。  これをどう受け止めるかだが、桜井氏は「思ったより伸びなかった」と評している。2014年の市議選の投票率は59・10%なので、低下に歯止めをかけたのは事実だが、桜井氏の立候補が市民の関心を向けさせるきっかけになったかというと、ゼロではないが起爆剤とはならなかったようだ。  とはいえ、有権者の投票行動には明らかな変化が見られた。  一つ目は、現職の当選者(19人)が全員、前回より得票数を減らしたことだ。少ない人で100票前後、多い人で1100票も減らした。  その分の全てが桜井氏に投じられたかというとそうではない。二つ目の変化は、桜井氏以外にもう1人、元職が当選したことだ。郡俊彦氏は旧鹿島町議も長く務めたベテランだが、2010年の市議選で落選し政界引退。ただ引退後も「わだい」という広報紙を発行し、門馬市政を厳しく批判していた。  実は、郡氏は現職時代、共産党議員として活動していたが、今回の市議選では公認申請せず無所属で立候補した。  「同市の共産党議員は今回6選を果たした渡部寛一氏と落選した栗村文夫氏だが、2人は門馬市政を支える与党のため、郡氏は『共産党として市政をチェックする役目を果たしていない』と不満だったのです。そこで、郡氏はあえて無所属で12年ぶりの市議選に挑み、1163票で返り咲いた。一方、渡部氏と栗村氏は前回より揃って600票以上減らした。2人の減らした分がそっくり郡氏に回ったことで、市内の共産党員が与党として活動する2人を評価していないことが明白になった」(選挙通)  そして三つ目の変化が、初当選した表信司氏の存在だ。表氏は市職員を退職して市議選に挑んだが、実際に門馬市長に仕えて「この市政はおかしい」と問題意識を持ったことが立候補の動機になった。  投票率の上昇はわずかだが、現職全員が得票数を減らす中、桜井氏、郡氏、表氏が当選したのは「今の市議会は門馬市政をチェックできていない」と市民が判断した証拠だ。改選後の市議会がどう変わっていくのか注目される。 南相馬市議会ホームページ

  • 郡山の補選で露呈した福島県議への無関心

     郡山市の政界関係者の間で同市選挙区県議補選(欠員1)の投票結果に注目が集まっている。同補選には前市議の新人佐藤徹哉氏(自民党)と会社経営の新人髙橋翔氏(諸派)が立候補し、内堀雅雄知事が3選を果たした知事選と同じ10月30日に投開票された。  当6万5987 佐藤 徹哉54    1万9532 髙橋  翔34                  投票率34・72% 当選した佐藤徹哉氏(上)と髙橋翔氏  表面的な数字だけ見れば、自民党公認で公明党の支援を受けた佐藤氏の大勝は不思議ではない。注目されるのは高橋氏の得票数だ。  「正直、1万9500票も取るとは思わなかった。旧統一教会の問題など岸田内閣に対する反発が自民党公認の佐藤氏には逆風になった」(ある自民党員)  髙橋氏がここまで得票できた要因を、ある保守系の郡山市議は 「髙橋氏はもともと知事選に出ると言っていたのに、告示日(10月13日)になって急きょ県議補選に方針転換した。メディアはその間、知事選の立候補予定者として髙橋氏の顔と名前をずっと報じたからね」  と〝恨み節〟を語っていたが、立候補表明した以上、メディアはその事実を報じざるを得ない。ちなみに本誌も、8月号に「知事選立候補を前提」とした髙橋氏のインタビュー記事を掲載している。  選挙後、髙橋氏に県議補選に変更した理由を尋ねると、次のように説明した。  「知事選は当初、複数の候補者が手を挙げていたが、告示日時点で三つ巴(内堀氏、草野芳明氏、髙橋氏)になった。しかし対現職で考えた時、新人2人が挑むのは現職批判票の分散を招き、私が一つの指針にしている『対立候補の得票率10%』を超えるのは難しい。そこで、私が県議補選に回ることでどちらも一騎打ちの構図とすれば、無投票阻止と得票率10%を同時に目指せると考えた。そもそも市議をそそくさと辞めた人を県議に無投票で当選させることは、一郡山市民として納得できなかった。もちろん、共産党が知事選に候補者を立てていなければ私は確実に出馬しており、県議補選には子育て世代の若手を擁立する予定だった」  そんな県議補選をめぐっては、投票率や無効票にも注目が集まった。  例えば、知事選の郡山市だけの投票率は37・44%、投票総数は9万8614票だったが、県議補選は34・72%、8万5519票で、県議補選の方が投票率は2・72㌽低く、投票総数も1万3095票少なかった。  これは告示日の違いが影響している。すなわち知事選は10月13日、県議補選は同20日だったが、近年は期日前投票が増えているため、先行した知事選は投票したものの県議補選は投票しなかった人が1万3000人超もいたということだ。県議補選への関心の低さがうかがえる。  無効票の数も特筆される。知事選5816票に対し県議補選6910票と、投票総数が知事選より8分の1も少ない県議補選の方が1100票余も多かった。県議補選の投票用紙に「内堀雅雄」と書かかれたケースが散見されたという話もあるが、郡山市選管によると「無効票にそれだけの差がついた理由はよく分からない」という。  地元ジャーナリストはこんな危機感を示す。  「有権者にとって県議はいかに遠い存在であるかが明白になった。当選した佐藤氏は、髙橋氏の急な方針転換で選挙戦となり少しは知名度アップを果たせたかもしれないが、知事選と同日選になったことで、県議への無関心さが露呈した形です」  投票率低下は全国的な傾向だが、2023年秋に控える県議選の本選で有権者の関心をどこまで集められるか。 あわせて読みたい 【高額報酬】存在感が希薄な福島県議会 渡辺義信県議会議長に「白河市長」待望論!?

  • 【会津若松・喜多方・福島】市街地でクマ被害多発のワケ

     2022年は市街地でのクマ出没やクマによる人的被害が目立った1年だった。会津若松市では大型連休初日、観光地の鶴ヶ城に出没し、関係部署が対応に追われた。クマは冬眠の時期に入りつつあるが、いまのうちに対策を講じておかないと、来春、再び深刻な被害を招きかねない。 専門家・マタギが語る「命の守り方」  会津若松市郊外部の門田町御山地区。中心市街地から南に4㌔ほど離れた山すそに位置し、周辺には果樹園や民家が並ぶ。そんな同地区に住む89歳の女性が7月27日正午ごろ、自宅近くの竹やぶで、頭に傷を負い倒れているところを家族に発見された。心肺停止状態で救急搬送されたが、その後死亡が確認された。クマに襲われたとみられる。  「畑に出かけて昼になっても帰ってこなかったので、家族が探しに行ったら、家の裏の竹やぶの真ん中で仰向けに倒れていた。額の皮がむけ、左目もやられ、帽子に爪の跡が残っていた。首のところに穴が空いており、警察からは出血性ショックで亡くなったのではないかと言われました」(女性の遺族) 女性が亡くなっていた竹やぶ  現場近くでは、親子とみられるクマ2頭の目撃情報があったほか、果物の食害が確認されていた。そのため、「食べ物を求めて人里に降りて来たものの戻れなくなり、竹やぶに潜んでいたタイミングで鉢合わせしたのではないか」というのが周辺住民の見立てだ。  8月27日早朝には、同市慶山の愛宕神社の参道で、散歩していた55歳の男性が2頭のクマと鉢合わせ。男性は親と思われるクマに襲われ、あごを骨折したほか、左腕をかまれるなどの大けがをした。以前からクマが出るエリアで、神社の社務所ではクマ除けのラジオが鳴り続けていた。 愛宕神社の参道  大型連休初日の4月29日早朝には、会津若松市の観光地・鶴ヶ城公園にクマが出没し、5時間にわたり立ち入り禁止となった。市や県、会津若松署、猟友会などが対応して緊急捕獲した。5月14日早朝には、同市城西町と、同市本町の諏訪神社でもクマが目撃され、同日正午過ぎに麻酔銃を使って緊急捕獲された。  市農林課によると、例年に比べ市街地でのクマ目撃情報が増えている。人的被害が発生したり、猟友会が緊急出動するケースは過去5~10年に1度ある程度だったが、2022年は少なくとも5件発生しているという。  鶴ヶ城に出没したクマの足取りを市農林課が検証したところ、千石バイパス(県道64号会津若松裏磐梯線)沿いの小田橋付近で目撃されていた。橋の下を流れる湯川の川底を調べたところ、足跡が残っていた。クマは姿を隠しながら移動する習性があり、草が多い川沿いを好む。  このことから、市中心部の東側に位置する東山温泉方面の山から、川伝いに街なかに降りてきた線が濃厚だ。複数の住民によると、東山温泉の奥の山にはクマの好物であるジダケの群落があり、クマが生息するエリアとして知られている。  市農林課は河川管理者である県と相談し、動きを感知して撮影する「センサーカメラ」を設置した。さらに光が点滅する「青色発光ダイオード」装置を取り付け、クマを威嚇。県に依頼して湯川の草刈りや緩衝帯作りなども進めてもらった。その結果、市街地でのクマ目撃情報はなくなったという。  それでも市は引き続き警戒しており、10月21日には県との共催により「市街地出没訓練」を初めて実施。関係機関が連携し、対応の手順を確認した。  市では2023年以降もクマによる農作物被害を減らし、人的被害をゼロにするために対策を継続する。具体的には、①深刻な農作物被害が発生したり、市街地近くで多くの目撃情報があった際、「箱わな」を設置して捕獲、②人が住むエリアをきれいにすることでゾーニング(区分け)を図り、山から出づらくする「環境整備」、③個人・団体が農地や集落に「電気柵」を設置する際の補助――という3つの対策だ。  さらに2023年からは、郊外部ばかりでなく市街地に住む人にも危機意識を持ってもらうべく、クマへの対応法に関するリーフレットなどを配布して周知に努めていく。これらの対策は実を結ぶのか、2023年以降の出没状況を注視していきたい。 一度入った農地は忘れない  本州に生息しているクマはツキノワグマだ。平均的な大きさは体長110~150㌢、体重50~150㌔。県が2016年に公表した生態調査によると、県内には2970頭いると推定される。  クマは狩猟により捕獲する場合を除き、原則として捕獲が禁じられている。鳥獣保護管理法に基づき、農林水産業などに被害を与える野生鳥獣の個体数が「適正な水準」になるように保護管理が行われている。  県自然保護課によると、9月までの事故件数は7件、目撃件数は364件。2021年は事故件数3件、目撃件数303件。2020年が事故件数9件、目撃件数558件。「件数的には例年並みだが、市街地に出没したり、事故に至るケースが短期間に集中した」(同課担当者)。  福島市西部地区の在庭坂・桜本地区では8月中旬から下旬にかけて、6日間で3回クマによる人的被害が続発した。9月7日早朝には、在庭坂地区で民家の勝手口から台所にクマが入り込み、キャットフードを食べる姿も目撃されている。  会津若松市に隣接する喜多方市でも10月18日昼ごろ、喜多方警察署やヨークベニマル喜多方店近くの市道でクマが目撃された。  河北新報オンライン9月23日配信記事によると、東北地方の8月までの人身被害数40件は過去最多だ。  クマの生態に詳しい福島大学食農学類の望月翔太准教授は「2021年はクマにとってエサ資源となるブナやミズナラが豊富で子どもが多く生まれたため、出歩くことが多かったのではないか」としたうえで、「2022年は2021年以上にエサ資源が豊富。2023年の春先は気を付けなければなりません」と警鐘を鳴らす。  「クマは基本的に憶病な動物ですが、人が近づくと驚いて咄嗟に攻撃します。また、一度農作物の味を覚えるとそれに執着するので、1回でも農地に入られたら、その農地を覚えていると思った方がいい」  今後取るべき対策としては「まず林や河川の周りの草木を伐採し、ゾーニングが図られるように見通しのいい環境をつくるべきです。また、収穫されずに放置しているモモやカキ、クリの木を伐採し、クマのエサをなくすことも重要。電気柵も有効ですが、イノシシ用の平面的な配置では乗り越えられてしまうので、クマ用に立体的に配置する必要があります」と指摘する。 近距離で遭遇したら頭を守れ クマと遭遇した時の対応を説明する猪俣さん  金山町で「マタギ」として活動し、小さいころからクマと対峙してきた猪俣昭夫さんは「そもそもクマの生態が変わってきている」と語る。 奥会津最後のマタギposted with ヨメレバ滝田 誠一郎 小学館 2021年04月20日頃 楽天ブックス楽天koboAmazonKindle  「里山に入り薪を取って生活していた時代はゾーニングが図られていたし、人間に危害を与えるクマは鉄砲で駆除されていました。だが、里山に入る人や猟師が少なくなると、山の奥にいたクマが、農作物や果物など手軽にエサが手に入る人家の近くに降りてくるようになった。代を重ねるうちに人や車に慣れているので、人間と会っても逃げないし、様子を見ずに襲う可能性が高いです」  山あいの地域では日常的にクマを見かけることが多いためか、「親子のクマにさえ会わなければ、危険な目に遭うことはない」と語る人もいたが、そういうクマばかりではなくなっていくかもしれない。  では、実際にクマに遭遇したときはどう対応すればいいのか。猪俣さんはこう説明した。  「5㍍ぐらい距離があるといきなり襲ってくることはないが、それより近いとクマもびっくりして立ち上がる。そのとき、大きな声を出すと追いかけられて襲われるので、思わず叫びたくなるのをグッと抑えなければなりません。クマが相手の強さを測るのは『目の高さ』。後ずさりしながら、クマより高いところに移動したり、近くの木を挟んで対峙し行動の選択肢を増やせるといい。少なくとも、私の場合そうやって襲われたことはありません」  一方、前出・望月准教授は次のように話す。  「頭に傷を負うと致命傷になる可能性が高い。近距離でばったり出会った場合はうずくまったり、うつ伏せになり、頭を守るべきです。そうすれば、仮に背中を爪で引っかかれてもリュックを引き裂かれるだけで済む可能性がある。研修会や小学校などで周知しており、広まってほしいと思っています」  県では、会津若松市のように対策を講じる市町村を補助する「野生鳥獣被害防止地域づくり事業」(予算5300万円)を展開している。ただ、高齢化や耕作放棄地などの問題もあり、環境整備や効果的な電気柵設置は容易にはいかないようだ。  来春以降の被害を最小限に防ぐためにも、問題点を共有し、地域住民を巻き込んで抜本的な対策を講じていくことが求められている。

  • 郡山市の専門学校【FSGカレッジリーグ】仮想空間で授業を実施

     専門学校グループ「学校法人国際総合学園 FSGカレッジリーグ」(郡山市)は1984(昭和59)年の開校以来、38年間積み上げてきた指導ノウハウと、2万0900人以上の卒業生ネットワークによる学生支援体制を備え、若者の学び場の充実を図り続けてきた。同グループは5校57学科で構成されており、東北最大級の規模を誇る。  グループ校の一つ、国際アート&デザイン大学校では9月、米国発メタバース「Virbela(バーベラ)」の日本向けプラットフォーム「GIGA TOWN(ギガタウン)」を活用した実証授業を実施した。専門学校としては初の試み。  メタバースとはインターネットの中に構築された仮想空間のこと。自分自身の分身(アバター)を操作して他者と交流できる。ゲームなどで使われてきたが、近年はビジネスシーンでの利用も進んでおり、今後の成長が見込まれている。  同校は「ギガタウン」の日本公式販売代理店・㈱ガイアリンク(長野県)と連携。学生らはアバターを使って「ギガタウン」での授業に参加し、事例研究、ゲーム、ディスカッション、グループ発表などを行った。  参加した学生からは「実際にその場で授業を受けているような臨場感があり、楽しかった。テーブルごとに個別通話できたり、画面を複数に分けて資料を提示できるなど、さまざまな機能があり、使いやすかったです」との声が聞かれた。  実証授業は学生の夢や目標達成のためのスキル、コミュニケーション力を育む目的で行われたもの。同校では5月にも、ICT関連やデジタルコンテンツ分野の教育機関を運営するデジタルハリウッド㈱(東京都)と連携し、アバター生成・操作のアプリケーションを使用した実証授業を行っている。  同グループでは教育のICT化を進める「Ed―Tech推進室」が中心となって、ICT技術・デジタル化を活用した効果的な授業の在り方を検討しており、同校の授業に積極的に取り入れている。  例えば、同校コミックマスター科では県内で初めて、アニメーション制作ソフト「Live2D」を授業に導入した。同ソフトは低コストで原画の画風を保ったアニメーションが制作できることから、家庭用ゲームやスマートフォンアプリに多く使用されている。同校は「Live2D」モデル作成ソフトライセンス無償貸与の教育支援プログラム認定校に県内で唯一指定されているため、授業での使用が可能となった。  一方でアナログテクニックを身に付ける実習も充実させており、どんな現場にも対応できる即戦力のスペシャリストの養成に努める。  ICT関連の資格取得も全力で支援しており、「PhotoShop(フォトショップ)クリエイター能力認定試験」の合格率は100%を誇る。さらにCGクリエイター検定の文部科学大臣賞を全国で唯一3年連続受賞している。  同グループが目標として掲げているのは「ONLY1、No・1」の教育実績。今後もコロナ禍以降本格的に導入したICT教育を発展させる形で、メタバースを活用した授業を推進し、学生一人ひとりのニーズに沿った教育を行うことで、夢の実現をサポートしていく考えだ。 FSGカレッジリーグのホームページ FSGカレッジリーグのオープンキャンパス・保護者説明会に参加する

  • 京都・仁和寺で「カラー絵巻」一般公開【福島県双葉町出身学芸員が解説】

     京都を代表する古刹・仁和寺で、明治時代に作られた「戊辰戦争絵巻」のデジタル彩色版が12月8日まで一般公開されている。福島県と何かと関係が深い戊辰戦争だが、その絵巻がなぜいま京都の寺院でカラー化されて公開されたのか。双葉町出身の学芸員に、その背景や一般公開の見どころを解説してもらった。 デジタル技術で蘇る戊辰戦争の風景 仁和寺金堂  仁和寺は888(仁和4)年、宇多天皇が先帝の光孝天皇の遺志を継いで創建した寺院で、真言宗御室派の総本山。1994(平成6)年にユネスコの世界遺産に登録された。境内に咲く遅咲きの「御室桜」が有名で、和歌などにも詠まれている。  皇族や公家が出家して住職を務める門跡寺院で、歴代天皇の厚い帰依を受けたことから、優れた絵画・書籍・彫刻・工芸品が数多く所蔵されている。創建当時の本尊である「阿弥陀三尊像(国宝)」をはじめ、国宝12件、重要文化財48件、古文書数万点を保存・管理している。  そんな同寺院の所蔵物の一つである「戊辰戦争絵巻」をデジタル彩色するプロジェクトが進められている。  戊辰戦争の幕開けとなった1868(明治元)年の「鳥羽伏見の戦い」を描いた絵巻で、全39場面。幅31㌢、長さは上下巻合わせて約40㍍。  「歴史資料に光彩を与えたことで、情報がより写実的になりました。例えば紅蓮の炎や血色染まる兵士の姿は、視覚的に凄惨さを増しましたが、その痛ましさに想像力を持って向き合うことで、絵巻に描かれていることは『物語』ではなく『歴史』であるという気づきをもたらすのではないか、と思います」  デジタル彩色の狙いについて、こう解説するのは双葉町出身の仁和寺学芸員・朝川美幸さんだ。  1971(昭和46)年生まれ。双葉高校、東洋大文学部卒。立命館大学大学院文学研究科博士前期課程を修了。年数回開催される仁和寺霊宝館名宝展の企画・展示を担当。共著に『もっと知りたい仁和寺の歴史』(東京書籍)がある。小さいころに真言密教に興味を抱き、仏教のことを学び続けている専門家だ(本誌2018年1月号参照)。  朝川さんによると、仁和寺と戊辰戦争のつながりは深い。仁和寺第30世の純仁法親王は1867(慶応3)年に還俗(出家した人が俗人に戻ること)し、仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあきら)親王と名を改めた。その後、征夷大将軍に任命され、鳥羽伏見の戦いで新政府軍を率いた。出陣の際には仁和寺に仕えていた坊官や寺侍が警備に回った。  明治の世になってから、時代の転換点となった戦争を記録し、その事実を絵巻として残すことになった。戦争体験者の東久世通禧伯爵と林友幸子爵が計画し、1889(明治22)年に完成。明治天皇に献上された。1891(明治24)年には保勲会がモノクロ、木版画の複製品を若干部制作し、仁和寺などに寄贈した。  ただ、制作数が少なく事実を広く知ってもらうには至らなかったことから、絵巻の一部を新たに着色し、『錦の御旗』と改題して一般向けに刊行した。  今回のプロジェクトは、仁和寺に所蔵されていた絵巻(複製品)を超高精細スキャンによりデジタル化。『錦の御旗』や解説本の記述、専門家などの考証を参考に彩色し直して、原寸大で和紙に印刷するものだ。  デジタル彩色は「先端イメージング工学研究所」(京都市左京区)代表理事で、京都大学名誉教授の井手亜里さんが率いるプロジェクトチームが担当。10カ月かけて彩色を行い、ようやく完成した。 デジタル彩色のメリット  絵巻の撮影に同席し、一部の絵巻の解説文執筆も担当した朝川さんはこう説明する。  「超高精細デジタルスキャニング技術で撮影したことで、現物を何度も広げずに済み、画像を拡大してより細かい描写を読み解けるようになりました。保存・分析、両面でメリットがあったと思います。また、着色したことで、戊辰戦争の様子をイメージしやすくなり、幅広い方に興味を持っていただきやすくなったと思います」 仁和寺霊宝館で解説する朝川さん  完成したデジタル彩色絵巻は2022年12月3~8日まで「令和絵巻に見る仁和寺と戊辰戦争」特別展で一般公開される。デジタル彩色絵巻と元来の絵巻(複製)の比較展示のほか、デジタル彩色絵巻をタッチパネル式の画面で見ることができる。好きな場所を指定して拡大することで高精細な画像の閲覧が可能。またオリジナル映像を視聴するコーナーも設けられている。12月3日には、絵巻に合わせて講談師・神田京子さんが講談を行うライブも開かれた。 ジタル彩色された「戊辰戦争絵巻」の一部(上は「第二図会津藩伏見上陸」、下は「第十三図征討大將軍節刀拜受」=画像:先端イメージング工学研究所提供)  同プロジェクトは文化庁の「Livng History(生きた歴史体感プログラム)促進事業」に採択されている。文化庁は京都への移転準備を進めており、2023年3月27日にはいよいよ業務が開始される。移転の目的は東京一極集中の是正に加え、「文化の力による地方創生」、「地域の多様な文化の掘り起こし・磨き上げによる文化芸術の振興」というもの。デジタルの力を使い地方の寺院に眠る歴史的資料の価値を磨き上げる同プロジェクトは、象徴的な活動と言えよう。  一般公開は期間限定であり、福島から離れているので、気軽には行けないかもしれないが、仁和寺は何かと福島に縁のある場所。世界遺産の建物や所蔵物が展示されている霊宝館(期間限定公開)はもちろん、春は桜、秋は紅葉が美しい観光スポットでもある。機会があればぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。 仁和寺ホームページ 【エアトリ】で予約して仁和寺に旅行をする

  • 【田村市】新病院施工者を独断で覆した白石市長

     田村市が建設を計画している新病院の施工予定者が〝鶴の一声〟で変更された。市幹部などでつくる選定委員会は、公募型プロポーザルに参加した3社の中から鹿島建設を最優秀提案者に選んだが、白石高司市長の指示で次点者の安藤ハザマに覆ったのである。 〝本田派議員〟が疑惑追及の百条委設置 「新病院の施工予定者が白石市長の指示で変更されたらしい」 そんなウワサを田村市内の自民党関係者から聞いたのは、2022年7月に行われた参院選の前だった。  新病院とは、田村地方の医療を支えるたむら市民病院(病床数32)の後継施設を指す。公には6月30日に市のホームページで「新病院の施工予定者選定に係る公募型プロポーザルの最優秀提案者に安藤ハザマ、次点者は鹿島建設」と発表され、7月4日付の福島建設工業新聞にも「新病院の施工予定者に安藤ハザマ」という記事が掲載された。 造成工事を終えた新病院予定地  ところが実際の審査では、最優秀提案者に鹿島、次点者に安藤ハザマが選ばれていたというのだ。  「2022年6月、市幹部などでつくる選定委員会が白石市長に『審査の結果、鹿島に決まった』と報告した。しかし白石市長が納得せず、次点の安藤ハザマに変更するよう指示したというのです。選定委員会は『何のために審査したか分からない』と不満に思ったが、上から言われれば従うしかない」(市内の自民党関係者)  一度聞いただけではまさかとしか思えない話。だが、それはウワサでもまさかでもなく、事実だった。  市長の指示で施工予定者が突然覆される――そんなかつての〝天の声〟を彷彿とさせる出来事はなぜ起きたのか。  たむら市民病院は、同市船引町の国道288号沿いで診療を行っている。もともとは医療法人社団真仁会が大方病院という名称で運営していたが、院長が急死したため2019年7月に市が事業継承、公的医療機関として生まれ変わった。診療科目は内科、人工透析内科、外科など10科。運営は指定管理者制度で公益財団法人星総合病院(郡山市)に委託している。  市立病院の設置は、2005年に旧5町村が合併した田村市にとって悲願だった。しかし、事業継承した時点で建物の老朽化、必要な病床数の確保、救急受け入れなどの課題を抱えていた。そこで市は2020年3月に新病院建設基本計画を策定、現在地から北東1・3㌔の場所(船引町船引字屋頭清水地内)に新病院を建設する方針を打ち出した。  2020~21年度にかけて予定地の造成を行い、その後は22年度着工、24年度開院というスケジュールが組まれたが、21年4月の市長選で状況が変化した。当時現職の本田仁一氏を破り初当選した白石高司市長が、公約に本田市政のもとで始まった公共工事の見直し(事業検証)を掲げたことから、新病院建設も一時中断を余儀なくされたのである。  その後、関係部局の職員たちが4カ月にわたり事業検証を行い、最終的に「新病院は市民にとって必要」と判断されたため、計画は予定より1年遅れて再始動した。2022年3月には建設基本設計概要書が公表され、新病院の具体像が示された。  問題の公募型プロポーザルはこの後に行われるが、ここからは、本誌が情報開示請求で市から入手した公文書に基づいて書いていく。  新病院の概要は病床50床、鉄筋コンクリート造地上4階建て、建築面積2790平方㍍、延べ面積6420平方㍍。このほか厨房施設と付属棟、250台分の駐車場を整備し、工期は2023年7月から25年1月。想定事業費は36億円程度となっている。  市は建設コスト縮減と工期短縮を図るため、施工者が設計段階から技術協力を行うECI方式の採用を決定。4月19日にプロポーザルの公告を行い、清水建設、鹿島、安藤ハザマから参加申し込みがあった。同28日には一次審査が行われ、3社とも通過した。  続く二次審査は6月25日に行われ、各社のプレゼンテーションと選定委員会によるヒアリング、さらには各委員による採点で最優秀提案者と次点者が選定された。 最高評価を受けていた鹿島  まずは評価が一目で分かる採点から見ていく。別表は選定委員7人による評価シートの合計だ。  選定委員会は、委員長を石井孝道氏(市総務部長)が務め、委員には渡辺春信氏(市保健福祉部長)、佐藤健志氏(市建設部長)のほか4人が就いた。市は部長以外の名前を公表していないが、そのうちの3人は南相馬市立総合病院の及川友好院長、たむら市民病院の指定管理者である星総合病院の担当者、日大工学部教授だったことが判明している。残り1人は不明。  その7人による採点の合計を見ると(各自の採点結果は開示された公文書が黒塗りで不明)、A社は505点、B社は480点、C社は405点となっている(満点は700点)。アルファベット表記になっているが、公文書を読み進めるとA社は鹿島、B社は安藤ハザマ、C社は清水建設であることが分かり「評価シートに基づく順位は委員間で異なった」と書かれている。  では、各委員の評価ポイントはどうだったのか。公文書には当時の発言順に次のように記されていた。  「A社は丁寧な技術提案や書類のつくり込みで好感が持てた。ヒアリングでのやり取りからもネガティブな要素は感じられず、安心して任せられると感じた。C社にはA社と全く逆の印象を持った。書類のつくり込みが粗いばかりか、ヒアリングでも発注者・審査員に対し礼を失する発言が多く、誠実さが感じられなかった。B社は様々な提案を盛り込んでいるが、果たしてそれがうまく収まるのか不安を感じた。工期に余裕がない点もネガティブ要素だった」(黒塗りで発言者不明)  「地域貢献に関して、書類上の金額と現実性が乖離している提案が目立った。特にB社の発注予定額は経験的に実現不可能と受け止めている。技術力に関しては提案者ごとにかなり差があると感じた。順位付けをするならA社<B社<C社の順だが、メンテナンス体制も含めるとA社の有意性がより際立つと感じた」(同)  「技術面では3社とも特に問題ないだろうと感じた。その中でも、A社は一番丁寧に提案書がつくられていた。地域貢献に関しては、その是非や実現性を判断するための情報が不足している」(佐藤委員)  「技術的な優劣は判断できない。市の姿勢として地域貢献を前面に出していただく必要がある」(渡辺委員)  「ここまでの委員の発言に同意。地域貢献に関しては、B社提案はリップサービスが過ぎたように感じる」(黒塗りで発言者不明)  「技術的な優劣は判断できないが、A社の提案は書類・説明ともに好印象だった。しっかりとした病院を確実に建てることが第一で、地域貢献はその次に考えること。地域貢献の配点が大きいため、個人的な評価と点数が一致していない。B社が提示した五つの課題は市の感覚とずれているように感じた」(石井委員長)  総体的に、A社(鹿島)の評価が高く、C社(清水建設)は厳しい意見が多く聞かれた。B社(安藤ハザマ)の提案も各委員が半信半疑に捉えている様子がうかがえる。  ただ、採点結果と評価ポイントのすり合わせを行っても順位の一致に至らなかったため、規程に基づき多数決を行った結果、A社4人、B社1人、C社0人となり、最優秀提案者に鹿島、次点者に安藤ハザマが選定された。  この結果を選定委員会事務局が白石市長に報告し、決裁後、速やかに各社に通知、市のホームページでも公表する手筈だったが、公文書(6月30日付の発議書)には次のような驚きの記述があった。  《6月28日及び同30日に実施した市長報告において、市長から本件プロポーザルにおいては地域貢献と見積額が重要な判断基準であるため、当該提案において最も有利な条件を提示している㈱安藤・間東北支店が次点者という審査結果は妥当性を欠くため、該社を最優秀提案者として決定するよう指示がありました》  白石市長から安藤ハザマに変更するよう指示があったと明記されていたのだ。  最終的にこの変更は6月30日に了承され、安藤ハザマには《厳正に審査した結果、御社の提案が最も評価が高く、本事業の最優秀提案者として選定されましたので通知いたします》、鹿島には《御社の提案が2番目に評価が高く、本事業の次点者として選定されました》という通知が白石市長名で送られた。市のホームページでも同日中に公表された。「厳正に審査」が白々しく聞こえるのは本誌だけだろうか。 百条委設置の経緯  前述した建設工業新聞の記事はこの直後に書かれたが、当時は最優秀提案者が覆された事実は公になっていなかった。ただ市議会では、安藤ハザマを最優秀提案者に選定したことに「別の視点」から疑問の声が上がっていた。  「6月に市役所ホールの吹き抜けの窓から雨漏りしている個所が見つかったが、市役所を施工したのが安藤ハザマと地元業者によるJVだったため、議員から『そんな業者に新病院建設を任せて大丈夫か』という懸念が出たのです」(市内の事情通)  市役所は2014年12月に竣工したが、事情通によると落札金額は安く抑えられたものの、その後、追加工事が相次ぎ、結局、事業費が膨らんだ苦い経験があるため、  「議員の間には『今回も安藤ハザマは同様の手口で事業費を増やしていくのではないか』という疑いが根強くある」(同)  これ以外にも、安藤ハザマは「過去に指名停止を受けている」「市に除染費用を水増し請求した」などの不信感が持たれている。ただ同様のトラブルは、鹿島や清水建設など他のゼネコンでも見られるので、安藤ハザマだけを殊更問題視するのはバランスを欠く。  「そうこうしているうちに『最優秀提案者は、本当は鹿島だったらしい』という話が議員にも伝わり、9月定例会で選定経過に関する質問が行われたが、白石市長は『地域貢献度も含め適正に審査した』と曖昧な答弁に終始したため、過半数の議員が反発する事態となった」(同)  ウワサは次第に尾鰭をまとい「〇〇社が白石市長に頼んで安藤ハザマに変わったらしい」「実際の工事は白石市長と同級生の××社が請け負うようだ」「白石市長は安藤ハザマからいくらもらったんだ」等々、真偽不明の話まで囁かれるようになった。白石市長が明確な答弁を避けたことが「何か隠している」という印象を与えたわけ。  9月定例会が終わりに近付くころには、一部議員の間で「真相を究明するには地方自治法100条に基づく調査特別委員会(百条委員会)を設置するしかない」という話が持ち上がり、10月27日に開かれた臨時議会で議員発議による設置が正式決定された。  《市は安藤ハザマを最優秀提案者にした理由の説明を避けてきたため、一部議員が反発していた。白石市長は臨時議会開会前の議員全員協議会で鹿島が選定委員会で最も点数が高かったと認め、「積算工事費や地域貢献計画などを比較し、安藤ハザマにした」と説明したが、採決の結果、賛成9、反対8で百条委設置が決まった》(福島民報10月28日付)  田村市議会は定数18。採決に加わらなかった大橋幹一議長(4期)を除く賛成・反対の内訳は別掲の通りだが、賛成した9人のうち、半谷理孝議員を除く8人は2021年4月の市長選で白石市長に敗れた本田仁一氏を支援していた。  ちなみに百条委の委員も、賛成した9人から大和田議員を除いた8人全員が就き、反対した8人からは誰も就かなかった。そのため「市長選の私怨が絡んだ面々で正しい調査ができるのか」と言われているが、委員に就いた議員からは「反対した議員には『調査の公平・公正を担保するため、そちら(反対)の議員も百条委に加わるべきだ』と申し入れたが断わられた」という不満が漏れている。  反対した8人は白石市長と距離が近いが、話を聞くと「百条委設置に反対したのに委員に就くのは筋が通らないと思った」と言う。しかし筆者は、本気で真相を究明するなら設置の賛否にこだわらず、議会全体で疑惑の有無を探るべきと考える。そうでなければ、せっかくつくった百条委が「反白石派の腹いせに利用されている」とねじ曲がった見方をされかねないからだ。  市保健福祉部の担当者はこう話す。  「百条委が設置されたことは承知しているが、具体的な動きがない限り市側はアクションを起こせないので、今後どうなるかは全く想像がつかない」  最後に、白石市長が安藤ハザマに変更した際に重視したとされる工事費や地域貢献度については市から入手した公文書にこんな記述がある。  例えば安藤ハザマは▽直接工事費の60%相当・工事費18億円以上を市内業者に発注、▽事務用品その他も4000万円以上を市内企業から購入、▽市内における関係者個人消費は3000万円以上。さらに概算工事費は45億8700万円と提示している。  一方、鹿島については市内業者への発注額、市内企業からの建設資機材購入額、概算工事費とも黒塗りされ詳細は不明だが、白石市長に次点者に追いやられたということは、いずれの金額も安藤ハザマより劣っていたことが推察される。 開院遅れで市民に不利益  だが、プロポーザルへの参加者を公募した際の公文書(4月19日付)にはこのように書かれている。  《選定委員会において技術提案及びプレゼンテーション等を総合的に審査し、最も評価の高い提案者を最優秀提案者に選定する》  選定委員会が最も高く評価した提案者を、市長の〝鶴の一声〟で変更していいとは書かれていない。白石市長は「工事費や地元貢献度の観点から安藤ハザマの方が優れており、やましい理由で変更したわけではない」と言いたいのだろうが、ルールに無い変更を独断で行った結果、疑惑を招き、市政を混乱させたことは事実であり、真摯に反省しなければならない。  何より新病院建設は前述した事業見直しで一時中断しており、今回の百条委でさらに遅れる可能性が出ている。高齢者や持病のある人にとって新病院は待望の施設なのに、開院がどんどん後ろ倒しになるのは不利益以外の何ものでもない。白石市長はたとえやましいことが無かったとしても、安藤ハザマに変更した理由を明確に示さない限り、市議会(百条委)は納得しないし、市民からも理解を得られないだろう。  白石市長は百条委設置を受け「プロポーザルに参加した業者の技術に差はなく、市民の利益を十分検討し最終決定した。調査には真摯に対応したい」とコメントしたが、今後の百条委で何を語るのか、それを聞いて百条委がどのように判断するのか注目される。 田村市ホームページ この記事を掲載している政経東北【2022年12月号】をBASEで購入する あわせて読みたい 白石田村市長が新病院施工業者を安藤ハザマに変えた根拠

  • 【富岡町】山本育男町長インタビュー

     1958年8月生まれ。原町高、東京農業大卒。町議を連続5期務め、副議長などを歴任。2021年7月の富岡町長選で初当選を果たした。  ――夜の森・大菅地区の特定復興再生拠点区域で、来春の避難指示解除に向けた準備が進められています。  「避難指示解除が現実的なものとなるまで長い年月を要しましたが、再び生活できる地域として生まれ変わろうとしているのは大変喜ばしいことです。本町では、故郷での生活を希望する方々が心地よく暮らしていける環境を整え、いつでも『おかえりなさい』と言える状況を築き上げていきます」  ――2021年、拠点区域外の地域に関しても「除染して希望するすべての住民が帰還できるよう2020年代をかけて避難指示の解除を進める」という政府方針が示されました。政府に求めることは。  「帰還困難区域を有する自治体の『再生を決してあきらめない』という気持ちと、団結した姿勢により実現した政府方針だと考えています。ただ、我々が求めているのはあくまで〝早期〟の帰還であり、町の全域除染です。現在の方針では帰還を望む人の家だけ除染されることになりますが、隣家の空間線量が高ければ意味がない。政府には住民の意向に沿った方針を示してほしいと思います」  ――「復興まちづくり」の見通しについて。  「将来を切り開くための基礎はできつつありますが、医療、福祉、教育、産業、絆の維持、住宅、移住促進など、取り組まなければならないことは多いです。希望と笑顔あふれるまちにするため、町民一人ひとりの声を丁寧に聞いて、着実に取り組んでいきます。今後はソフト事業に注力していく考えです。具体的には、元々住んでいた住民と、移住してきた方々をつなぐイベントを積極的に開き、交流を促していきます」  ――そのほか取り組んでいる重点事業は。  「短期的には、帰還者の多くが高齢者であることから、2022年開設した『共生型サポートセンター』を円滑に運営し、福祉の充実を図っていきます。一方で、子どもたちの健全育成を目的に造られた『富岡わんぱくパーク』を生かし、子どもの体力向上や運動不足の解消及び子育て世代の交流を促進していきます  中長期的には、人材育成・確保が重要になると考えているので、教育費用の無償化、移住者への住宅支援などに努めていきます」  ――今後の抱負。  「本町は全町避難した自治体なので、これから復興・再生していくにはかなりの労力・時間を要するものと考えています。それでも、将来を見据えた町政運営を進めていくのが我々の使命です。全国に避難している町民が少しでも早く故郷で生活したいと思える環境を整備していきます」 富岡町ホームページ 政経東北【2022年12月号】

  • 【福島商工会議所】渡邊博美会頭インタビュー

     わたなべ・ひろみ 1946年生まれ。福島大学経済学部卒業後、福島ヤクルト販売入社。2012年に福島商工会議所副会頭。13年11月に会頭就任。現在4期目。  福島商工会議所は2022年11月、会頭に渡邊博美氏=福島ヤクルト販売会長=を再任し、新体制がスタートした。渡邊会頭は、企業や商店の足腰を強くするため力を注いでいくことを4期目の抱負に掲げる。人口減少とコロナ禍が重くのしかかる県内だが、県庁所在地の商工会議所として、駅前再開発をエンジンに街に賑わいを取り戻そうと模索している。  ――会頭4期目の任期が始まりました。抱負をお聞かせください。  「震災後の2013年に就任してから9年、無我夢中で取り組んできました。新型コロナの拡大は、ワクチンで一時は改善が進むも、変異株でまた感染が広がるといったように、影響がなくなったわけではありません。いかに拡大防止と経済を両立させていくかにかかっています。  新型コロナ禍で経済活性化には課題が残り、あらゆる取り組みを講じても効果は実感できるには至りませんでした。経済活性化のために引き続き自分が頑張らなければならないと会頭再任をお引き受けしました。  今期は一つ一つの企業や商店の足腰を強くしていくことに力を注ぎたいです。市、県、国は支援策を用意していますがそれは一過性に過ぎません。いずれは民間が自力で事業を継続し、地元に雇用を生むようにならないといけません。職員や会議所の議員らとこの意識を共有し、最大限の力を発揮していきます。  副会頭には、新たに東邦銀行専務の須藤英穂氏が加わりました。事業承継を控える企業もあり、足腰を強くするには金融が今まで以上に重要となります。東邦銀行さんにはコンサルタント役を期待しています。経済と金融機関が一体となり地元経済を支えることを意識した布陣です」  ――円安や物価高、燃料費高騰が深刻な問題となっています。  「企業は、材料費、光熱費、社用車の燃料代がかさみます。企業努力にも限界があります。何よりも人口減少が消費を冷え込ませています。  福島県はピーク時は約210万人の人口(1997年)でしたが、現在は約180万人で30万人ほど減っています。『人口が1人減ると食費だけで年間100万円減る』と言われます。30万人減ったということは3000億円減ったということです。あらゆる商売に影響しているでしょう。人口減少は地域の努力だけでは解決できません。お子さんが欲しい方々が子どもを産んで育てやすい社会にするために、行政は抜本的な対策を打ち出す必要があります」  ――福島県商工会議所連合会の会長も務めています。国、県に要望したいことは何ですか。併せて3選した内堀雅雄知事に求めることは。  「経済団体の重要な仕事は行政への要望活動です。市や議会と同じ価値観で結集し、省庁や与党に要望に赴きます。東北中央道開通や国道13号福島西道路延長でも要望を重ねてきました。まちづくりに要望は不可欠で、今後はより力を入れなくてはならないと思います。  福島県は女性の転出者数が全国で最も多く最下位ということに問題意識を持っています。2012~2021年の10年間にわたり、4万1283人に上ります。女性が働きたくなるような仕事や条件を用意できない企業にも責任があると思っています。このままではますます人口減が進んでしまう。  多くの信任を得て再選した内堀知事には、あらゆる課題に切り口を変えてチャレンジする姿勢を見せてほしいと思います。知事は国とのパイプがあり、堅実なのが評価されています。これだけ信任されているのだから、優先順位を付けて一歩進んでメリハリをつけてもいい。  原発からの処理水対応に関しては『簡単ではない』『白か黒かではない』と誰もが理解しています。ただし、県民の立場で国、東電に言うべきことは言ってもいいと思います。  我々民間業者が危惧するのは風評被害です。福島県産農産物はまだ一部の国で海外への輸出が規制されています。これは福島県だけの問題ではありません。東電だけでなく、国が責任を持って『漁業者、加工業者に対し一切責任を持つ』と言ってもらわないといけません」  ――3年ぶりにわらじまつりが街中で開催されるなどイベントが復活しつつあります。  「コロナ後は、わらじまつりはウェブで開きました。ただ祭りはリアルでないといけないとの声が根強かったです。2022年は参加団体と時間を制限してリアル開催ができました。  街中で短距離走をする『ももりんダッシュ』も3年ぶりに行いました。古関裕而記念音楽祭も開かれました。毎週末のように何かしらイベントが開かれていますが、一方で周知不足を課題に感じています。主催の市、商店街、民間団体が連携して情報発信をするのが重要と考えます。『週末に行けば何かやっている』『フラッといったら楽しかった』。小規模なイベントを重ねて街中をそのように認識してもらえればいいのかなと思っています」  ――福島駅前再開発事業が本格始動しました。「福島駅東西エリア一体化推進協議会」の会長を務めていますが、駅前再開発、中心市街地活性化はどうあるべきと考えますか。  「事業は2026年までかかります。国道13号福島西道路を南へ延ばし、福島市南部で国道4号とつながる時期と重なります。西道路を北へ延ばす計画も国交省に要望しています。実現すれば、市街地を通る国道の完全なバイパスになるでしょう。  現在、大型トラックも市街地を通ります。事故の危険性も高まり、歩行者にも優しくありません。何よりもパセオ通りと駅前が国道で分断されています。  西道路に交通を逃がせれば、街中が一体化しイベントも行いやすくなります。福島駅東口の再開発と併せて福島市のポテンシャルが上がります。駅前には福島学院大学、医大の保健科学部キャンパスがあるので、若者の活気を得て街づくりができるのではないかと期待しています。  2022年秋田市で行われた東北絆まつり(東北六魂祭)はヒントでした。感染対策のため会場はスタジアムで酒類の提供もありませんでした。ですが、売り上げは良かったそうです。祭りと一緒に集結した東北のグルメに皆さんが舌鼓を打ったそうで、『酒が出せないなら儲けがない』と出店しなかった事業者が悔やむほどの盛況ぶりだったようです。コロナ禍でも経済は両立できると実証してくれました。  東北と新潟を合わせた7県で、あるいは福島市と東北中央道でつながる相馬、米沢と連携した街づくりも効果的なのではないでしょうか。福島県が震災・原発事故で打撃を受けたのは確かですが、助けを求めるだけではもう通用しません。力強く立ち上がって魅力ある地域にしていかなければなりません」 福島商工会議所ホームページ 政経東北【2022年12月号】

  • 【第3弾】【喜多方市】未来に汚染のツケを回した昭和電工

     昭和電工は2023年1月に「レゾナック」に社名変更する。高品質のアルミニウム素材を生産する喜多方事業所は研究施設も備えることから、いまだ重要な位置を占めるが、グループ再編でアルミニウム部門は消え、イノベーション材料部門の一つになる。土壌・地下水汚染対策に起因する2021年12月期の特別損失約90億円がグループ全体の足を引っ張っている。井戸水を汚染された周辺住民は全有害物質の検査を望むが、費用がかさむからか応じてはくれない。だが、不誠実な対応は今に始まったことではない。事業所は約80年前から「水郷・喜多方」の湧水枯渇の要因になっていた。 社名変更しても消えない喜多方湧水枯渇の罪  「昭和電工」から「昭和」の名が消える。2023年1月に「レゾナック」に社名変更するからだ。2020年に日立製作所の主要子会社・日立化成を買収。世界での半導体事業と電気自動車の成長を見据え、エレクトロニクスとモビリティ部門を今後の中核事業に位置付けている。社名変更は事業再編に伴うものだ。  新社名レゾナック(RESONAC)の由来は、同社ホームページによると、英語の「RESONATE:共鳴する、響き渡る」と「CHEMISTRY:化学」の「C」を組み合せて生まれたという。「グループの先端材料技術と、パートナーの持つさまざまな技術力と発想が強くつながり大きな『共鳴』を起こし、その響きが広がることでさらに新しいパートナーと出会い、社会を変える大きな動きを創り出していきたいという強い想いを込めています」とのこと。  新会社は「化学の力で社会を変える」を存在意義としているが、少なくとも喜多方事業所周辺の環境は悪い方に変えている。現在問題となっている、主にフッ素による地下水汚染は1982(昭和57)年まで行っていたアルミニウム製錬で出た有害物質を含む残渣を敷地内に埋め、それが土壌から地下水に漏れ出したのが原因だ。  同事業所の正門前には球体に座った男の子の像が立つ=写真。名前は「アルミ太郎」。地元の彫刻家佐藤恒三氏がアルミで制作し、1954(昭和29)年6月1日に除幕式が行われた。式当日の写真を見ると、着物を着たおかっぱの女の子が白い布に付いた紐を引っ張りお披露目。工場長や従業員とその家族、来賓者約50人がアルミ太郎と一緒に笑顔で写真に納まっていた。アルミニウム産業の明るい未来を予想させる。 喜多方事業所正門に立つ像「アルミ太郎」  2018年の同事業所CSRサイトレポートによると「昭和電工のアルミニウムを世界に冠たるものにしたい」という当時の工場幹部及び従業員の熱い願いのもと制作されたという。「アルミ太郎が腰掛けているのは、上記の世界に冠たるものにしたいという思いから地球を模したものだといわれています」(同レポート)。  同事業所は操業開始から現在まで一貫してアルミニウム関連製品を生産している。それは戦前の軍需産業にさかのぼる。 誘致当初から住民と軋轢  1939(昭和14)年、会津地方を北流し、新潟県に流れる阿賀川のダムを利用した東信電気新郷発電所の電力を使うアルミニウム工場の建設計画が政府に提出された。時は日中戦争の最中で、軽量で加工しやすいアルミニウムは重要な軍需物資だった。発電所近くの喜多方町、若松市(現会津若松市)、高郷村(現喜多方市高郷町)、野沢町(現西会津町野沢)が誘致に手を挙げた。喜多方町議会は誘致を要望する意見書を町に提出。町は土地買収を進める工場建設委員会を設置し、運搬に便利な喜多方駅南側の一等地を用意したことから誘致に成功した。  喜多方市街地には当時、あちこちに湧水があり、住民は生活用水に利用していた。電気に加え大量の水を使うアルミニウム製錬業にとって、地下に巨大な水がめを抱える喜多方は魅力的な土地だった。  誘致過程で既に現在につながる昭和電工と地域住民との軋轢が生じていた。土地を提供する豊川村(現喜多方市豊川町)と農民に対し、事前の相談が一切なかったのだ。農民・地主らの反対で土地売買の交渉は思うように進まなかった。事態を重く見た県農務課は経済部長を喜多方町に派遣し、「国策上から憂慮に堪えないので、可及的にこれが工場の誘致を促進せしめ、国家の大方針に即応すべきであることを前提に」と喜多方町長や豊川村長らに伝え、県が土地買収の音頭を取った。  近隣の太郎丸集落には「小作農民の補償料は反当たり50円」「水田反当たり850~760円」払うことで折り合いをつけた。高吉集落の地主は補償の増額を要求し、決着した。(喜多方市史)。  現在の太郎丸・高吉第一行政区は同事業所の西から南に隣接する集落で、地下水汚染が最も深刻だ。汚染が判明した2020年から、いまだに同事業所からウオーターサーバーの補給を受けている世帯がある。さらには汚染水を封じ込める遮水壁設置工事に伴う騒音や振動にも悩まされてきた。ある住民男性は「昔からさまざまな我慢を強いられてきたのがこの集落です。ですが、希硫酸流出へのずさんな対応や後手後手の広報に接し、今回ばかりは我慢の限界だ」と憤る。  実は、公害を懸念する声は誘致時点からあった。耶麻郡内の農会長・町村会長(喜多方町、松山村、上三宮村、慶徳村、豊川村、姥堂村、岩月村。関柴村で構成)は完全なる防毒設備の施工や損害賠償の責任の明確化を求め陳情書を提出していた。だが、対策が講じられていたかは定かではない(喜多方市史)。 喜多方事業所を南側から撮った1995年の航空写真(出典:喜多方昭寿会「昭和電工喜多方工場六十年の歩み」)。中央①が正門。北側を東西にJR磐越西線が走り、市街地が広がる。駅北側の湧水は戦前から枯れ始めた。写真左端の⑰は太郎丸行政区。  記録では1944(昭和19)年に初めてアルミニウムを精製し、汲み出した。だが戦争の激化で原料となるボーキサイトが不足し、運転停止に。敗戦後は占領軍に操業中止命令を食らい、農園を試行した時期もあった。民需に転換する許可を得て、ようやく製錬が再開する。  同事業所OB会が記した『昭和電工喜多方工場六十年の歩み』(2000年)によると、アルミニウム生産量はピーク時の1970(昭和45)年には4万2900㌧。それに伴い従業員も増え、60(昭和35)~72(昭和47)年には650~780人を抱えた。地元の雇用に大きく貢献したわけだ。  喜多方市史は数ある企業の中で、昭和30年代の同事業所を以下のように記している。  《昭和電工(株)喜多方工場は、高度経済成長の中で着実な成長を遂げ、喜多方市における工場規模・労働者数・生産額ともに最大の企業となった。また喜多方工場が昭和電工㈱内においてもアルミニウム生産の主力工場にまで成長した》  JR喜多方駅の改札は北口しかないが、昭和電工社員は「通勤者用工場専用跨線橋」を渡って駅南隣の同事業所に直接行けるという「幻の南口」があった。喜多方はまさに昭和電工の企業城下町だった。  だが石油危機以降、アルミニウム製錬は斜陽になり、同事業所も規模を縮小し人員整理に入った。労働組合が雇用継続を求め、喜多方市も存続に向けて働きかけたことから、アルミニウム製品の加工場として再出発し、現在に至る。  同事業所が衰退した昭和40年代は、近代化の過程で見過ごされてきた企業活動の加害が可視化された「公害の時代」だ。チッソが引き起こした熊本県不知火海沿岸の水俣病。三井金属鉱業による富山県神通川流域のイタイイタイ病。石油コンビナートによる三重県の四日市ぜんそく。そして昭和電工鹿瀬工場が阿賀野川流域に流出させたメチル水銀が引き起こした新潟水俣病が「四大公害病」と呼ばれる。 ※『昭和電工喜多方工場六十年の歩み』と同社プレスリリースなどより作成  同じ昭和電工でも、喜多方事業所は無機化学を扱う。同事業所でまず発覚した公害は、製錬過程で出るフッ化水素ガスが農作物を枯らす「煙害」だった。フッ化水素ガスに汚染された桑葉を食べた蚕は繭を結ばなくなり、明治以来盛んだった養蚕業は昭和20年代後半には壊滅したという。  もっとも、養蚕は時代の流れで消えゆく定めだった。同事業所が地元に雇用を生んだという意味では、プラスの面に目を向けるとしよう。それでも煙害は、米どころでもある喜多方の水稲栽培に影響を与えた。周辺の米農家は補償をめぐり訴訟を繰り返してきた。前述・アルミ太郎が披露された1954年には「昭電喜多方煙害対策特別委員会」が発足。希望に満ちた記念撮影の陰には、長年にわたる住民の怒りがあった。 地下水を大量消費  フッ化水素ガスによる農産物への被害だけでなく、同事業所は地下水を大量に汲み上げ、湧水枯渇の一因にもなっていた。「きたかた清水の再生によるまちづくりに関する調査研究報告書」(NPO法人超学際的研究機構、2007年)は、喜多方駅北側の菅原町地区で「戦前から枯渇が始まり、市の中心部へ広がり、清水の枯渇が外縁部へと拡大していった」と指摘している。06年10月に同機構の研究チームが行ったワークショップでは、住民が「菅原町を中心とした南部の清水も駅南のアルミ製錬工場の影響で枯渇した」と証言している。同事業所を指している。  研究チームの座長を務めた福島大の柴﨑直明教授(地下水盆管理学)はこう話す。  「調査では喜多方の街なかに住む古老から『昭和電工の工場が水を汲み過ぎて湧水が枯れた』という話をよく聞きました。アルミニウム製錬という業種上、戦前から大量の水を使っていたのは事実です。豊川町には同事業所の社宅があり、ここの住人に聞き取りを行いましたが、口止めされているのか、勤め先の不利益になることは言えないのか、証言する人はいませんでした」  地下水の水位低下にはさまざまな要因がある。柴﨑教授によると、特に昭和40年代から冬季の消雪に利用するため地下水を汲み上げ、水位が低下したという。農業用水への利用も一因とされ、これらが湧水枯渇に大きな影響を与えたとみられる。   ただし、戦前から湧水が消滅していたという証言があることから、喜多方でいち早く稼働した同事業所が長期にわたって枯渇の要因になっていた可能性は否めない。ワークショップでは「地下水汚染、土壌汚染も念頭に置いて調査研究を進めてほしい」との声もあった。  この調査は、地下水・湧水が減少傾向の中、「水郷・喜多方」を再認識し、湧水復活の契機にするプロジェクトの一環だった。喜多方市も水郷のイメージを生かした「まちおこし」には熱心なようだ。  2022年10月には、市内で「第14回全国水源の里シンポジウム」が開かれた。同市での開催は2008年以来2度目。実行委員長の遠藤忠一市長は「水源の里の価値を再確認し、水源の里を持続可能なものとする活動を広げ、次世代に未来をつないでいきたい」とあいさつした(福島民友10月28日付)。参加者は、かつて湧水が多数あった旧市内のほか、熱塩加納、山都、高郷の各地区を視察した。 「水源の里」を名乗るなら 昭和電工(現レゾナック)  昭和電工は戦時中の国策に乗じて喜多方に進出し、アルミニウム製錬で出た有害物質を含む残渣を地中に埋めていた。「法律が未整備だった」「環境への意識が希薄だった」と言い訳はできる。だが「喜多方の水を利用させてもらっている」という謙虚な気持ちがあれば、周辺住民の「湧水が枯れた」との訴えに耳を傾けたはずで、長期間残り続ける有害物質を埋めることはなかっただろう。喜多方の水の恩恵を受けてきた事業者は、酒蔵だろうが、地元の農家だろうが、東京に本社がある大企業だろうが、水を守る責任がある。昭和電工は奪うだけ奪って未来に汚染のツケを回したわけだ。  喜多方市も水源を守る意識が薄い。遠藤市長は「水源の里を持続可能なものとする活動を広げる」と宣言した。PRに励むのは結構だが、それは役所の本分ではないし得意とすることではない。市が「水源の里」を本当に守るつもりなら、果たすべきは公害問題の解決のために必要な措置を講じることだ。   住民は、事業所で使用履歴のない有害物質が基準値を超えて検出されていることから、土壌汚染対策法に基づいた地下水基準全項目の調査を求めている。だが、汚染源の昭和電工は応じようとしない。膠着状態が続く中、住民は市に対し昭和電工との調整を求めている。市長と市議会は選挙で住民の負託を受けている。企業の財産や営業の自由は守られてしかるべきだが、それよりも大切なのは市民の健康と生活を守ることではないか。 あわせて読みたい 【第1弾】親世代から続く喜多方昭和電工の公害問題 【第2弾】【喜多方市】昭和電工の不誠実な汚染対策 【第4弾】【喜多方市】処理水排出を強行する昭和電工 【第5弾】土壌汚染の矮小化を図る昭和電工【喜多方市】